Still
高校二年の夏、有紀はよく写真を撮っていた。
空。 電線。 川沿いの道。夕方のスーパー。海へ降りる坂。
何でもない景色ばかりだった。
「そんなの撮って楽しい?」
俺が聞くと、有紀はファインダーを覗いたまま笑った。
「なくなるから」
「何が?」
「全部」
意味が分からなかった。
でも、その横顔だけは妙に覚えている。
有紀とは幼馴染だった。
家が近くて、帰り道も同じで、気づけばいつも隣にいた。
近すぎたのだと思う。
たぶん人は、近すぎる相手には肝心なことほど言えなくなる。
夏の終わり、有紀の進路が決まった。
東京の美大だった。
「そっか」
俺はそう言った。
本当は違った。寂しかった。行かないでほしかった。
でも、“引き止める”という行為が、有紀の未来を奪う気がした。だから言えなかった。
数日後、帰り道の踏切で、有紀が言った。
「東京行ったらさ」
遮断機が降りる。
夕焼けが線路へ落ちていた。
「彼氏とか、できるかな...」
電車の音が近づいてくる。
俺は少し笑った。
「まぁ、有紀モテそうだし」
本当はそんなの嫌だった。
でも好きだからこそ、自由でいてほしかった。
その気持ちが、優しさだと思っていた。
有紀は小さく頷いた。
「……そっか」
その声が少しだけ遠かった。
卒業の日、有紀は写真を一枚くれた。
夕方の海だった。防波堤。オレンジ色の波。
誰もいない景色。裏には何も書かれていなかった。
東京へ行ってから有紀とは少しずつ連絡を取らなくなった。
最初は電話もした。写真も送られてきた。
知らない街、知らない空
でも、時間が経つほど、俺たちは何を話せばいいのか分からなくなっていった。
距離が離れたんじゃない。季節が離れていった。
二十五歳の冬。
ふと仕事帰りに入った書店で、写真集を見つけた。
タイトルは、『still』。
作者名を見た瞬間、息が止まる。
有紀だった。
ページをめくる。
空。坂道。川沿い。 踏切。
全部知っている景色だった。
俺たちが過ごした町だ。
最後のページで手が止まる。
雪の日の駅ホーム。白く霞む線路。
発車標。誰もいないベンチ。
その隅に小さな文章が載っていた。
『この街は、どこを歩いても君がいた』
胸の奥で何かが静かに崩れていく。
あぁ。
そうだったのか。
有紀は、離れたかったわけじゃない。
苦しかったんだ。思い出が多すぎて、俺がいる景色が多すぎて。
でも俺は好きだったから、 引き止めないことが愛情だと思っていた。
想っていた。
きっと同じくらい。
ただ想い方だけが少し違った。
外では雪が降っていた。
街灯の光が滲んで見える。
スマホを取り出す。
有紀の連絡先は、まだ残っていた。
最後のメッセージ。
『写真、続けてみる』
指が止まる。
今さら何を送ればいいのか分からない。
それでも…
写真集の最後のページを、そっと開く。
『still』
そのタイトルが、まるで答えみたいだった。
駅へ向かう人波の向こうで、電車の音がする。
雪は静かに降り続いていた。




