序章第5話 エルフの森で出会った師範
リュミエラに連れられ、俺は街の外へ出た。
風の匂いが少し変わった。街のマナ霧が消え、かわりに柔らかな香草の匂いが混じっている。
「本当に行くのか? その……エルフのところへ」
「行くしかないでしょう。あなたは今、“静の呼吸”を会得しないと危険なんです」
「静の……呼吸?」
「ええ。
あなたのようにマナの圧を溜めやすい体質は“動”の呼吸に適性があります。
でも圧を溜めるだけの器は、すぐに壊れる」
「……まぁ壊れかけてる気はするな」
「そこで必要なのが“静”。
溜めたマナを沈め、整え、コントロールする呼吸。
それを最も美しく扱う種族――エルフです」
森に入ると、空気が一変した。
外より澄んでいるのに、胸が痛くない。
深く吸える。丸い香りが肺に広がる。
(あれ……? 吸いやすい)
リュミエラが微笑んだ。
「この森は、マナ濃度が街より“均一”なんです。
あなたのような人でも呼吸しやすいでしょう?」
「……なるほどな」
少し歩くと、ひっそりとした祠の前に少女が立っていた。
長い金髪。緑のローブ。白い肌。
年齢は俺より少し下か……いや、この世界の年齢基準は分からない。
何よりも、その佇まいが静かすぎて、風景に溶け込んでいる。
少女はそっと目を上げた。
「……その人ですか?」
「ええ、セリア。この人が例の“異界の人”よ」
セリアと呼ばれた少女は、俺の全身をじっと観察した。
瞳は静かで澄んでいたが、射抜くような鋭さもある。
(こいつ……強いな)
何もしていないのに分かる。
気配が消えている。そこに“立っている”のに、影が薄い。
(これが……隠密の極みってやつか?)
セリアは一言だけ口を開いた。
「息を……吸って」
「あ、ああ」
言われた通りに深呼吸をする。
肺がわずかに痛むが、森の空気はやはり吸いやすい。
次にセリアは囁くように言った。
「吐いて……」
俺が吐き出すと、彼女は小さく頷いた。
「……やっぱり。あなた、“静”の資質があります」
「資質?」
「普通の人間は、自分の呼吸をここまで“抑える”ことができません。
あなたの息の止め方、圧の解き方……すべてが独特です」
リュミエラが笑った。
「ね? 私は最初から言ってたのよ。
あなたの“偶発迷彩”……あれは静の素質がないと起きません」
「偶発……迷彩?」
「虚無獣に追われたとき、あなた光を歪めてましたよね?」
「一瞬だけ透明になりかけた、って言ってたやつか?」
「そう。
あれは“静”の呼吸が一瞬だけ自然に発動したんです。
静は、気配を沈め、光さえも封じる技ですから」
(光さえ……か)
セリアは俺の目をじっと見つめた。
「あなた。もう一度だけ息を止めてみて」
「お、おう」
息を吸う――
止める。
森が静まった。
セリアの瞳が少しだけ揺れた。
「……すごい。
あなた、本当に一瞬で気配が消えるんですね」
「消えてるのか?」
「はい。目には見えてます。でも……
生物としての“気配”が完全に途切れています」
リュミエラが横で補足する。
「マナ反応ゼロだからこそできる芸当ですよ。
普通の生物は絶対にゼロになりません」
なんだか褒められているのか怖がられているのか分からない。
「ただし――」
セリアはスッと顔を近づけた。
「そのままでは危険です。
息を止めるだけで気配が消える人間なんて、不完全すぎる」
「不完全?」
「気配を消すには、呼吸そのものが静かでなければなりません。
でもあなたの呼吸は、荒い。
乱れている。痛んでいる。
そのまま“静”を使えば――死んでしまう」
「厳しいな……」
「厳しくないと、守れないものもあるのです」
少女の言葉とは思えない迫力があった。
そして彼女は背を向けた。
「ついてきて。
“静の呼吸”の基礎から教えます」
「いきなりか?」
「時間はありません。虚無獣は増えています。
あなたの力は……戦場に必要です」
(戦場……)
まだまともに走れない俺が?
だが――胸の奥で小さな熱が灯る。
(呼吸さえ合えば……俺はもっと動ける)
昨日のオーガ。
今日の虚無獣。
偶然じゃない。
俺の身体には、この世界で戦うための“呼吸”がまだ眠っている。
セリアが振り返り、静かに言った。
「……あなた、伸びます。
だから――静かに、深く。
私の呼吸を真似してください」
俺は深く息を吸った。
(進むしかねぇよな)
森の奥へ歩くたび、空気は澄み、静けさが強くなる。
こうして俺は、
“静の呼吸”の師――エルフのセリアに弟子入りした。
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