5 羅漢
門限破りをねちねちと言われた猫猫であったが、どうやら今後、破らなければ今回は目を瞑るという。
よくよく考えてみれば、多少の変態行為に目を向けなければ、随分待遇のいいことに改めて気が付いた。
(それなのに、自分は好き勝手に)
壬氏に対して、愛想のない返事をしたり、敬わなかったり、変態扱いしたり、這い回る地虫を見るかのごとくながめたり。
自分が主人なら、こんな女官即解雇にしているところだ。むしろ、縛り首にしていることだろう。
(そうなると、薬草が)
給金はどうでもいい、ほかに稼ぐ方法はある。
しかし、渡来物の薬草など花街の薬屋には手の届かない一品だ。
毒実験を数年我慢しても欲しいものはいくらでもある。
今後は、誠心誠意仕えるべきだと、表情筋に妓女教育で鍛えられた営業微笑を貼り付けて壬氏を迎えてみた。
壬氏が呆けた顔をしたので、貼り付ける表情を間違えたのかと思ったら、いきなり抱きつかれた。
がらにもなく声を上げてしまったので、何事かと高順と初老の女官、水蓮が飛び出してきた。
高順は額をおさえ、水蓮はあらあらと呑気に「だめじゃないの、坊ちゃま」と軽くいなしてくれた。
忘れていた。
たとえ宦官であったとしても、存在自体が卑猥である。歩くわいせつ物だ。花の顔に騙されてはいけない。
それにしても、二十半ばにみえるのにいまだ坊ちゃま扱いなのかと、猫猫は思った。
ここのところ、仕事の帰りが早いのは、溜まっていた仕事を片付けていたかららしい。
たまたま、部屋を飛び出した日に、仕事が片付いたようだ。
(もう少し時間を置けばよかったか)
今更、遅い話である。
その仕事というのは、どうにも相手が悪かったらしい。
軍部の高官らしく、頭は切れるが変人だと有名らしい。
なにかと難癖をつけて、客人を部屋に連れ込み、または突撃し、将棋をうったり、世間話をしては案件の判をうつのを先延ばしにするという。
今回、標的にされたのは壬氏とのこと。
おかげで、毎日、一時は執務室に居座られ、その分残業していたのだという。
「どこの隠居ですか、それは」
「まだ四十路過ぎだ。自分の仕事は終わらせるぶん、たちが悪い」
(四十路すぎ、軍部の高官、変人?)
どこかでおぼえのある言葉だったが、思い出してもろくなことがなさそうなので猫猫は忘れることにした。
まあ、忘れたところで、いつもの嫌な予感はきていたのが。
○●○
「案件はもう通ったはずですが」
招かれざる客に、壬氏は天女の笑みを浮かべていった。ひきつらないようにするには努力を要する。
「いやいや、冬に花見は難しい。ならば、こちらでと思いましてな」
無精ひげに片眼鏡をつけた飄々とした中年がそこにいた。
武官服を着ているが、その容姿は文官にこそふさわしく、細い狐のような目は理知とともに狂気を孕んでいた。
男の名を羅漢、軍師をやっている。時代が時代なれば、太公望と言われた男だろうが、今の世ではただの変人にすぎない。
家柄は良いが、四十を過ぎても妻帯せず、甥御を養子にとって家の管理を任せている。
羅漢の興味のあるものといえば、碁と将棋と噂話。相手が興味なくても無理やり巻き込んでいく。
ここ最近、壬氏に突っかかってきた理由といえば、緑青館の妓女を身請けした件である。
さすがに、宮廷内に派手な衣装を着た娘が歩いていれば噂になる。正直もみ消すのに苦労した。
表向きは後宮四夫人の話相手である。別におかしな話ではない。妓女といっても、才のあるものはそのまま官にむかえられることも皆無ではないのだから。
それなのに、うら若き娘のごとく噂の好きなこの御仁は、あることないことあること吹き込んで、軍部では壬氏が身請けしたということになっている。いや、間違っているとは言い難いが。
猫猫は「目立つので着替えましょう」と言ってくれたが、今後、まともに着飾ることはそんなにないだろうと、そのままにさせた。その考えが甘かったとは思うが、今その状況に陥っても多分着替えさせることはないだろう。
おっさんのどこからわくのかわからない話の数々を右から左に聞き流し、高順の持ってきた書類に判を押す。
「そういえば、緑青館に昔、なじみがいましてね」
意外な話だ。
色事などまったく興味のないことと思っていたが。
「どんな妓女ですか?」
つい興味をひかれて返してしまった。
羅漢はにんまりと笑うと、瑠璃杯に持参の果実水をつぐ。
「いい妓女でしたよ。碁と将棋が得意で、私も将棋は勝てるが碁は負けてばかりだった」
軍師殿を負かすとは、それは強かったのだろう。
「あれほど面白い女にはもう会えないだろうと、身請けも考えましたが、世の中うまくいかないものでね。ちょうど、物好きの金持ちが二人、競り合うように値を釣り上げていた」
「それはそれは」
時に妓女の身請け金は、離宮がひとつ建つ額になる。羅漢にも手が出せないというのはそういうことなのだろう。
「変わり者の妓女でして、芸は売れど身は売らず。それどころか、客を客とも思わない。茶を注ぐにも、主人に接するというより、下賤の民に施しを与えるような尊大な目で見ておりました。まあ、かくゆう私もそのひとりなのですが、背筋にぞくぞくとくる感覚がたまらないものでして」
「……」
どうにも居心地が悪く、目をそらしてしまった。控える高順も一文字にした唇を強く噛んでいる。
世の中、同じ趣味の人間はけっこういるものだ。
その心のうちを知ってか知らずか羅漢は続ける。
「いつか組み敷いてみたいと思っていたものですよ」
にやりと笑う男の目に、狂気に満ちた炎を垣間見た。
「結局、私もその妓女のことは諦めきれず、仕方なく少々汚い手を使いました。まあ、高くて手が出せないなら、安くなれば問題ないわけでして」
希少価値下げたんですよ、と。
「どんな方法をとったか知りたいですか?」
片眼鏡ごしに狐のような目が笑っている。
いつのまに相手を引き込む。これだから恐ろしい。
「ここまできてもったいぶるのですか」
「いやはや、もう時間でして。長居をすると部下に怒られる」
手のひらを返したように、羅漢は果実水を片付ける。もう一本用意していた徳利を壬氏の机の上に置いた。
「部屋付の女官たちにでもあげてくだされ。甘すぎない飲みやすい口ですから」
中年武官は手を振りながら、
「では、また明日」
と去って行った。