弟子
薬屋本編のものを移動。
「ったく、やってられねー」
趙迂は、地べたに座り込み、平たい石を池の水面に投げた。石は水面を三回はねると、池にぽちゃんと落ちた。
緑青館の庭園、池には色とりどりの鯉が泳ぎ、その一匹で趙迂が十人買えるといわれた。
二束三文とはよくいわれたものである。
頭がずきずきする。
今日も、あのそばかす女に殴られた。
ちょっと届ける薬を間違えたくらいで、なんであんなに怒るのかわからない。
お約束通り、間借りした薬屋から飛び出して油を売る。
たまに、婆にみつかり連れ戻されるので気をつけなくてはならない。
腰を上げると、趙迂は暇そうな妓女を探す。
性格の悪いのもいるが、この店の女たちは大体気が良いのがそろっている。腹がすいているといえば、菓子のひとつでも貰えるかもしれない。
庭からひとつずつ窓をのぞきこみ、機嫌がよさそうな妓女を探す。
生憎、今日は余所で宴会が行われているらしく、いつも菓子をくれる妓女たちは出払っていた。残った妓女は、売れ残ったことで、機嫌を悪くしている。
つまらない、と趙迂は外に遊びに行こうとすると、いつもは重く閉まっている窓が開いていた。
誰かいるのかと覗き込んでみると、そばかす女と寝こんだ女がいた。初めて見る横たわる女の顔は、鼻がかけていた。
○●○
無気力に横たわる妓女に、猫猫は緑色の粉を飲ませる。青かびをかき集めたもので、おやじどのが水銀や砒素のかわりに使う薬だった。それらより毒性は少なくよく効くものだが、今は気休めにもならない。
それでも与えるしか治療法がわからなかった。
四十路近い鼻のない女は、昔は蝶よ、花よと謳われた存在だった。
緑青館は、客を選ぶだけの格式のある店であるが、そんなことを言っていられない時期もあった。
猫猫が生まれたころから数年、泥のかかった看板をかける時期があった。
この妓女はその時期に客をとり、不幸にも梅毒をうつされたのだった。
初期の段階で、この薬を与えていれば治ったものだろうに、今の女の身体はとうてい見るに堪えないものになっている。外見だけでなく、身体のうちに病巣が巣くい、記憶もずたずたに引き裂かれている。
時機が悪かった。
羅門が妓楼をおとずれたころには、この妓女の病はちょうど潜伏期間に入っていた。
そのとき、素直に病状を教えていればここまでひどいことにはならなかったはずだ。
しかし、突然あらわれた元宦官の男を素直に皆が信じるわけがなかった。
客を取らねば食うていけない、それが妓楼の掟だった。
数年後、再び身体に発疹が始まると、またたく間に腫瘍が広がった。
こうして、女は部屋に押し込められ、客の目の届かぬところに置かれている。
くさいものに蓋をした行為だが、それでもかなり寛容といえる。
本来、使い物にならない妓女は追い出される。ここにいられるのは、看板に泥を塗った本人が払い続けた賠償のおかげだった。皮肉なものである。
やり手婆は、金にがめついが、使い方を知らないわけじゃない。
猫猫はたらいから手ぬぐいをとると、横たわる妓女の身体を拭いていく。
普段、部屋を閉め切っているので匂いがこもっている。
(香も少し焚くか)
とある貴人からいただいた香がある。上品な香で、本人も好きな香りだといっていたが、調合には邪魔なので普段はつけていない。匂いが混じると困る薬も多いのだ。
本人が来た時だけ、少しだけ焚くようにしている。それを少し失敬する。
ほんのりと甘い匂いのする香を焚くと、妓女は枯れた表情に薄ら笑みを浮かべる。
かすれる声でわらべ歌が聞こえる。
幼子に戻った妓女のこころは、懐かしい景色でも思い出しているのだろうか。
猫猫は、妓女が間違って香炉を倒さないように、部屋の隅におくと、桶を抱えて狭い部屋をあとにした。
「お早いお戻りで」
さきほど、げんこつを落としたばかりの弟子を見据える。
薬屋の店内で、大の字になっていた。
「ふん。腹が減った」
不遜な態度で、食べ盛りの男童は食べ物を要求する。
生意気な餓鬼だが、自分もひとのことは言えないので黙っておく。
戸棚の中から、菓子を取り出す。木の実とはちみつをたっぷりと使った月餅は高級品で、とある貴人のまめな従者殿が手土産に持ってきてくれたものだ。
がっつく趙迂に自分の分もやると、猫猫は筵の上に横になった。
「寝る。留守番よろしく」
「はあ?さぼんじゃねえよ」
「それは、こっちの台詞だ」
猫猫の真似をするように、趙迂も横になる。
仕方ないと、呼び出し用の鈴を窓口に置く。
猫背になり、おり重ならないように昼寝をすることにした。
激しい鈴音を煩わしく思いながら、目をあけると、頬に傷のある麗しき貴人が不機嫌な顔で呼び鈴を持っていた。
なぜか、その後ろで従者殿が、寝ぼけ眼の趙迂を抱えていた。
ぼやけた頭で、猫猫は、
(今日は少し多めに香を焚こう)
と、思った。




