6 価値
「変人からの土産だ。水蓮と飲んでくれ」
壬氏が徳利を卓の上に置く。
栓を開けると、柑橘の匂いがした。
「変人からですか」
なんの感慨もわかない声で答える。
壬氏は長椅子に寝そべり、火鉢に炭をくべる猫猫を見る。
高順は、底の尽きかけた炭をみると部屋を出て行った。とりにいってくれるのだろう、さすがまめ男である。
「緑青館のなじみとかくわしいのか?」
「派手に立ち回るひとであれば」
「どんな奴がいる?」
「守秘義務ですので」
壬氏はそっけない答えに眉をしかめる。
質問の仕方を間違っていることに気づいたらしく、違う言葉で言い換えた。
「では、妓女の価値を下げるにはどうすればいい」
「不愉快なことを聞きますね」
猫猫は軽くため息をつく。
「いくらでもありますよ。特に上位の妓女ならば」
最高級の妓女になると、仕事の数も月に数回と少ないものだ。売れっ子が常に客を取っているわけでない。むしろ、客を毎日とらねばならぬのは、夜鷹といったその日の銭にあえぐものたちである。
上位の妓女ほど、露出を好まない。
詩歌や踊り、楽を学び、その教養にて客をとるのだ。
緑青館では禿時代に一通りの教育を済ませる。そのなかで、容貌の悪くない、見込のあるものと、そうでないものに分ける。
後者は、顔見世が終わるとすぐ客をとるようになる。芸ではなく身を売るのだ。
見込みのあるものは、茶飲みから始まり、より顧客をつかむ話術の長けたもの、才知の長けたものはどんどん値を釣り上げられる。そこで、わざと人気妓女の露出を減らすことで、茶飲みだけで一年の銀が尽く売れっ子妓女が出来上がるのだ。
なので、身請けまで客に一度も手を付けられない妓女もいる。まあ、男の浪漫というもので、花を最初に手折るのは自分でいたいと思うのだ。
「手つかずの花だからこそ、価値があるのです」
猫猫は鎮静効果のある香を焚く。
「手折れば、それだけで価値は半減します。さらに」
猫猫は小さく息を吐いて、鎮静香を吸い込んだ。
「子を孕ませれば、価値などないに等しくなります」
なんの感慨もなく言ってのけたはずだ。
○●○
にやにやとした狐のような御仁は、昨日の言のとおりに現れた。
ご丁寧に柔らかい座布団付の長椅子を部下に持ってこさせていた。
一体、どれくらい居座るつもりなのだ。
「昨日の話の続きをしましょうか?」
持参の徳利から果実水を手酌で注ぐ。
茶菓子まで持ち込んで、書類だらけの机の上に、乳酪香る焼き菓子が置かれた。直に置くのはやめていただきたい、書につく油の跡を見て高順が頭を抱える。
「本当に、随分あくどい事をなされたようですね」
書類に判を押しながらいった。書類の中身は頭に入らなかったが、後ろに控える高順が何も言わないので問題ないだろう。
猫猫の答えから、このずる賢い狂人が何をやったか想像がついた。
そして、もうひとつあまり歓迎できない憶測が頭に浮かんだ。
理解できないわけじゃない、辻褄もあう、いくつかの点で納得ができる。
なぜ、緑青館の身請け話から突っかかってきたのか。
なぜ、昔の馴染みの話をしたのか。
しかし、そのことを認めてしまいたくなかった。
「あくどいとは失礼な。とんびに言われたくない話だ」
片眼鏡の奥の目を細め、羅漢が笑う。
「ようやく、やり手婆を説得したのに。十年以上かかったんだ」
からんと杯を傾ける。果実水の中には氷の欠片がうかんでいた。
「油揚げを返せと?」
「いいや、いくらでも出しましょう。昔と同じ轍は踏みたくないのでね」
「嫌だといったら?」
「そういわれると、何も言えませんな。貴方様に逆らえるものなど、片手の指折りほどに存在しない」
じわじわと回り込む言い方をする。すこぶる居心地が悪い。
羅漢は片眼鏡を取ると、手ぬぐいで拭く。曇りがとれたと確認すると、左目につけた。さっきまで右につけていたので、ただの伊達であることがわかる。さすが変人だ。
「ただ、娘がどう思うかなのですけど」
『娘』という言葉を強調する。
ああ、いやだ、つまりそういうことなのだろう。
羅漢は猫猫の実の父親だ。
壬氏は判を押す手を完全に止める。
「そのうち会いに行くと伝え願えますか?」
羅漢は乳酪だらけの指を舐めると執務室を出て行った。
長椅子を置いて行ったままなので、また来るということなのだろう。
壬氏と高順は、示し合せるわけでもないが、同時に頭をうなだれると、大きなため息をついた。
「今度、おまえに会いたいという官がいるのだが」
伝えないわけにもいかず、正直に猫猫に言った。
「どんなかたですか」
猫猫は無表情の奥になにかうずうずしたものを隠していているようだが、いつもどおり冷静な口調であった。
「ああ、羅漢という……」
最後まで言葉を紡ぐ間もなく、猫猫の表情が変わった。
いままで、地虫のように、干からびた蚯蚓のように、汚泥のように、塵芥のように、蛞蝓のように、潰れた蛙のように、とりあえずいろんな侮蔑の目で見られてきたが、そんなもの生ぬるいものであったと気が付いた。
到底、筆舌しがたい。
たとえ壬氏でもこれを向けられたらさすがに生きていけないだろう。
心の根底を叩きつぶし、煮えたぎる鉄に流し込まれ、灰も残らないような。
そんな表情を猫猫は作っていた。
「……どうにか断っておく」
「ありがとうございます」
放心状態のまま、それだけしか言えなかった。
心臓が止まらなかったのが不思議なくらいだ。
猫猫はもとの無愛想な顔に戻ると、自分の仕事に戻るのだった。
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