最後の敵はいなくなった
壊れた女が、子どもを産んだ。
その女は、女王となった私の政敵で、異母姉だった。私と争った末に心を壊した。
子どもは男児だった。
石壁がむき出しの部屋で、木の板に藁を置きぼろ布をかぶせただけの寝台の上に座った姉は、人形遊びをするような女児の表情で赤子を抱いていた。赤子はたくさんの空気を吸い込みながら大声で泣きわめいていた。格子の嵌まった窓からの外光が、その輪郭だけを照らす。女と赤子に落ちる影は濃かったが、まるで一つの絵画であるかのようだった。
女がこちらに気づいて顔を上げる。波打つ金髪が、彼女の無邪気な顔を縁取る。
「みて」
差し出すように赤子を抱えた腕を少し伸ばす。
「かわいいでしょ。わたしのこなの」
彼女とは十年にもわたり王座を奪い合い、権謀術数を重ねて命を狙い合った仲であったが、それでも何も知らない子供の時分は、友人のように過ごしたこともあった。ままごとも良くやったものだ。彼女がお妃で、私が侍女で。その逆も然り。――だが、思えばその頃から王座を奪い合っていた。
「このこは、ゆくゆくおうになるわ。きっとりっぱに、このくにをおさめるでしょう」
それは困る。だが、口に出すほど私も愚かではない。壊れた女に通じないこともそうだが、彼女にとって遊びだろうと本気だろうと、今ここで要らぬ波風を立てることはない。
「そうですね」
彼女の足元に跪き、赤子の顔を覗き込む。母親の胸元に縋り付き、やはりあまり質の良くない布に包まって、必死に泣き叫ぶ子ども。お乳をあげたばかりなのに、と女は困った顔をした。赤子の泣き声は必死で、耳を塞ぎたくなるほど声が大きいというのに、何処か頼りない。首が据わっていないどころか身体もふにゃふにゃで、硝子よりも繊細な壊れ物だった。ほんの少しの力で、呆気なく壊れてしまうだろう。
「上手に寝られないのでしょうね」
丁寧に言葉を掛けながら、赤子へと手を伸ばした。
「そうなの?」
「ええ。私の息子もそうでしたから。赤ん坊は、眠り方さえ知らないものです」
もう五年も前のことになるけれど。今は頑健で賢い子に成長している。彼こそ立派な王になることだろう。
代わりましょう。そういうと、女は素直に赤子を差し出した。幼い頃の夢の中にいる彼女は、侍女役の私を信用している。
横抱きにして、右手で首元を掴む。いずれ支えられるようになるとは信じがたいほど、頭は重い。そのくせ頭蓋を覆う骨は柔らかい。指先に力を入れれば容易に凹む。
「少し外を歩けば、気が紛れるかもしれません。私が連れ出してきますから、お妃さまはその間にどうぞお休みを」
幼子のような表情を浮かべていても、彼女の目元には隈があった。夜泣きで満足に眠れていない証拠だろう。頬はそげているし、寝台に目を向ければ赤い染みが付いている。悪露が漏れているようだ。必要最低限の衣食住を与えてはいるけれど、産後の身体を治すには、まだ時間と環境が不足している。
女を閉じ込めた部屋を出て、新しい服とシーツを手配する。赤ん坊を受け取ろうとする本職の侍女の手は断って、私自身が甥を連れて庭に出た。湿気交じりの温い風。眩しい太陽が降り注ぐ。黄色の花が咲き、蝶が飛び、鳥が囀る。春も終わりの頃を迎え、命はますます活気づいていた。
幼子はいつの間にか、泣き止んでいた。小さく口を開け、視線を横に向け、ぼんやりと光を眺めている。何を思っているかは分からない。だが、確実に生まれた世界を肌で、まだ満足に見えぬ目で感じていた。
「……生きていたとて、ろくな人生を送れぬだろうに」
私の息子は、正統な後継者だ。しかし、この子もまた王の血を引く。今でこそ姉は壊れてしまっているが、その前には彼女を担ぎ上げようとした一派がいるわけで。その連中が、いつこの子を担ぎ出そうとするかしれない。私の息子の将来の脅威になりかねないし、新たな戦乱の火種にもなるだろう。
だから私は、この赤子に何らかの処置を下さなければいけない。可哀相だが、ありのままでは生きていけないのだから。
夜になり、私は一人で異母姉の部屋を訪れた。満足に休めたようで、女は暗がりの中でも少しすっきりとした顔をしているようにも見えた。
「姉さん。貴方の息子は、死にました」
悲しそうに顔をゆがめながらも、何処か他人事のようだった。まるで他所の犬が死んだ、と聞かされた時のような反応だった。
「かわいそうに」
それが、彼女が息子に向けた最後の言葉だ。
翌朝、彼女は首を吊っているところを発見された。私が新しく手配したシーツを割いて使ったらしい。
発見者には口止めをし、死体は秘密裡に葬らせた。早朝のことなので、騒ぎになる前に片付けることができた。庭の隅にあったナナカマドの木が、墓標の代わり。彼女は人知れず静かに土に還ることだろう。
私の最後の敵は、こうしていなくなった。
誰かに脅かされることのない生活には、季節が一つ過ぎたころにようやく馴染むことができた。夏の勢いが通り過ぎ、日中の空気も涼やかになった頃、私は一つ新しい試みをする。
庭に面した一室。白に金の模様が入った壁紙の、憩いの部屋。秋の穏やかな日の光が入るそこで、大人にも重みを感じるそれを、息子に手渡す。落とすことのないように椅子に座らせたというのに、受け取った息子の身体は石像のように硬くなっていて、母としては愉快で可笑しくなってしまう。
息子の表情が緩んだのは、数分後。ようやく姿勢にも重みにも慣れたと見える。
「……あ、笑った」
息子が顔を輝かせてこちらを見上げる。私はその腕の中のものに手を伸ばし、指先で軽く小さな胸をくすぐった。
「うー、うー」
弟は兄の顔を見つめて、必死で何かを訴える。口角は少し上がっていて、笑いかけているようだった。聡くもまだ幼い息子は、嬉しくなって顔を綻ばせる。
「ヴィル……おにいちゃんだよ」
首が据わったばかりの弟と、はじめて赤子を抱いた兄が、互いに笑い合う。
窓の外からナナカマドの木が、それを見下ろしていた。




