夏夜に笑う顔〜平安もののけ奇譚〜
『平安もののけ奇譚』の第三弾です
夏の夕暮れ、宮中の奥は、昼の熱を抱えたままだった。廊を歩くと、板の下からまだ温い空気が上がる。
女房たちの居るあたりへ近づくほど、声は低くなる。足音が揃う。袖が触れ合う音だけが目立つ。
御簾の向こう、薄衣が幾重にも重なった座で、女房がひとつ、香炉を前へ寄せる。燈台には灯が入った。
御簾の外が薄く暗くなると、座の輪郭がはっきりした。衣の重なりと、扇の影。
誰かが笑った。小さな噂話がひとつ、扇の陰で回った。
その声が途切れた。
座の端、御簾の影が濃く落ちるところで、白いものが動いた気がした。
白い衣の裾――いや、裾ではない。床に触れていない。
ふわりと浮いたまま、部屋の隅に寄っていく。足元がない。輪郭だけが、薄い布みたいに揺れる。
顔は見えない。
長い黒髪に隠れている。
女房が息を呑んだ。息の音が布を擦った。
隣の女房が、扇で口元を押さえた。声が出る前に息が引っかかった。
もう一人が座をずらそうとして、裾が絡んだ。ほどけない。衣擦れが異様に大きい。
いちばん近い女房が、扇を持ち替えた。指が滑り、扇が畳へ落ちた。乾いた音が跳ねる。
その音で息が戻った者がいて、次の瞬間、甲高い声が裂けた。
「ひ——っ!」
声の主は立とうとして裾を踏み、膝から崩れた。誰かが支えに手を出すが、袖が絡んで上手くいかない。衣擦れが重なり、座の形がほどけていく。
その隙間で、部屋の隅に白いものが浮いた。足がない。白い裾だけが、畳に触れぬまま揺れている。
「いやっ、いや——っ!」
叫びながら扇を振り上げた女房の手が止まった。目が、そこに釘付けになったまま動かない。声だけが途切れ、喉が鳴り、身体がすとんと落ちた。
倒れる音にかぶさって、誰かが簾の端を掴み、引き下ろした。隠すためではない。足場を探すような手つきだ。影が増え、白い輪郭はまだ在るのに、どこに在るのかだけが曖昧になっていった。
女房たちは這うように部屋を出て、別の部屋で固まるように夜を明かした。
⸻
翌日の夜。
何事もなかったことにしたい顔が、宮中には多い。
ゆうべの部屋は封鎖され、離れた部屋で皆過ごす。
けれど集まった座は、最初から整っていなかった。扇は揃わない。膝も揃わない。笑い声は一つも立たない。誰も座の隅を背にしたがらず、簾の影が深い所だけが空いたままだった。
「……今宵は」
誰かが言いかけて、口を閉じた。
そのとき、ひとりの女房が急に息を詰めた。
扇の骨を握った指が白くなる。目が、座の端に吸い寄せられる。
「……っ」
声にならない音が漏れた。次の瞬間、女房は扇を落とした。畳に当たる音が跳ね、座が一斉に揺れた。
女房はそのまま崩れ、口を開けたまま固まった。声が出ない。舌だけが動き、言葉にならない。
「——やめて、やめて」
誰かが立とうとして裾を踏み、ひどくみっともなく転びかけた。
別の女房が悲鳴を噛み殺し、喉の奥で鳴らした。簾ががた、と鳴る。誰かが掴んだからだ。
「水を——早く」
「誰か――っ」「誰か、誰か!」
言葉がばらばらに飛び、誰も指図の形にならない。
倒れた女房の袖へ手を伸ばした者が、触れた瞬間に引っ込めた。汗が冷えているのに、指先だけが熱い。
座は、もう座ではなかった。
誰も次の言葉を探せず、息だけが乱れていた。
⸻
翌朝から、臥せる者が出た。
人が減った。
女房部屋の人数が減ると、声がさらに低くなる。いつもより沈む。
「部屋に何かある」
そんな言い方が、御簾の内側でだけ回った。
どの部屋なのかは、言われない。言えば、その部屋の者の責になるからだ。
⸻
昼下がり、近衛少将は宮中の廊を渡っていた。冠の下の髻は崩れず、袖の運びも軽い。整った顔立ちのせいか、すれ違う者はつい足をゆるめるが、本人は気づかないまま、若者らしい足取りで進む。
その背を、ひとりの少年が追いかけて来た。近衛府に出入りする小舎人だ。少将に仕えて、雑務をこなしている少年で、名を「竹丸」と言う。
今の竹丸は余裕がないらしい。走り方が下手で、廊板を打つ音が大きい。
「少将様。——奥から、少し」
少将は立ち止まった。
竹丸は息を整えようとせず、そのまま言った。
「女房方で、臥せる者が出ております。数が」
少将は、この竹丸の姉が女房に仕えていることを思い出す。
「姉からの話か。それで、病か」
「はい。ただそれが……病とも言い切れぬと」
少将は目を細める。
竹丸は言いにくそうに唇を動かし、結局、短く済ませた。
「見た、と」
「何を」
竹丸は喉を鳴らした。答えを言い切れない。言葉にするのが怖い顔だった。
「……白いものを。座の隅に、ふわっと……顔はわからず」
少将はそこで足を止めたまま、続きを待った。
竹丸は首を振りかけて、振らない。
「臥せているのは、どこの者だ」
「女房方の……下の者も、上の者も」
少将は顎を撫でた。
噂の形に落ちない。誰か一人の怯えが伝染した、という数ではない。数が出ている。数が出るときは、場に何かが混じる。
「その“座”は、ひとつか」
竹丸は曖昧に首を振った。
「違う、と……申しておりました。場所を変えても、同じように……」
少将は息を置いた。
今夜は夕涼みの催しがある。女房たちの出入りも増える。こういう騒ぎは、表へは出さず、奥で押し潰そうとする。
「臥せている者を見たか」
「いえ。見ていません」
少将は、行くべき先を思い浮かべた。
嵯峨野。
あの切れ長の目。沈香の匂い。
少将は竹丸に言った。
「女房方の名を、できるだけ拾っておけ。臥せている者。見たと言った者。何を見たのか」
竹丸が頷く。
少将は廊を急いだ。
夕方の支度が始まる前に、嵯峨殿へ会いに行く。
⸻
嵯峨野にある山荘の門は閉じていた。
少将が名を告げる前に、内側で戸が擦れた。家人が戸を開け、無言で脇へ退いた。
山を背にした家は静かで、手入れの行き届いた匂いがする。人の気配は薄い。少将は、通されるまま奥へ進んだ。
奥の座にいたのは、嵯峨殿だった。
長い黒髪を後ろで束ねただけで、痩身。姿勢が崩れない。切れ長の鋭い目と通った鼻筋が、涼しい顔立ちをさらに冷たく見せている。
硯が出たまま、紙も置かれたままだ。沈香と墨の匂いが薄く立っていた。
「嵯峨殿。知恵を貸してくれ」
座に着くなり少将が言うと、嵯峨殿は筆を止めた。硯の脇に筆を置き、正面から少将へ向き直る。
「何があった」
少将はふっと息を整え、話し始めた。
「女房方で、伏せる者が出ている」
嵯峨殿は相槌を打たない。遮りもしない。ただ、聞く。
「怨霊の類が出たらしい。それを見た者たちが、怖がって起きられぬ」
嵯峨殿は一拍置いた。
「怨霊……どんなものを見た、と」
「白い女だそうだ。宙に浮いていた、と」
「顔までは見えていない。——座を変えても、また出た」
嵯峨殿はそこで初めて口を開いた。
「同じ場所ではない、と」
「違う」
「ならば、場に憑いているのではないな」
少将は頷いた。
「きっかけが分からぬ。人の集まるところで起きている。夜だ。——二度とも」
嵯峨殿は視線を落としたまま、短く言った。
「最近、女官でいなくなった者は」
少将は即答できなかった。
だが、その問いが的外れでないことは分かる。
「辞めた者か。亡くなった者か」
「どちらもだ」
嵯峨殿はそれ以上説明しない。
少将も、理由を求めなかった。
「調べる」
そう言って、少将は立ち上がった。
嵯峨殿は止めない。
立ち上がり、少将の袖口へ手を伸ばし、結び目を一度直した。
少将は息を整え、山荘を出た。
⸻
宮中へ戻ると、人の気配が厚かった。
今夜の涼みの催しが近いせいだろう。廊の端々に、仕度の足音がある。布が擦れる音。箱が置かれる音。水を運ぶ音。
少将は近衛府に戻らず、小舎人の竹丸を連れ、そのまま宮中の奥へ行った。
女房たちの区画の手前で足を止める。ここから先は、男の声がそのまま届かない。
「おまえの姉は、ここに勤めているな」
竹丸が頷く。
「呼べ。急ぎだ」
竹丸は走り出した。走り方は相変わらず落ち着かない。音が出る。けれど今は、それが頼もしかった。
少将は廊の柱影で待った。
仕度の人足が通り過ぎ、裾が揺れる。箱がぶつかり、誰かが小声で詫びる。そういう現実の音の中で、先ほど見聞きしたものだけが浮く。
やがて、竹丸が戻って来た。後ろに女房がひとり付いている。
派手な装いではなく下仕え寄りのようだが、袖口の整い方がきれいだ。人の目がある場所で、言うべきことと言わぬことを知っている歩き方をしていた。
竹丸が言った。
「姉の椿でございます。——左京の命婦さまに仕えております」
女房は深くは頭を下げない。礼は取り、顔は上げる。少将を見て、場を読む目になった。
「少将様。何か」
少将は周りを一度だけ見た。
人の往来が切れた瞬間に、声を落とす。
「女房方で、臥せる者が出ている。怨霊の類が出たらしい。見た者が怖がって、伏せている」
女房の目が動いた。知っている者の動きだ。
「……お尋ねの向きは」
「近頃、奥から居なくなった者がおるのではないか」
女房は息を小さく吐いた。すぐ答える気配がなかった。
それから、短く言う。
「春に——ひとり、亡くなっております」
少将はその言葉を待っていたわけではない。けれど、待っていたのだと分かった。
「名は」
「……伊勢の君と呼ばれていた者です」
少将には覚えがない。覚えがないのが普通だ。
少将は言葉だけを重ねる。
「病か」
「違います」
女房が切った。切り方に、場の重さがある。
「自ら」
少将は一拍置いた。
「いつだ」
「春の終わり頃。——薫物合のあとでした」
季節が繋がる。
春の催しのあとに、夏の夕涼み。
まさに今夜、帝の御前でまた薫物合が行われる。
一気に気持ちがざらつく。
「何があった」
女房は少将を見たまま、言葉を選んだ。
選んだ末に、削って言う。
「秘伝の練香を持っていたと聞きます。——盗まれた、と」
「盗まれた」
「はい。けれど、証がございませぬ。先に使われたと申したところ、虚言となじられ……」
少将の袖の中で指が固くなる。
虚言、という言葉は、言われた場所ごと人を削る。
「誰が先に使った」
女房は返事を躊躇する。
「名を出せば、また、同じことが起きます」
少将は声を落とした。
「今夜は御前だ。先に口が回れば、守れぬ」
女房のまぶたが一度だけ伏せられた。
そして、必要なところだけ言う。
「右少弁の君と呼ばれる女房で、香の上手と評判の者がいます。」
少将は眉を寄せた。
「その者が盗んだのか」
椿は息を小さく吐いた。
「……確かなことは、誰も申しません。けれど」
「けれど?」
「春の薫物合の前夜、右少弁の君が伊勢の君の部屋の近くを歩いていたのを見た、という者がおります。翌日、伊勢の君の秘伝と同じ香りが、右少弁の君の香炉から立ち上った、と」
少将の指が袖の中で固くなる。
「伊勢の君は、それを訴えたのか」
「はい。けれど、証拠がございませぬ。『先に思いついただけだ』と言われ、虚言とされました」
椿の声が沈む。
「……そして、伊勢の君は、それから間もなく」
少将は頷かなかった。頷けない。
だが、繋がった。
「右少弁の君は、今夜の催しにも出るか」
「出ます」
女房は今度こそ即答した。
「わかった。よく話してくれた」
少将の言葉に、女房は小さく頭を下げた。
竹丸は椿を見送り、少将を見る。何か言いたげだが、言わない。
少将は廊を急いだ。
――嵯峨野へ。
夕涼みの会の始まる刻が近づく。
⸻
嵯峨野へ馬を駆ける。都から離れるほど、人の声が薄くなる。
座に入ると、嵯峨殿は同じ場所にいた。
硯も紙も動いていない。墨だけが乾きかけている。人の時間の進み方が違う。
少将は座る前に言った。
「女官が死んでいた。春の薫物合のあと、自ら。秘伝の練香を盗まれ、先に使われ、虚言とされた」
嵯峨殿は、少将を見た。
肩の奥ではない。顔を、はっきりと。
「香だ」
短い。
言い切りだった。
「香炉か」
「香炉も、香もだ」
嵯峨殿はそれ以上、言葉を飾らない。
「香は嗅がせる。嗅がせて、囲う。——薫物合は、その場だ」
少将の指が袖の中で固くなる。
「今夜が、御前での薫物合だ」
嵯峨殿は頷かない。
頷かずに、淡い声で言った。
「怨霊を、御前へ出させるな」
「私の父も、帝も、その場に居る」
嵯峨殿の鋭い目が少将を深く見やる。
少将は頷いて、そのまま身を翻して外へ出た。
山荘の門を抜ける頃には、もう空の色が落ちている。
⸻
都へ戻る。
宮中へ近づくほど、人の声が増える。
灯りが増える。衣の色が増える。
夕涼みの会の支度は、すでに始まっている。
少将は、門を抜けるなり小舎人を呼んだ。
「薫物合の席はどこだ」
「清涼殿の——」
少将は足を止めなかった。
廊を急ぐ。
近衛府の詰所へは寄らない。父へ取り次ぐ段取りも踏まない。
段取りを踏めば、間に合わない。
清涼殿へ向かう廊は、人が多い。
少将はその中を割るように進んだ。声を荒げず、ただ止まらない。止める者が居ないのは、冠と父の名の力だ。
催しの場には、御簾や几帳が様々並んでいる。
集う女房たちの顔をあからさまにしないためだ。
「今は誰がお披露目を」
「ちょうど右少弁の君が……」
御前の御簾の前に近づくと、空気が変わる。
人が言葉を控える空気。
その中で、香の匂いが漂う。
御簾の向こうに人影がある。帝だ。
父、東三条の右大臣も座に居る。
その前に、台盤が置かれていた。
腰の高さほどの台盤の上には大きめの伏籠がある。
籐できつく編まれた半円の伏籠の下には、問題の香炉があるはずだ。
膝立ちで近寄った女房によって、いま伏籠が外されようとしている。
少将は言葉を選ばずに叫んだ。
「御前、失礼!——その香炉、使うな!」
場が止まる。
扇が止まる。衣擦れが止まる。
女たちが驚き、顔を隠す。
だが、香は止まらない。伏籠の隙間から、匂いが滲む。
几帳の手前にいた父が振り向いた。
東三条の右大臣の視線が少将を捉える。驚きではない。叱責でもない。まず、状況を掴もうとする目だ。
「少将。何事だ」
少将は一歩進んだ。
御前の前へ出る距離だ。普通なら止められる。だが場の者が止められない速さで、少将は伏籠へ近づいた。
「それは、出してはならぬ」
少将は言った。
言い切ってから、しゃがみこみ、伏籠へ手を出した。
伏籠の中に香炉はあった。
陶だ。名品の艶がある。
火種が入れられたばかりだった。
香が、いま立ち上がろうとしている。
側にいた女房が傾けて持ち上げている伏籠の内側が、わずかに白く曇った。
——そこに、何かが寄る気配がある。
少将は躊躇いなく香炉を伏籠から出さず、中の金属の盆へ叩きつけた。
乾いた音がした。
割れた。陶が裂け、火種が散り、香が一瞬だけ強く立った。
その瞬間、少将は見た。
傾けた伏籠の中に、顔があった。
顔だけが、そこにある。
髪が長い。白い頬が近すぎる。
口元が横に大きく、笑いの形を作っている。
目を大きく開けて、顔は左右に揺れていた。
少将は伏籠を力いっぱい伏せ、目を逸らした。
像は目の奥に貼りつく。
場の誰もが息を呑んだ。
けれど、皆に見えたのは、薄く立ち上る白い霞のようなものだけだっただろう。
「顔」を見た者は、少将と伏籠を開けていた女房だけのはず。
香の匂いが途切れると、白い霞は消えた。
割れた陶片と灰だけが残る。火種は誰かが水で始末したようだ。
場が、ゆっくり戻る。
帝の声が、低く落ちた。
「よし」
帝の肯定に、周りの者たちがふっと息を吐く。
少将は返事ができない。
胸の奥が詰まっている。
父が、少将のほうへ一歩出た。
叱るためではない。確かめるためだ。
「怪異か」
少将は、ようやく息を吐いた。
「……はい」
「よくやった」
父は頷いた。
その頷きは、場への頷きでもあった。
褒められた言葉が、今は重い。
少将は御前の空気が再び固く締まるのを感じた。
そして、遅れて気づく。
伏籠を扱っていた女房の一人が、倒れていた。
誰かが支えようとして、手が止まる。
横向きに倒れた女房の目が、恐怖に見開いている。
まばたきをしない。
少将は一歩動こうとして、父の声に止められた。
「少将。——触るな」
父の言葉は、嵯峨殿の言葉に似ていた。
少将は動けず、倒れた女房の顔を見た。
女房は、恐怖そのものの顔をしていた。
周りがざわめきかけ、すぐ沈む。
帝の前だ。騒げない。
少将は息を整えようとして、整わなかった。
倒れた女房のまわりに、人の輪ができた。けれど輪は密にならない。誰も触れようとしない。
女房の目は見開いたままだった。瞳が何かを映している。
恐怖にゆがんだ口元が、わずかに動いた。笑いの形に——いや、違う。
謝っているのか。許しを乞うているのか。
御前で、声を上げられない。誰もが息だけで動いている。
僧と薬師が呼ばれ、短く診た。
首を横に振る動作だけが返ってくる。言葉にしなくても分かる合図だった。
帝の声が落ちる。
「下げよ」
その一言で、人が現実の手順に戻る。
倒れた女房は向こうへ運ばれ、香の席は解かれた。
残ったのは、割れた香炉と灰と、場に残り続ける“見えなかったふり”だ。
少将は、香炉の破片を見た。
艶のある陶が割れて、断面だけが白い。火種の黒と混じっている。
父、東三条の右大臣が少将へ寄った。近い。
声は低い。
「よく止めた。——だが、踏み込みすぎるな」
叱責ではない。
止め方を教える声だ。褒められているのに、背筋が冷える。
「……はい」
少将はそれ以上言えない。
自分の目の奥に、さっきの“顔だけ”がまだある。あの距離の近さが、言葉を削る。
父は視線を外へ投げた。
片付けが始まっている。香炉を扱っていた者たちが、顔色を消して動いている。
一人が伏籠を開ける。
少将は思わず目をそらした。
だが、何も騒ぎは起きず、片付けは進められる。
「倒れたのは誰だ」
少将が竹丸を呼ぶより先に、父が言った。
父のほうが早く拾う。宮中で生きてきた速度だ。
「右少弁の君——香の上手と」
父の目が、一度だけ細くなる。
そして、何も言わない。
少将の胸の奥が詰まった。
恨みの相手。
盗んだか、盗ませたか、奪ったか、奪われたと決めつけたか。
——その中心にいた女房が、御前で死んだ。
少将は、父の前で呼吸を整えた。
褒められる筋の話なのに、吐き気に近いものが上がる。
父は少将へ言った。
「今夜のことは、口を閉じさせろ。お前の判断は、帝の前での判断だ。——噂に落とすな」
少将は頷くしかない。
頷くことで、ひとつ終わった形になる。けれど、少将の中では終わっていない。
⸻
夜。
少将は近衛府に戻っても座に着けなかった。
香炉を叩き割った掌が、まだ熱を覚えている。火の熱ではなく、場の熱だ。
小舎人の竹丸が戻り、拾った話を短く告げる。
先ほど倒れた女房はやはり、命を落とした、と。
春の薫物合で、秘伝の練香を持っていた女房がいた。
それが、別の者の香として先に出た。
嘘つきとされた女房は、ほどなく自ら死んだ。
そして春から夏へ、勝った側の香炉が、あちこちで使われ続けた。
少将は聞き終え、口を閉じた。
筋は通る。
そのぶん、胸が余計に冷える。
少将は、最後の手順を踏むために嵯峨野へ向かった。
ただ報告のためではない。自分の中身を戻す場所が必要だった。
⸻
嵯峨野山荘。
嵯峨殿は座にいた。
硯の墨が、今度は乾いている。時間が進んだ証がそれだけだ。
少将は座る前に言った。
「香炉を割った。御前で。——だが、女房が一人、死んだ」
嵯峨殿は、少将の顔を見て、短く言う。
「見たか」
少将は息を置いた。
「……見た」
嵯峨殿は、何も言わない。
言わない代わりに、立ち上がった。奥へ行き、湯の器を持って戻る。湯気は強くない。色が濃い。
「飲め」
少将は器を受け取った。
匂いが青い。薬湯だ。苦い。鼻の奥が少し痛む。
それが、なぜか助かる。
少将は一口飲んだ。苦味が喉を落ちる。
香の匂いが、ようやく薄くなる気がした。
「主上は『よし』と。父にも褒められた」
少将が言う。
言った瞬間、自分でも可笑しかった。褒められたことを報告しているのに、声が沈む。
嵯峨殿は、少将を見たまま言った。
「褒めるしかない」
少将は眉を寄せた。
「私は、助けたつもりだった。御前を。父を。——けれど」
「けれど?」
「一人、死んだ」
少将の声が低くなる。
「死んだ女房が、本当に盗んだのかも分からぬ。もしかしたら、無実だったかもしれぬ。それなのに、私が香炉を割ったせいで——」
「違う」
嵯峨殿が遮った。
「おまえが割らねば、御前で何が起きたか分からぬ。おまえは、助けた」
「だが——」
「助けた」
嵯峨殿は繰り返した。
その短さが、慰めに近い。
少将は黙った。
嵯峨殿の言葉を、受け取るしかない。
少将は器をもう一口飲み、口を拭った。
「……なら、なぜ死んだ」
嵯峨殿は、少将から目を外さない。
「呼ばれた側が勝てば、生きる。負ければ、連れて行かれる」
「あの者は、負けた、と……」
嵯峨殿は低く静かに言う。
「そうだ。そして、おまえは勝った。ここに戻った」
少将は薬湯の器を見下ろした。
「……では、伊勢の君は満足したのか。連れて行きたかった相手を連れて行って」
「分からぬ」嵯峨殿は短く言った。「怨みは、終わりを決めぬ」
「……時雨」
少将は、嵯峨殿の諱を呟いた。
「なんだ。子どものころに戻ったか――実弥」
嵯峨殿は咎めない。少将の諱を返しのように言う。
少将は黙った。
目の奥で「顔」が笑う。
嵯峨殿は、薬湯の器を少将の前へ戻させるように、視線で促した。
少将が器を置くと、嵯峨殿は言った。
「今夜は帰るな。ここで寝ろ」
少将は顔を上げた。
「お前の家だぞ」
「知っている」
嵯峨殿は言った。
そこで、言葉が終わる。余計な飾りがない。
⸻
夜更け。
少将は山荘の客の寝所で横になった。
目を閉じると、すぐ顔が来る。あの距離で、顔だけが来る。
少将は身を起こし、渡された薬草の包みを嗅いだ。
青い匂いが鼻を刺す。苦味が舌の奥に戻る。
それで、少しだけ現実に足が着く。
嵯峨殿の声が、先ほどのまま蘇る。
『おまえは勝った。ここに戻った』
少将は、薬草の匂いをもう一度深く吸った。
目を閉じた。
夜半、少将は目を閉じたまま、伏籠の中の顔を思い出していた。
あの距離。あの笑い。見開いた目。左右に揺れて迫る。
喉の奥が詰まる。
そのとき、障子の向こうで気配がした。
足音はない。けれど、嵯峨殿がそこに立っているのが分かる。
少将は目を開けた。
障子の隙間から、細い灯りが漏れている。
「……起きているのか」
嵯峨殿の声だった。
少将は身を起こした。
「ああ」
障子が少しだけ開いた。
嵯峨殿が立っている。長い黒髪を束ねたまま、薄衣一枚の姿だ。
「薬湯を足そうか」
「……頼む」
嵯峨殿は奥へ消え、すぐ戻って来た。
湯の器を少将の前に置き、そのまま少し離れた場所に座る。
少将は湯を一口飲んだ。苦味が喉を落ちる。
嵯峨殿は黙って少将を見ていた。
「……御前で、何を見た」
少将は器を持ったまま、言葉を選んだ。
「顔だ。伏籠の中に、顔だけがあった」
嵯峨殿の目が、わずかに細くなる。
「距離は」
「近かった。——触れるほど。目を逸らした」
嵯峨殿は息を置いた。
「よく、目を逸らした」
「……逸らさねば、どうなっていた」
嵯峨殿は答えなかった。
少将は湯を飲み干した。
器を置くと、嵯峨殿が言った。
「今夜は、私がここに居る」
少将は顔を上げた。
「見張りか」
「違う」
嵯峨殿は短く言った。
それ以上、説明しない。
少将は、ふっと息を吐いた。
「……助かる。時雨」
嵯峨殿は頷かなかった。
代わりに、短く言った。
「眠れ。実弥」
命令ではない。願いに近い声だ。
立ち上がらずに、そこに座ったままいる。
少将は再び横になった。
嵯峨殿の気配が、すぐ近くにある。
その夜、少将は眠れなかったが、目を閉じることはできた。
そして、朝が来るまで、嵯峨殿はそこに居た。




