19 皇弟
「驚かないのか?」
「何をですか」
猫猫は天蓋付の寝台に寝そべる壬氏の額に濡れた布をのせる。傷口のせいで身体に熱を持っている。
壬氏の自室も立派であったが、現在の部屋はさらに上を行く。毛氈が敷き詰められた床、一つ一つ細工の施された柱、窓には美しい玻璃が絵画のようにはり付けられている。
象牙と螺鈿の細工が施された卓子に、ものを置くことさえはばかれる。
皇族、しかも皇帝の実弟なればこれくらい当たり前のことだろう。
「皇弟とは思いませんでした。てっきり種馬として入れ込まれたとばかり」
「……他の表現はないのか。まあ、そっちは知っていたのか」
「なんとなく」
壬氏はなんだか不機嫌な顔をする。
「そっちはどうなんだ?」
「どうって別に」
「別にってことはないだろ。俺が宦官じゃないって知ってたんだろ」
「だって、ものを拝見するわけじゃありませんし、関係ありません」
猫猫の言葉に、壬氏は複雑な表情を浮かべる。衝撃というべきか、哀愁というべきか。
(どうしたんだ?)
もしかして、見せたかったのか。それならば、かなりいかがわしい趣味である。露出狂である。
まあ、壬氏ほどの容姿を持っていれば、好んで見てくれる娘はいくらでもいるだろう。たとえ、以前のように天女の顔でなくなったとしても。
猫猫はふと壬氏の右ほおに手を伸ばす。まだ、羅門の縫ったあとが生々しい傷がある。丁寧な縫い口であるが、もう一生取れない傷になろう。
左手の指も、今後もとに戻るとは限らない。
さらしでまかれた指、薬指、小指は半分も残っていない。
「もったいないですね」
「ああ。何より嘆かれた」
「天女のようであったのに」
「俺は好きでそんなんになったんじゃない」
むすっとした壬氏が年相応に見えたのがおかしかった。
「私はこちらのほうがいいと思います。今まで、無駄にきれいすぎたんです」
「そうか」
「ええ、箔がつきますし」
(なにより、おやじの縫い口はきれいだな。薬もよく効いてるようだし)
傷口をうっとりとみる。
なんだか具合の悪そうな壬氏と目が合う。
(じろじろ失礼だったか)
壬氏がじっとこっちを見ている。
猫猫は触れるか触れないかの位置で止めた手をはなすと、ぱたぱたと続きになっている隣の部屋にうつる。
猫猫はすりつぶしたばかりの薬草を数種類混ぜ合わせると、白湯で溶いて器に入れた。
熱さましと痛み止め、それに睡眠薬を混ぜたものである。
「飲んでください。痛みが少しはまともになるはずです」
「いかにもまずそうなんだが」
「良薬口苦しです」
壬氏が薬と猫猫の顔をかわるがわる見る。
なぜだか、子犬のような顔をしている。
「なんですか?」
「片手じゃ飲みにくいから、飲ませてくれ」
(私は水蓮とは違うのに)
甘ったれた坊ちゃまの口に、器を近づける。勢いがつきすぎて、歯に当たったらしい。痛そうに押さえている。
「苦いし痛い」
「どうしろと」
「梨花妃のときはもっと丁寧にやっていただろ」
「わかりました」
猫猫は器を下げ、隣の部屋にうつると器にはちみつと果汁を絞りいれる。
匙で中身を取り、味を確かめると、水差しの水で口をゆすいだ。
「お待たせしました」
猫猫は薬湯の器をゆっくり口に含むと、壬氏の上に軽くのしかかった。
眼を丸くした壬氏が間近にうつる。
半開きの唇を舌でゆっくり開けると、薬湯を流し込んだ。ごくんと嚥下する音が聞こえる。
息継ぎをするように、唇をはなすと、壬氏の口の端に残った薬湯を手ぬぐいでそっと拭く。
「今、なにをした?」
放心した声で壬氏が言った。
「梨花さまのようにしろといったのは、壬氏さまではないですか」
一応、口はゆすぎました、と。
まだ苦かったですか、と。
猫猫は面倒くさそうに答える。
食事をほとんど受け付けなかった梨花妃には、無理にでも食事をとってもらうため最初のうちはこうやっていた。
これではなかったということか。
(ならばどうしろと?)
壬氏は頭を抱える。
「おまえの基準がまったくわからん」
「わからなくても結構です」
もう勝手にしてください、と薬湯を置こうとすると、壬氏に袖を引っ張られた。
「まだ、残っている」
子犬のような目でこちらを見ている。
「……わかりました」
猫猫は半眼を向けたまま、しかたないと薬湯を口に含んだ。
事件から、二か月がたち、玉葉妃は出産を無事果たした。
ぱたぱたと走り回る鈴麗公主に待望の兄弟が生まれた。男の子である。
猫猫はそれに付き添っていた。宮廷の医官に復帰した羅門の手伝いだった。
あの後、皇帝のじきじきの願いによって、羅門は宮廷に戻ったのだ。たしかに、国で一番といわれる医師を花街の薬屋に置いておくほうがもったいないだろう。
現在、宮廷と後宮の医局をかわるがわる見ている。
やぶ医者は幸運だ、くびを免れた。
愚鈍といわれた皇弟と花の顔を持つ宦官が同一人物だと知った皆々は戦々恐々としただろう。なにせ、男女問わず誘いの言葉をかけられていた相手であったから。
以前、壬氏に媚薬入りの点心を渡した相手など震えあがっていることだろう。
見た目にも中身にも箔がついた壬氏は、体調を取り戻すと政務に復帰した。本当は壬氏という名前ではないのだが、猫猫にはこちらのほうが馴染みのためそのように呼んでいる。
壬氏としての仕事を別のものに引き渡し、今後は皇帝の補佐にうつるらしい。つまり宰相ということである。
死んだ楼蘭妃は、いうまでもなく罪びととしてあつかわれた。一緒に死んだ宦官も同様である。
妃の父および一族郎党は、言い訳もできるはずなく八親等以内は皆処刑された。その中に、まだ年若いものが楼蘭妃の弟妹も含めていたらしいが、猫猫が何を考えても結果はかわらなかっただろう。
財産を失い、散り散りになった遠戚になにができるわけでもないと、肉刑で処分が済んだ。ただ、都の土を二度と踏むことは許されなかった。
ただ、莫迦なことをしたなと、猫猫は思う。
翡翠宮から残りの荷物をとりだす。
がらんどうになった宮には、もう誰もいない。
東宮が生まれたことで、玉葉妃たちは皇太后の住まう宮殿へと移った。
表向きは東宮の安全のためだが、周知の事実として玉葉妃の昇格を意味していた。
長らく空いていた后の座がようやく埋まることになる。
梨花妃は、くやしそうな顔をしていたが、そこにねたみはなく、まだ負けたつもりはないという気概さえ感じられた。
今後も、夜の学習に余念はないだろう。
里樹妃に至っては、数か月後に迫った皇帝の初の御通りを今頃から戦々恐々としている。
(とりあえずがんばれ)
猫猫はそれしか言えない。
御通りがすめば、周りの侍女たちも一歩引いてみるだろう。
玉葉妃が後宮をでることで、猫猫もまた毒見の任から解かれた。というより、さすがに皇太后の住む宮殿に一緒にいることはできないと辞退した。住む世界が違い過ぎる。
そして、本来の雇用主である壬氏はもういない。
猫猫の言葉に、高順がなにもいわないのはそういうことなのだろう。
いるのは、勇ましい刀傷をつけた皇弟だった。
東宮の座を退いたとはいえ、その権力は皇帝に次ぐ。
猫猫は特別に調合した軟膏を壬氏だったものの自室に置いてきた。
別に使わなくてもよい、もっと腕のいい羅門がいるのだから。
ただ、自分の小指のようにいつかもとに戻るといいと思った、ただそれだけだ。
小蘭にとっておきのお菓子を渡し、やぶ医者に羅門の話を聞いて別れの挨拶をした。
重々しい正門から足を踏み出すと、住み慣れた花街へと向かった。