17 楼蘭妃その伍
宴のあと、壬氏に例のことを説明した。
言いたくはないものの、言わねばならぬことであった。
「わかった」
と、壬氏は短く答えた。もともとわかっていたことを確認するようだった。
脇に控える高順の眉間のしわがいつもより濃い。
(もしかして)
猫猫は気づいた。
自分が最後の一押しをおしてしまったのではなかろうか。
いつかは、そこにたどりついただろう、猫猫のしたことはそれを少し早めたに過ぎない。
それでも、少しだけ早くなった。
仕事用のきらきらしい天女の顔でなく、普段の子どものような顔でなく、酷く険しい男の顔をしていた。
「どうした?」
猫猫は気づかぬうちに、壬氏の袖を握っていた。
いぶかしむ壬氏が見下ろしてくる。
「いえ」
いつのまに子どもの顔に戻った壬氏がこちらを見る。じっと見つめるのはやめていただきたい。
「牛黄ください」
壬氏の顔が不機嫌になる。
「まだ、やらん」
「なんでですか、約束が違います」
壬氏は底意地の悪い顔をする。
「あと一仕事残っている。それが終わってからな」
「なんだか、それ。不吉に聞こえます。なので、今いただけませんか」
(このままもらえなくなりそうな台詞だ)
猫猫の無愛想な顔を壬氏はおもしろそうにみる。本当に失礼な輩である。
「帰ったらやる」
壬氏は頭をぽんとはたいて、後姿のまま手を振り宮官長室を出て行った。
後日、猫猫は知ることになる。
楼蘭妃とその一族が粛清にあったことを。
皇弟じきじきの指揮だったらしい。
そして、皇弟はその際に重傷を負ったという。
猫猫に政はよくわからない。
それに付随する血なまぐさい話も理解できない。
それでもわかるのは、首の裏がぴりぴりする感覚で。
猫猫の嫌な予感というものは本当によく当たる。
高順の呼び出しに、猫猫は走ってその場へと向かうのだった。
○●○
根暗で人見知り、人嫌いの皇弟。
上に立つ身でありながら、他人の視線を恐れている。前髪で深く顔を隠し、猫背で身体をすぼめている。
そんな奴の指揮に従わなければならないのか。
李白は、やる気のなさを鎧の奥に閉じ込めることにした。
向かうのは宰相の邸宅、淑妃の実家にあたる。
贅の限りを尽くした邸宅は、勇ましい一団に囲まれている。
先の皇太后からの覚えのよさも、とうとう尽きることとなった。
国を傾けることを頭に浮かべたものに将来などなく、出迎えた屋敷のものは、笑顔とともに腰に剣をはいていた。
さてさてお手並み拝見といきましょうか。
若造のしりぬぐいはちゃんとしてやらねばと、勅命を見せる皇弟を見た。
しかし、そこにいるのは弱弱しい若造ではなく、花の顔を持つ宦官であった。
天上の甘露のような甘い声はそこになく、厳かに皇帝の意を読み上げる男の頭には、銀色の簪がささっていた。麒麟、皇族のみにゆるされる聖獣の透かし彫りが入っている。
してやられたと、顔を手で覆いそうになった。
どおりで、変人軍師どのがおもしろいことになるな、などといい、にやにや笑っていたわけだ。
そういうことなのである。
逆上し襲い掛かる宰相をひらりとかわし、剣を叩き落として捕縛を命ず。
そこにいるのは、情けない若造でも、天女のような貴人でもなく、冷徹に仕事をこなす皇帝の片腕だった。
なおも抵抗するものを淡々と斬っていく。律儀なことだ、腱を狙い、動きを止める。ここで息絶えたほうが、まだ地獄を見せずに済むものなのに。
恨むなら主人を恨むんだな。
長い間放置された巨大な膿は、分不相応という言葉をわかっていただろうか。
あからさまに大きく動きすぎたのだ。
屋敷の奥に進んでいく皇弟、従者が前に出ようとするがそれを押しのける。
正直、うしろに下がっていてもらいたいのだが、聞いちゃくれないだろう。
大広間にあたると、そこには青白い顔をした女がいた。
もとは美しかったであろうその顔は、痩せこけ皺をきざみこんでいた。
着ている衣の豪華さから、宰相の夫人であると予想された。
理解しているのだろうか。
女は高飛車な笑いを上げながら、呪詛のような奇妙な声を発し、そして。
そして、短刀で自分の首を掻っ切った。
誰もが驚く中で、帳の裏から男があらわれ、剣を振り下ろす。
咄嗟に皇弟は、左手でかばうが、指が落ち、右ほおに深い筋が入る。
やっぱりまだまだ餓鬼だ。
詰めの甘さに苦虫を潰しつつ、李白は男の身体を両断した。
○●○
通された部屋は、宮廷の壬氏の棟のさらに奥にあった。
天蓋付の寝台の横に見たことのある顔がある。
老婆のような老人、羅門がそこにいる。あまりに場違いなみすぼらしい男である。
傍の卓に釣り針のような針と獣の腱で作った糸、汚れた木綿が散乱している。
(今頃、保険を使ったか)
李白にひどい怪我人が出た場合、羅門を呼ぶように頼んでいた。生憎、宴の席では杞憂にすぎなかったが。
よく見ると、近くに皇帝と皇太后もいた。
傍には宮廷の医官もいたが、唖然とした顔で羅門を見ていた。
皇帝は羅門のことを知っている。こうして、羅門が治療したということは、それを認めたということだろう。
(近づいてよいものか)
高順が首を縦に振るので、ゆっくりと寝台に近づく。
寝台に寝そべる主は、見覚えのある顔だった。しかし、麗しい笑みはなく、痛々しげに顔と左手にさらしが巻かれている。
卓のうえに、赤黒く汚れた包みが置いてある。そっと開いてのぞくと、本来、左手についてあるはずの二本がそこにあった。切り口の断面から、つなげることは不可能だろう。
「なにをやってるんですか」
返事のない、寝息をたてる壬氏にいった。
「早く起きて、牛黄をください」
無愛想な顔には、眉間のしわを一本だけくわえていた。
新しい軟膏を作らなくてはと思った。
楼蘭妃は、自刃したらしい。
そばには、首を切られた宦官たちがいたという。
なにが妃をそこまで駆り立てたのだろう。いなくなっては知るすべはない。
ただ、風の噂で聞いたのは、楼蘭妃の母もまた先帝の上級妃で、その美しさから国を傾けるとまでいわれていたという。
そして、当時の皇太后に覚えめでたき宰相に下賜されたという。宰相の願いに、先帝は惜しみもせず与えたという。
(腹いせか)
踏みつぶされた自尊心を、夫を、娘を使って取り戻そうとした。
国を傾けてやろうとした。
結果、あからさますぎる楼蘭妃の行動につながる。
もしかすると、夫への復讐も含まれていたのかもしれない。でなければ、一族郎党の首を担保のそんな危ない賭けをするだろうか。
娘を道具にしてまでも、耐えられない屈辱だったということか。
楼蘭妃の執着は、そこからきているものだと考えたらやるせなかった。
(こわいこわい)
猫猫はくだらない推測をやめると、秤に粉薬をのせる。
針がぴったりあったところで、粉を薬包紙に包んだ。
音をたてないように、天秤を片付ける。
隣の部屋の主人が起きないように。




