10 爪紅
嫌味なごとく色とりどりの薔薇は宴席の注目を集めていた。
まるで、見せつけるかのようなさまは、生け手の性格の悪さを示しているようである。
宴があったのは覚えている。
薄絹のひれが舞い、弦楽器の音が流れる。
贅を尽くした懐石が振舞われ、酒の匂いが立ち込めた。
どうにも、昔から興味のないことは記憶に残らない。
それがあったのは覚えているが、それに付随する感慨というものがまったく浮かんでこなかった。
気が付けば宴の席は終わり、黒と青の衣装を着た二人の妃たちが、皇帝よりそれぞれの色を示す薔薇を賜っていた。
それにしても、つまらない。
来ていないのか。
何のために挑発したのかわからない。
しかたないから、いつもどおり違う相手をからかうか。腹いせ位させてもらおう。
周りを見ると、まだ多くのものが残っている。
人ごみは苦手である。
多くの人間の顔は碁石のようにしか見えない。
男女の区別はつく、だが男は黒石、女は白石と見えるのだ。それにもへじをつけたようにしか見えない。
顔見知りの軍部の人間でも、せいぜい将棋の駒に変換されるくらいだ。
多くのものは雑兵で歩、階級が上がるほどに香車、桂馬となっていく。
軍師の仕事とは簡単だ、駒に見合った配置を行えばいい。適材適所、それで大体の戦は勝てる。
天女のような笑みを持つ男、皆がほめるそれでさえ、自分にはわからない。
ただ、成り銀を連れた金将、それを探せば問題ない。
それにしても、今日はいつも以上に目が痛い。
赤い色が目につく。指先に皆、紅をつけている。
いまの女官たちの流行は、爪紅ということか。
よみがえる記憶の中の爪紅は、あれほどけばけばしい赤ではない。
うっすら染まった赤い色。
鳳仙花の赤色だった。
懐かしい妓女の名前がふいに浮かぶと、視線の先に小柄な女官がうつっていた。
小さく貧相だがしたたかな、片喰のような娘である。
がらんどうの目をこちらに向けていた。
自分の視線に気が付くと、ついてこいといわんばかりに背中を向ける。
牡丹園の向こう側、小さな東屋に将棋盤が置かれている。盤の上には、桐箱があり、中から枯れた薔薇が躯のごとく横たわっていた。
「お相手できないでしょうか」
将棋の駒をつかみ、棒読みで娘がたずねてくる。
そばには、金将と成り銀が立っていた。
断る理由などなかろう。
可愛い娘の頼みとあらば。
○●○
いったいなにがやりたいのだ。
壬氏はできれば帰ってくれという猫猫の言葉を無視してここにいる。猫猫は心底いやそうだったが、何も口を出さないという条件で黙ってくれた。
軍師殿を誘いだし、猫猫は将棋の駒を並べている。
その顔に、感情という文字はなく、普段の無愛想がまだ人間じみていた。
「先攻、後攻どちらがよいかね」
片眼鏡の奥の細い目が、心底嬉しそうなのがわかる。あれだけの執着があるのだから、それは当たり前のことだろう。
「その前に、規則と賭けの代償を決めませんか」
「それは話が早い」
壬氏は猫猫の後ろから盤をのぞく。
羅漢から不気味な笑みを向けられるが、負けるわけにはいかない。流すように笑みを返す。
変則なしの五回戦。つまり、三勝したほうが勝ちである。
どうにも壬氏には理解できない。軍師殿は将棋負けなしである。選んだ遊戯からして間違っている。
高順も同じ意見らしく、眉間のしわをさらに深くしていた。
「何の駒がいるかね。飛車か角か」
「なにもいりません」
せっかくの申し出も受け入れない。大人しく受けていればよいものを。
「では、私が勝てばうちの子になってくれるね」
「雇用中の身ですので、年季があけたあとになりますが」
「雇用中?」
狐のような目がじっとこちらを見る。
壬氏は笑ったままで、頬がひきつるのをこらえなければなかった。
「本当に雇われているのかい?」
「ええ、書にはそのように記されていました」
そのとおりである。猫猫の見た書類にはそう書かれていた。
だが、署名をしたのは、保護者替わりであるやり手婆だったりする。おやじどのこと羅門は、持った筆を奪われていた。
「それならいいんだが。それより、そっちはどうするんだい」
「なにもいりません。ただ、規則を一つ加えていただけないでしょうか?」
「別に問題ないが」
「それでは」
猫猫は高順にあらかじめ用意させていた酒瓶を取り出した。
五つのさかづきに均等に注いでいく。きつめの蒸留酒である。
それに、袖から取り出した薬包紙を開き、さらさらと粉を入れる。入れたのは三つ、それぞれ違う粉のようであった。猫猫は杯を傾け、それらを混ぜると、素早く五つのさかづきを入れ替えた。どれがどれなのかわからなくなる。
「一回負けるごとに、相手にこれを選んでもらい飲んでもらいます。別に一口飲めばそれでかまいませんので」
なぜだろう、ものすごく嫌な予感がする。
壬氏は、猫猫の後ろから横に回る。
無表情だった顔がほんの少しだけ紅潮している気がしないでもない。
さっき入れた粉が一体何なのか、聞きたいが聞き出せない。
そんな自分がもどかしい。
「さっき入れた粉はなんだい?」
壬氏のかわりに、羅漢がたずねてくれた。
「薬です。単体ならば」
三つまとめれば、猛毒になりますけど、と。
おかしな娘は微笑みながらいってのけた。
えぐいことを考えると壬氏は思うしかない。
たとえ三つ飲まなければ問題ないとはいえ、簡単に口にしたいものではない。
相手のゆさぶりをかけるためだろうか。
たしかに、一般の相手ならひるんでしまうかもしれない。
でも相手は、奇人といわれる軍師殿である。ただのゆさぶりで心みだされるとは思えない。
案の定、猫猫は二連敗していた。
多少は心得があるのかと思いきや、どうやら規則を知っている程度で、まったく実戦はないようである。
すでに二杯の酒を残さず飲み干している。
一体、何を考えているのだと思う。
三戦目は始まったばかりだが、結果はみえている。
三杯目のさかづきを飲んだとして、毒にあたる可能性を考える。
最初に毒のもとを選ぶ確率は五つに三つ、次に再び毒のもとを選ぶとすれば四つに二つ、最後に三つにひとつ。
つまり十にひとつの可能性で、猫猫は猛毒を食らうのだ。
正直いえば、猫猫ならば毒にあたったところで問題がなさそうだと思えるのが怖い。
羅漢がそれをどこまで知っているのかは知らないが。
さて、賭けに負けた後のことを考えようと、高順と顔を見合わせていると、
「王手です」
と声が聞こえた。
羅漢ではなく、猫猫の声が。
高順と顔を見合わせ、盤上を見ると、王将がと金に狩られようとしていた。
ひどく拙い駒の流れであったが、たしかに王将に道は空いていなかった。
「まいったよ」
両手をあげ、お手上げする羅漢。
「お情けでも、勝ちは勝ちということでよいですね」
「ああ、娘に間違っても、毒をすすめるわけにはいかんからね」
さきほどの二杯の酒で猫猫の表情はかわらなかった。飲んだものに、薬が入っているのか、入っていないのかわからない。
おどけた笑みを浮かべ、無表情の娘を眺める。
「さっきの薬っていうのは味があるのかい?」
「どれも苦味が強いので、一口飲めば味が違うのはわかります」
「それならわかった。どれを選んでくれる?」
「お好きなものをどうぞ」
なるほど、羅漢は二回までなら負けることができる。そのうち一つでも苦味があれば、猫猫に害が及ばないとわかるだろう。確率としてはかわらないが、確実である。
やはり抜け目ない男だ。
羅漢は真ん中のさかづきをとると口にする。
「苦いな」
壬氏は首をうなだれた。
これで、次の対局で猫猫が勝つことはできないだろう。
「それに、あついな」
羅漢の言葉に顔を上げると、羅漢は真っ赤な顔をしていた。そして、次第に血の気が引き、真っ青になると力なく倒れこんだ。
高順が走り寄って羅漢を起こす。
「おまえ、どういうことだ?一種類では問題ない薬なのだろ?」
いくら憎らしいといって本当に毒を盛るものか。
「いえ、薬ですよ」
猫猫は心底、面倒くさそうにいった。脇に置いていた水差しをとると、羅漢と高順のもとに近づいた。
羅漢が昏睡していないことを確認すると、水差しをそのまま突っ込み水をくびぐび流し込む。かなり乱暴な手つきである。
「壬氏さま」
高順が困惑した顔で見る。
「酔っているようです」
「百薬の長ですから」
猫猫はとりあえずやっときますか、という程度のやる気のない看病をしていた。
一応は薬師という職業柄、やってしまうらしい。
「下戸なんですよ、この人」