離宮 前編
「うんとね、だから早く嫁にいってくんない?」
「いやです」
猫猫はただでさえ無愛想な面をさらにしかめながら目の前にいる男に言う。まだ髭も生やしていない二十そこそこの若者である。その目付はまるで狐であり、猫猫にとって名前も言いたくないあの人物に似ている。
名を羅半、とある狐目変人軍師の甥で養子である。
たまに緑青館にやってきては、妙なことを言って帰っていくのは、伯父であり義父である奇人男とそっくりだ。
だがこの男の場合、そこに損得勘定というものが付随しているところを考えると、猫猫もまだ理解ができるかもしれない。なんせ、実の父を裏切って伯父の養子に入ったやつなのだ。
「別に財産について私は受け取るつもりはありません。なのであの男がいつ死んでも安心ですから、私についてとやかく言わないでください」
狐目の青年はつまらなそうに頬杖をつく。卓子には算盤が置いてあり、時折手遊びで球をはじいている。
血筋とは不思議なもので、あの狐中年も変人ならこの狐青年も変人である。算術に異常な興味があるのだ。それは研究者のそれだけでなく、いかにも俗的な金儲け主義につながっている。
「そういう意味じゃないんだよ。こっちとしては、体裁が悪いわけ。義父さんはおまえのことを『あれは千人の美女の中でも輝いて見えるほどの美しさだ』なんて言って回っているんだ」
「それは、過剰表現もいいところでしょうね」
羅漢は他人の顔を判別できない。特別に猫猫の顔だけは見分けがつくらしいが、それにしても語弊の塊としか言いようがない。
「だろ? 困ってるんだ。親ばかもいいとこだが、世の中困ったことにそれを本気にする馬鹿正直な奴がいて、そいつはまあ、なんというか、思った以上に悪くない物件であって、むしろ好条件すぎるわけで……」
つまり政略結婚にちょうどいいから、おまえ嫁に行け、だそうだ。女の結婚なんてそういうものだという価値観であるし、実際ほとんどの場合、それに乗らないわけがない。まあ、理解できなくもないが。
(断る!)
猫猫は話を聞いていても無駄だと判断し、薬研で薬草をすりつぶしはじめる。
「おい、うちだってなあ。金や権力に屈しなければいけないところもあるんだぞ。名門、名家がどうして廃れていくのかわかるか? 義父さんがあまりに破天荒すぎるから、私がなんとかしなくちゃいけないんだよ。羅家の娘としてなんとかしようとか思わないのか?」
「それで潰れてしまう家ならそれまでのことです。それに、私の父は羅門であって、羅漢ではありません」
猫猫は、使い終わった薬研を洗いに外に出た。
いつもどおり諦めて帰ってくれるだろうと思った。
「なにごとなんだ?」
猫猫は緑青館の前にあるずいぶん立派な馬車を見ながら言った。少し離れた畑に薬草を摘みにいった帰りだった。聞かれた女童は、切りそろえた髪を揺らしながら首をふる。
(小姐たちお客かな?)
外での仕事は少ないが皆無ではない。出張代は高いが、妓女に湯水のごとく金を使うものもいる。
ただ、そういう報せを聞いていなかったので驚いた。
猫猫みたいに小汚い薬屋の娘が上客の前で立っていると不愉快になるからと、恐ろしいやり手婆はあらかじめ出てこないように言ってくるのである。失礼な話だが、本当のことなので仕方ない。
ところが、今回はまったく様子が違う。
やり手婆が猫猫に手を振っている。
「おい、猫猫。なにやってんだい。お客をまたせんじゃないよ」
「はあ?」
「うわ、なんか泥臭いね。まず洗わないと」
猫猫は薬草をのせた籠を取り上げられ、引っ張られると湯殿に連れてこられてひん剥かれてしまった。
「ちょっと、婆。これ、熱いよ」
「大丈夫さ、火傷しなけりゃ問題ない」
湯に押さえつけられ、へちまでごしごし削られる。
「客が来てんじゃなかったの?」
「そうさ。客にがりがりの鶏がらのうえ泥臭い格好を見せるわけいけないだろ。ちっとはましな姿にしないとね」
こうして、猫猫は全身を削られ髪を結われ、おしろいをはたかれ、手ぬぐいで肉付きをよくしながら着物を着せられたのであった。
連れてこられた先は、都の端に位置する大層立派なお屋敷であった。
(いや、お屋敷というより)
そこが離宮であるというのは、ある人物を見てわかった。
文官の格好をした美しい青年、もとい美しい女性は、先の上級妃である。
(阿多妃)
妃とつけるのは正しくないだろう。阿多は切れ長の目を細めて猫猫を見る。
「思ったよりずっと可愛らしいお嬢さんのようだな」
あまり女性らしくない口調も変わりない。
一度、猫猫とは面識があるのだが、彼女は忘れたのか、もしくは気が付いていないようである。
猫猫はどう反応すればいいのかわからないが、とりあえずお辞儀しておいた。
(なにがあるんだろうか?)
それを説明してくれたのは、阿多だった。
「見合いの場を貸すだなんて、初めてのことなので緊張しているよ」
なるほど見合いをするらしい、一体だれが、と言いたいところだがこの流れで行くと、自分がやることになっているのだろう。
(あの野郎)
どういう縁を使って、離宮で見合いなど大層なことを仕組んだものである。
なにより、羅漢はそのことを知っているのだろうか、と考える。何をしでかすかわからないあの男が離宮に乗り込んできたらと考えると本当に恐ろしい。
一応、軍師という大層な地位についているのであるが、それでもやっていいことと悪いことがあることに気が付いてほしい。
一方で、元とはいえ上級妃だった阿多に、案内をさせているのも気が引ける。
それを口にすると、阿多は豪快に笑いながら、
「隠居にもたまには客人をもてなすくらいの暇つぶしをさせてくれ」
だそうだ。
門をくぐり、つぼみのほころびかけた薔薇園を横目にし、赤塗の柱が並ぶ石畳の回廊を抜けると、大きな池が目についた。色とりどりの鯉がぱしゃんと水しぶきをあげてはねている。蓮の葉がたくさん浮いているので、夏には美しい花を咲かせることだろう。池の中心には、浮島がありそこに東屋が建っている。猫猫はそこへ通された。
柳がゆれて風が心地よい。思わず目を細めてしまう。
椅子に座るようにすすめられて猫猫は柔らかい布張りの椅子に座る。
(ずいぶん、場違いだなあ)
こういうところでは常に立ちっぱなしで控えることしかしなかった猫猫には変な気分である。
多少身づくろいしたところで、さして器量がいいわけでもない。痩せこけた貧相な身体に傷だらけの腕を見れば相手は向こうから断ってくるだろう。
普通、相手から断りを入れる場合は家同士の関係がどうのとなりそうなものだが、今回の件はどうせ羅半が勝手にやったことだから問題はなかろう。
さっさと終わらせたいところなのに、お相手はなかなか来ない。
阿多のもとに侍女がやってきてなにかを耳打ちしている。
「なんだ。遅れるとは、ずいぶんなご身分だな」
(実際、大層なご身分だろうけど)
当主の羅漢はあんな人間だが、家の血筋自体はいいのだ。その跡取りである羅半が一目置く相手といえばかなりやんごとなき血統もしくは、先立つものが腐るほどある家に違いない。見合い場所に離宮を使える相手といえば、前者となろう。
「すまないが、しばらく隠居の世間話にでも付き合ってくれないか?」
猫猫はうなづくと、侍女に差し出された茶をすする。
阿多は後宮から去った後は、彼女なりに楽しんで生活しているようだった。むしろ、水を得た魚のようになっているのは、彼女によく似合う男物の服を着ていることからわかる。生来、凛々しい性格なのだろう。
猫猫はすすめられるまま焼き菓子を食べながら、阿多の話に相槌を打つ。後宮の化粧や服、装飾品の話や、やっかみまみれの愚痴に比べるととてもおもしろい話題を振ってくれる。内容としては、けっこう難しい内容なのだが、猫猫にも理解できるようにかみ砕いて話してくれる。
(頭がいいのだな)
猫猫は素直に感心するしかない。難しいことを難しいまま相手に伝えるのは簡単だ。暗記すればよいだけだ。それを相手に分かりやすく簡単に伝えるには、難しいことを完全に理解し、それを言いかえる技術を要する。
(本当にもったいない)
猫猫は一瞬、考えてはいけないことを考えてしまい軽く首を振ってしまった。以前、ある推測が浮かんできたことを思い出した。
「どうかしたのか?」
焼き菓子をつまみながら、阿多が首を傾げるので、猫猫はごまかすためちらちらと周りを見る。
そこで、向こうの庭から見える小さな影を発見した。
「ああ、いえ。子どもがいるのが珍しくて」
こちらを気にするように子どもたちが見ている。小姓にしてもまだ幼すぎる気がする。
「あれは私の酔狂だよ。戦災孤児というのかな」
異民族に焼かれた村の出身らしい。中央まで被害が広がることはないが、国境付近では小競り合いというものは多い。
子どもがいない阿多は、子どもを引き取って育てているとのこと。
阿多が子ども好きであることは里樹妃との関係を考えると理解できる。子どもがそんなに好きではない猫猫にはまねできないことである。
金がなければできることではない、偽善といえばそれまでだが、引き取られた子どもにとってはのたれ死ぬよりずっといいことだろう。
村を焼かれた子どもは異民族の奴隷にされるか、うまく逃げ出せても同じ国の人間相手でも身売りをしなければならない。女は女郎屋に売られ、男は農奴にされる場合が多い。
それも健康なものばかりだ。弱い子どもは何も食うすべが見つからず、道端や橋の下で飢えて死ぬのである。
「客人が珍しいのだ、許してやってくれ」
「はい」
別に猫猫は子どもが好きではないが毛嫌いするほどでもない。それに、趙迂という不出来すぎる弟子がいるので、あれよりもひどい性格の子どもはそうそういないだろうと、だいぶ寛容な性格になっている。
いまだ見合い相手は現れず、
(このまま来なくてもいいのに)
と、思いながら阿多との会話を楽しむことにした。




