18 まどろみ
生まれてから一度も、父上と呼んだことはなかった。
理由はない。
なんとなく、そんな気がしたからだ。
歳の離れた兄のほうが、よほど父親に近い存在だった。
自分とほぼ同時に生まれたという甥は、幼くして亡くなったというからそのせいかもしれない。
東宮である兄と歳が離れていたせいだろうか、自分は母親の宮殿に押し込められていた。何かから守るように、あついおくるみに包まれるように育った。
窮屈な生活でわがままを言った。甘い点心も玩具も好きなだけ与えられた。
ある日、お目付け役の目を盗み宮殿の外に出た。
好奇心と自分を押し込めるおとなたちへの腹いせだった。
結果、わかったのがなぜ宮殿の外にでてはいけないのかという理由だった。
生まれの怪しい皇子、自分はそのように見られていた。
事実はどうでもよい、ただそのように見られていることが問題だった。
歳を追うごとに、自分の存在はないものとしたほうがいいという結論に至った。
高齢の父には、息子は兄と自分しかいなかった。
年齢が離れていることと、同母の兄弟であることから、自分の後見に立とうとするものがいないのは幸いだった。
兄に子が生まれたら、自分は臣籍降下してもらおう。それが一番いい方法だ。
しかし、兄にはまったく子が生まれなかった。
妃はひとりしかいないことを考えると、原因はなんであるか予想がついた。しかし、それを口にするのははばかれた。
父が亡くなり、兄が皇帝になったとき、ずっと思っていたことを伝えた。
自分は東宮にはなりたくないと。
兄は複雑な顔をして、冗談まじりでこう言ってのけた。
ならば、東宮の生まれるべき後宮に作り直せ、と。
巨大になりすぎた後宮の縮小、および妃にふさわしいものの選抜。
無理難題を押し付けた。
できなければ、次の皇帝はおまえかもしれないぞ、と。
こうして『壬氏』という宦官が生まれた。
背筋を伸ばし、長い前髪をあげ、自信たっぷりの笑みを浮かべると、そこに表舞台を嫌う気弱な皇弟はいなかった。
年齢もどうせならと五つもごまかした。背丈は伸びていたし、なにより女性的な顔が宦官らしい特徴を持っていた。すでに、変声を終えていたのも助かった。
優秀だといわれていたが、とびぬけた能力のない自分にも一つだけ取り柄があることがわかった。
無駄に整った顔立ちと甘い声は、誰よりも他人を誑し込むのに便利だった。
今思うと、母と兄が自分を外に出さなかった理由がもう一つあったのだなと気づいた。
父を父と呼べなかった理由も、なんとなく本能的に自分で気づいていたのだろう。
幼い自分は、それは可愛らしい童女のような少年だったに違いない。
まったくおぞましい性癖であった。
眼をあけると、帳のかかった天蓋が見えた。
いつもの寝所とはちがう、壬氏ではないときの寝床である。
起き上がると、まだ冷たい手ぬぐいが額から落ちる。
右ほおと左手が熱い。
さらしに巻かれた左手には、本来あるべきものがかけていた。
ああ、そうだ。
格好悪いことこの上ない。
高順のいうとおり、後ろに下がっていればよかったか。
別にどうでもよいか、そんなこと。
指のひとつやふたつなくなったことで、なにがかわる。そのうち、生えてくるとでも薬師の娘は平然と言うかもしれない。
顔の傷、むしろせいせいする。
誰が天女のようだと言われて喜ぶ男がいる。
すり寄ってくるものが減ってせいせいするだろう。
ただ、もう壬氏ではいられなくなったなと思った。
目の前で首をかき切った女は、楼蘭妃の母だった。
先の皇帝の妃だった女。
呪詛のように語る中で、壬氏はあきらかに自分を罵る言葉を聞いた。
どこの種かもわからぬ皇子め。
ありえないことだと言われ続けた言葉であるが、それでもなお突き刺さる。幼き頃より、隠れて言われていた悪意に慣れきったと思っていたのに。
こうして、自分の傷を見る限り、女の呪詛は成功したのだろう。
飛び出してきた男に、咄嗟に反応できなかった。
まだ感覚の鈍い左手を褥の上に置くと、部屋の隅で船をこぐものを見つけた。
小柄な女官は、いつものそばかすではなくすっぴんで、動きやすいように髪を後ろでひとまとめにしていた。
落ちた手ぬぐいを見る。
看病していたのだろう。
職業柄か、そういうことはしっかりやってくれる。羅漢にさえしてくれるのだから、誰にも平等にやってくれるのだと考えるとなんだかもやっとくるが。
特別になろうというのは、案外難しいものだ。
壬氏は周りを見る。いつも付き従う精悍な男を見つけると、目配せをした。
高順は壬氏が猫猫のほうを見て、右手でなにかを持つ仕草をしたのに気が付くと一度部屋をでて、再び戻ってくる。
小さな箱を持ってくると壬氏に渡す。
箱を開けて、布に包まったなにかを取り出す。
帰ったら渡すと言っていた約束の品だ。
もう一度、まどろんでいる娘を見る。
娘といえば、規則的に揺れている首が傾きすぎて、平衡性を崩し、驚いて目が覚めたらしい。
左右を見渡しているところで、壬氏と目があう。
気まずそうに動きがとまる。
なんとも笑える娘である。
笑ったのに気分を害したらしい。
一瞬、いつもの不遜な目、たとえて言うならば、葉物についた幼虫でも眺めているような目をしたが、すぐに首を振って無表情に戻した。
椅子から立ち上がり、壬氏のほうへと近づいてくる。
壬氏は唇だけの笑みを浮かべ、右手をそっと褥の下に潜り込ませる。
手のひら大の石は、猫猫には見えない。
「壬氏さま」
いつもの抑揚のない声だ。
壬氏は返事をしようとしたが、ほおがひきつってうまく話せない。引っ張られる感覚は縫われているからだろうか。
猫猫は落ちた手ぬぐいに気が付くと、傍の水桶のなかにいれる。
壬氏は猫猫に約束の品を渡そうと思ったとき、
「壬氏さま、牛黄ください」
と、言ってくれた。
右手に力が入り、なにかがみしりと砕ける音がした。




