1 盛
旧蛇足編です。
書き直しのためこちらに移動しておきます。
(よーし、次は)
猫猫は雑巾と桶を持ち、窓辺に座る。
飾り窓は近くで見ると埃が溜まっている。かたく絞った雑巾で丁寧に拭いていく。手がかじかむがたいしたことはない。
なんだかんだで猫猫は、宮廷に戻ってきた。しかし、後宮ではない。
(なーんで、あいつの部屋付なんだ)
婆が金子に、猫猫は冬虫夏草に目がくらんだ。
その結果がこれである。
正直いえば、自業自得なのだが。
宮廷の西側に壬氏の自室がある。部屋というより、棟というべきか。基本、寝泊りはここでしているらしい。
まあ、正直言おう。
(無駄に広い)
ある程度、要職だと思っていたが、広さだけなら翡翠宮とかわらない。無駄に部屋が多く、湯殿までついている。食事も作れるよう台所もある。寝台はご丁寧に天蓋付だった。窓の外を眺めると、贅をこらした枯山水が雪化粧に隠れている。
(金持ちはよいねえ)
そういえば、緑青館の妓女を呼び出した宴も、平民一生分の銀がなくなる算段である。随分と偉そうなわけだ。
(もっと給料交渉しとけばよかった)
とりあえず二年間、猫猫は女官として働くことになった。
表向きは壬氏の部屋付という形になるが、無論、性に合わない。仕事がないからだ。
掃除や洗濯は専用の下女がやる。
妃たちの侍女と同じく、食事を運んだり、着替えを手伝ったりするわけだが、食事はいつのまに準備してあるし、着替えも壬氏一人でできる。たまに、こちらをちらちら見るが、言われるまでやろうとは思わない。
(一体、何のために雇ったんだ?)
だから悪態をつきながらも、無駄に広い部屋を掃除する。下女の仕事をとるようだが、窓の桟を見る限りあまり行き届いていないようだから問題ないだろう。
貰った報酬が報酬だけに、借りを作るような真似はしたくなかった。
妙なところで生真面目である。
(あー、それにしても何に使おう)
猫猫の頭の中にあるのは、虫から生えた奇妙な草のことである。
眼がぼんやりしてきたところで、いかんいかんと頭を振る。今は仕事中である。しかし、だんだん顔がゆるんでくる。
あの気持ちの悪い干からびた虫からのびた枯葉色の茸。薬酒にしようか、それとも丸薬にしようか、考えただけで楽しくなってくる。
給料とは別に、現物報酬で年に二回、珍しい薬草をくれるというのだ。たとえ、相手があんな変態宦官でも、少しは尽くしてやろうと考えないでもない。
あまりにうれしいものだから、にやけた顔のまま部屋の主をむかえてしまった。
呆けた壬氏の顔をみて、猫猫はそっとうつむいた。
基本、壬氏のそばにはお目付け役の高順がいる。寡黙な宦官はよく猫猫に目で訴えかける苦労人である。
今日もまた、主の食事に付き従っている。食事は二人分、しかし高順の分はない。
「いつも思いますが、量が多すぎやしませんか?」
(毒見の量じゃない)
普通は、小皿一枚ずつのはずだ。量が多すぎる。
「そうか普通だと思うが」
猫猫の前に、壬氏とかわらぬ量の夕餉が準備されている。
こうして朝夕二回、毒見役を行うのも数少ない仕事の一つである。
同じ卓に相席するのは失礼だと思うが、量が多いだけに立ち食いをするもの問題である。高順も何も言わないので椅子に座る。
そのあいだ、高順が立ちっぱなしであるのを見かねて、椅子を用意したのだが、寡黙な従者は立ったままであった。
猫猫がひと匙ずつ口に運ぶのを見て麗しい宦官は微笑ましい目で見ている。まるで愛玩動物に餌をやっているような顔だ。
(失敬な)
大変、居心地悪く目をそらしながら毒見を行う。
残念ながら、毒物は入っていない、ええ、毒物は。
皿を全部あけてから壬氏に食事をすすめるべきだが、菜が冷えるので途中で食事を始めてもらう。
さすがに、一緒に食べるのは憚れるので、盆に皿を乗せ、部屋の外に出ようとするが毎度止められる。
「途中退室とはいい度胸じゃないか」
「いえ、同席はやはり恐れ多いと思いまして」
高順に目で「あきらめろ、しつこいから」と訴えられて、もう一度椅子に座る。
(食事自体はおいしいのに)
なんとも食欲のそそらない夕餉である。
夕餉のあとは、高順に部屋まで送ってもらう。
後宮のさらに何倍も広い宮中だ。女官の住む部屋まで時間がかかる。
「別にひとりで帰れます」
「命令ですので」
その言葉には逆らえない。
部屋付の女官なので、壬氏の棟に泊まり込むこともできるらしいが、断固拒否させてもらった。
(夜中、喘ぎ声でも聞こえたらたまらない)
あの変態はきっと毎夜、女官なり文官なり武官なり宦官なり連れ込んでいよう。間違っても、皇帝とかきたら恐ろしくてたまらない。
女官ならまだいいが、他のは少し抵抗がある。見慣れた妓楼のむつみごとは、所詮は男女のそれである。違う世界は知らないほうが賢明だろう。
(今日もだれか連れ込むのか)
きっとそうに違いない。
ああ、いやだ、これだから変態は。
女官の寮の前で別れるとき、高順が首を傾げてたずねてきた。
「ここ最近、夜に体調変化はありませんか?」
「とくにありませんがなにか?」
「いえ、それならば問題ないです」
なぜかとぼとぼと帰っていく高順。
(どうしたんだろう)
そう思いつつも、部屋に入る。
寝台と机の置かれた簡素な部屋だ。机の上に細長い箱が置いてある。
中に不気味な薬草が入っていると思うだけで、猫猫は満面の笑みをおさえることができなかった。
しばらくして、隣から壁を蹴る音が聞こえたことから、なんだか無意識のうちにやらかしてしまったかもしれない。
「最近、寝不足のようですが大丈夫ですか?」
「ああ、気にすることはない」
天女の麗しい顔に、うっすらくまができていた。
残念なその仕様も、見るものには憂いと勘違いされるかもしれない。
(寝不足ねえ)
実は、それには思い当る。
(あんだけ、毎晩強壮剤食べてたらね)
眠ろうにも眠れまい。
薬だからと黙っていたが、取り過ぎると毒になる。皇帝の夜食で慣れていた猫猫は、すっかりそのことを忘れていた。
それに、てっきり本人の指示で入っているものと思っていたが。
(誰かに盛られていたのか)
悪いことをしたと、朝餉の皿を片付けながらおもった。