――冬を前にした肌寒い朝の、
濃い霧の日だった。
晴れた日の早朝は、
空気中の蒸気が冷やされて、
湖の周囲は濃い霧に包まれる。
干し草を敷いた寝椅子と共に
艀に乗せられたわたしは、
城へと移り住むことになった。
湖の西に建つ塔から城への移住に伴い、
司書官のゴレムが持ち込んだ本と
本棚が燃やされた。

乳母が言うには落胤でしかないわたしが、
城に住むのは喜ぶべき話かもしれない。
文字や言葉を教えてくれたゴレムが
塔に隠していた本を燃やされて、
素直に喜べるはずはなかった。
塔を追い出されたわたしに代わって、
兵士達が見張り塔に立つ。
見張り塔は軍事拠点として、
本来の役割を果たす。
西のカヴァの軍が山を穿ち、
道を拓いてネルタの国土に侵攻を始めた。
わたしが産まれるずっと前から、
ネルタと対立を続けていたカヴァ。
20年も続くカヴァの憎しみは執念深く、
湖の霧のように、その日の気分で
晴れたり薄れたりはしない。
『あぁ、良かぁない。良かぁない。』
濃霧の中で星鳥の群れを見た老水夫が
頻りに呟いた。

ネルタの王、ケイロウの胤子のわたしは
城へと運ばれる。
城内の貴賓室に落胤の部屋はなかった。
城から北に隣る、月の館と呼ばれる
女達が暮らす別館に連れていかれた。
別館の地下に設けられた食料貯蔵室で、
わたしは下女達と暮らすことになった。
『この子はニース。』
小鳥の囀りに似た涼やかな声。
わたしに敵意を向けてそう呼んだのは、
燃えるような赤い髪と宝石のような目をした
貴族の若い女。
ラミーはわたしの腹違いとされる姉で、
この国の第一王女。

腹違いで母の居なかったわたしは、
昔からラミーや彼女の兄のモローなどに
『ニース』という蔑称で呼ばれていた。
部屋が用意されると思っていたわたしに、
ラミーと貴族の女達は罵倒し、嘲笑した。
彼女が呼んだ名前をわたしが否定しても、
頬を叩かれて床に倒され、
彼女達の気が済むまで蹴られた。
ラミーの憂さ晴らしは間歇的に行われた。
地下の食料貯蔵室には日持ちする食材と、
燃料の薪が豊富にあったけれど、
それらは厳重に管理されている。
水さえも、壁から突き出た管から、
地中に滲みる僅かな水を集めるしかない。
日当たりの悪い別館の地下は
日中も寒かった。
食料貯蔵室に居る薄白い顔の下女達は、
城に住む貴族に提供する
料理の下準備をさせられる。
下女達に寝る暇は与えられず、
眠りながらポッポの皮剥きをする。
粉挽きの下女が石臼を回し、
常に低い音が鳴り続ける。
城と別館の近くに幅広い川はあっても、
『退化の科学論』に書かれていた、
水車を見かけることは無かった。
塔からやってきたわたしは
貯蔵室で労働を課せられず、
しかし貴族扱いもされない。
従者も乳母も付いていないのを見て、
下女達もわたしの扱いに困っていた。
わたしに提供されたマリセスの果実は、
初日は1個だったものが翌日には半分に、
不満を示さなければ欠片に変わり、
最後には皮だけになった。
下女達はその程度の嫌がらせで満足する。
乳母すら居らず、本のない地下での生活は、
わたしにとっては手探りだった。
乳母に風呂で手荒く洗われる生活に比べ、
観察の対象が多くて忙しい。
記憶の中の本を読み直すのにも飽き、
わたしは本の代わりに下女達を観察した。
耳にするおかしな言葉も、
粘土質の壁や床に書き写して訊ねた。
わたしにとっては
梢で囀る鳥や塔に入り込んだ虫と、
同じ扱いだったのかもしれない。
仕事のしないわたしを、
下女達は疎ましく思ったに違いない。
広くはない地下で、
道具や身体を当てられることも多かった。
下女達は与えられた僅かな水を
布に吸わせて身体を拭き、爪で髪を梳き、
拾い集めた糸屑で服を繕う。
何人かの下女には赤子が居た。
赤子にお乳を与えるあいだは、
一時の安らぎを得て、母の顔をする。
荒れた手を擦りながら赤子の寝顔を見て、
泣き声を聞きながら下女達は働いた。
お腹の膨らませた下女達は
誰に聞かせるわけでもなく、
喉で静かに歌い、指や足を使って、
独りで誰かの為に踊っていた。
他の若い下女達はみんな、妊娠していた。
鳥や虫の騒がしい塔での暮らしとは異なり、
石臼と赤子の泣き声が合奏して、
耳が疲れる賑やかな地下。
ここでは森も湖も眺められず、
鳥の囀りも虫の囁き声も届かない。
やることのないわたしは
地下に居た老助産師と共に、
下女達の出産に何回も立ち会った。
できるだけ清潔な布を集め、
お湯を用意して、臍帯を結紮し、
胎盤を焼いて食べさせた。
わたしが初めて作った料理。
母体が生成し、出産と共に娩出される胎盤。
『銅貨の味』で不評だったけれど、
下女達は長い長い苦痛と出産を終えて、
お乳を吸って眠る赤子を見て安堵する。
下女達の仕事を手伝ってみたものの、
観察していても同じようにはできず、
赤子の子守りや不要物の処理をさせられた。
わたしが断っているにも関わらず、
下女達に手荒く身体を洗われて、
彼女達の憂さ晴らしで伸びた髪を切られた。
貯蔵室での暮らしになってしばらくして、
ゴレムの話が耳に入った。
塔に住んでいた頃のわたしに、
本を教えていた最高司書官のゴレムは、
王と対立したことが原因で処刑された。
下女達の口は軽かった。
そのせいで下女達は叱責もされた。
――言葉に鍵はかけられないものね…。
叱るのは後から貯蔵室にやってきた
貴族の女達で、その中にはラミーも居た。
暗い貯蔵室でも燃えるような赤い髪は
艶やかで美しく、濡らした瞳には
全てを照らす陽光の輝きがあった。
彼女はわたしが視界に入れば厳しく叩き、
罵声を浴びせて蹴りつけた。
罵倒や暴力は貴族の女達を笑わせた。
――粉挽きを笑う。
貴族達が嘲るのはわたしだけではなかった。
下女達が皮剥きをする姿を、
出産を、赤子にお乳を与える姿を、
貴族が指示して嘲笑する。
下女達は笑わず、貴族を蔑んだ目で見る。
異母姉のラミーが地下にやってきたことで
わたしは毎日叩かれ、痣や瘤の経過を
観察するのが日課になった。
そんな地下では、
ラミーもお腹を膨らませた妊婦だった。
若くして妊娠した正統な王女が、
地下での生活を強いられた。
彼女のお腹の子種は、王の父か兄だと
慎みを知らない下女達に噂される。
その流言が気に障って常に苛立っていた。
わたしに暴力を振るわない日の彼女は、
気分を悪くして横臥している。
他の貴族達も王女の機嫌を損ねないように
咳もせず、物音にも注意していた。
下女達がラミーの居ない場所で、
彼女のことを話す時は『お嬢様』と呼んだ。
赤子が泣けば、
その母は別の部屋に移って仕事をした。
貯蔵室で暮らす下女達は畏れていた。
日が経つと、
若い下女達の何人かが部屋を移された。
赤子を抱えた母達は、戻ってこなかった。
勝利の知らせは何度か地下に届いても、
わたしが出られることもなかった。
ある日はラミーの実兄にあたるモローが
戦死したという噂が飛び交った。

その日は下女達が予想した通り、
ラミーは荒れてわたしを蹴った。
タライに張った水が凍る。

貯蔵室は薄暗いまま冬に入った。
わたしがやってきた時に比べ、
ひとはずいぶんと減っていた。
老助産師も帰ってこない。
食料貯蔵室には食材の補給が来ない。
わたし達は食事も満足に得られず、
壁に刺さった管の水も凍ってしまい、
お湯も充分に作れなかった。
計算するまでもなく、
食料も燃料も尽きかけていた。
パンの原料になるブレズの子実もなく、
回し続けていた石臼はずっと止まっていた。
一握りのポッポを蒸しても、
妊婦達の空腹は満たされない。
それと、ラミーの陣痛の頻度が増えていた。
彼女は細身で若いのに
必要な食事も得られず、
薄白さが増した顔で悪阻を起こし、
お腹がずっと小さいままだった。
老助産師が居なくなった貯蔵室で、
わたしは貴族の助産行為をしていた。
何人かの赤子を取り上げた。
痩せ細った女から産まれた赤子は、
産声を放つこともなく死んでしまった。
わたしは何度も責められたけれど、
代わりの助産師は居なかったし、
お乳を分けられる乳母でもなかった。
食べ物や水が無ければお乳は作れず、
母体の生命活動が優先されて、
胎内の子は育たない。
記憶にある本の知識で説明しても
女達の沸き立つ怒りと罵声で、わたしの言葉は
掻き消されてしまう。
暗く冷たい貯蔵室に作物は実らず、
胎児は眠ったまま起きてはくれない。
失意の女と眠ったままの赤子は、
男達によって貯蔵室を連れ出されると、
地下には戻ってこなかった。
◆
ラミーに蹴り起こされて、
地下から外に出された。
素足で泥に混ざった霜柱を踏んだ。
久しぶりの外は夜でも暖かく、
全てのものが燃やされていた。
貯蔵室に残された
わたし達の預かり知らないところで、
戦争が終わった。
ネルタの王、ケイロウは以前から自分を
『炎を操り、呪いを使う神』と称し欺いた。

彼が祈れば炎は勢いを増し、
声を発すると望み通りの色に変わった。
民衆は神の化身である王の彼に日々祈り、
彼が勝利へと導くと信じ込んでいた。
湖を形作るネルタの繍旗が燃やされる。

赤い旗。
銀の蹄鉄を描くカヴァの繍旗が風に靡く。

外の空気に晒された鼻には、
焦げた臭気が纏わりついた。
カヴァの兵達が穴を掘り、
カヴァの子供達が土を運ぶ。
カヴァの娼婦は死体から装飾品を外し、
死体を穴に落とした。
穴には死体が並べられ、
土を被せて埋められていく。
血と泥が混ざった雪の上に灰が降り、
地面が黒く汚れる。
寒さと熱気で灰色の靄が周囲に漂っていた。
弱ったラミーを介助して、
カヴァの兵に押されて歩く。
オルドラスという名前の、
冷たい刃にも似た目をした
男の前に立たされた。
暗い銀髪のオルドラスは、カヴァの王子。

下女達の話によれば、彼は偵察中に捕まり、
ネルタの捕虜になった過去がある。
それが原因で捕虜王子と呼ばれていた。
捕虜になった王子の身代わりに、
カヴァは腹違いの妹を差し出したので、
王子はネルタから解放された。
地下に入れられた貴族の女達は、
そんな昔の勝利に酔い、縋っていた。
剣を鞘ごと地面に突き刺し、
怒りを顕わにしていた彼が、
わたし達の姿に一瞬だけ困惑する。
弱さを見せた彼を前にして、
わたしは名前を明かした。
カヴァの王子に捕まった時には、
わたしに抗う力は無かった。
「この子はニースよ! この子はニース!」
わたしはラミーに名前を否定されて、
踵で踏みつけて蹴られる。
金属同士を擦り合わせたような声で叫び、
わたしを罵倒する。
この蹴り方でよく痣や瘤ができた。
わたし達はオルドラスからの指示で、
娼婦から一欠片の硬いパンと、
藍藻のスープが与えられた。
「こんな犬の餌っ!」
彼女はカヴァからの施しを拒むと、
器ごと捨てて食べていたわたしも殴られた。
「鍍金の悪食共の食事に比べれば、
粗餐ではあるな。」
嘲笑したオルドラスを、
ラミーはずっと睨んでいた。
そんな時に捕まったケイロウが現れた。
ネルタの王、神の化身を騙り、
人々を欺いた者の責任は重い。
――あれが、わたしの…。
王の姿を久しぶりに見た。
真冬の寒さの中で服も着させられず、
裸のまま奥歯を鳴らして震えている。
膨らみきったお腹は皮膚が弛み、
醜く肥え太った身体を露わにする。
殴られて腫れ上がった顔は、
泥と血に汚れて痛々しい。
ケイロウは杭に縛り付けられて立たされる。
地面と水平に伸ばして
脂肪の垂れ下がったその右腕が、
兵達によって斬られようとしていた。
自我を失っていた彼は、
獣同様に言葉を発さず泣き叫び、
痛みで意識を失ったまま死んだ。
オルドラスの剣によって、
ケイロウの太い首が斬り落とされた。
カミーリャの花首のように、
刑場の泥に汚れた雪の上を頭が転がる。
彼は兵に向かって、わたし達に言い放つ。
『これは償いである。』と。
オルドラスが彼の右腕を
兵達に斬り落とさせたのには、理由があった。
20年前のネルタで
オルドラスは捕虜になった。
彼の腹違いの妹、サンスァラ王女は、
彼と引き換えにネルタにやってきて
すぐに行方不明となっていた。
カヴァに帰還したオルドラスの元には、
油漬けにされた彼女の右腕が届けられた。
こうして2国の関係はさらに悪化した。
王の処刑を見せられた後で、
王の娘のラミーと彼女を介助するわたしは、
一緒にカヴァへと移送された。
わたし達はカヴァで裁かれ、
罰が与えられるのを待つ身になった。
ラミーはずっと泣いている。
父との別れを悲しんだのか、
自分の不遇や弱さを嘆いたのか、
陣痛によるものかは分からない。
わたし達の輸送に関わったのは、
ヒュルゲン・ハス・ビンスという名の
カヴァの貴族だった。
頭頂部が荒涼とした銀髪の
戦場には不似合いな肥満男。
常に食べ物を口にして
甘く張り付く臭気を放ち、
弧を描くように足を引き摺る
奇妙な歩き方をしていた。
雪の降る荷馬車の上で、
ヒュルゲン邸に輸送される途中に、
わたしはラミーの赤子を取り上げた。
ネルタの王、ケイロウの子孫。
ネルタの血を引く子が男児であれば、
その子はその場で殺されるはずだった。
赤黒い手足に、閉じたままの異形の瞼。
生まれた赤子は産声を上げない。
心臓は拍動さえもせず、
小さく濡れた身体はすぐに冷たくなった。
ラミーはそれでも
死を受け入れられずにいた。
呼吸もしていない赤子に、
乳房を寄せても口にするはずがない。
衰弱した母体は生命活動を維持する為に、
赤子を胎内から切り離した。
わたし達と同じペヌンの布袋に包まれる
魂のない物体。
それでもラミーは布袋を抱いて
何日も声を掛け続ける。
腐敗臭を厭うビンスが、
ラミーを杖で殴りつけ、
布袋を無理に引き離す。
ビンスに命令されると布袋は、
護衛の手で中身ごと道端に投げ捨てられた。
その様子を黙って見ていたわたしは、
内心で安堵していたことに驚き、
悔しみに泣くラミーに頬を叩かれる。
叩かれた時に奥歯がおかしくなり、
歪む歯の痛みに耐え続けた。
「ニースのせいよっ! ニースのせいっ!」
ラミーは錆びついた声で罵倒する。
雪の降る荷馬車の上で何度も叩かれ、
何度も蹴られた。
暴力を受けても痣すら出来ず、
痛みを覚えないほど彼女は弱っている。
常に叩かれているわたしを
ビンスは不憫に思ったのか、
わたし達は彼の館の地下で
別々の檻に入れられた。
わたしは黙ってそれを受け入れた。
ビンスはネルタの生き残りの貴族に
ラミーの身代金を要求し、
欺騙を企てていた。
牢檻に入れられて間もなく、
ビンスは病死した。
わたし達を秘匿していた彼のおかげで、
地下には誰も来ない。
水も食事も得られずに、
咳を繰り返すラミー。
向かいの檻のわたしに
呪いの言葉を浴びせるか、
寝ているだけの日が繰り返される。
書字板の代わりになる粘土質の壁もなく、
わたしは布切れを被って
耳を塞いで日々をやり過ごす。
牢檻の暗闇に慣れてくると、
恨み言も咳も寝息も聞こえなくなった。
――わたしは知ろうとはしなかった。
黴と不要物と垂れ出る体液。
ビンスが居るかのような臭気が
空間を支配する。
ラミーの身体を小さな生物達が分解し、
微かな光と熱の中でも命が循環する。
鈍色の鼠が足の指を囓って、
わたしの死を確認しに来た。

ラミーの目の前に居たわたしは、
彼女の死を受け入れられなかった。
死を待つわたしは喉の渇きに耐えられず、
壁の隙間の湧き水を舐めて生き延びた。
そこに一人の男がやってきた。
真赤な毛に覆われた獣の男。ラッガ。

わたしを夜の館に連れてきた人物。
彼は背中を向けて去ってしまう。
それはユヴィルの館の地下で見た、
髭の男を殺した者の後ろ姿だった。
彼を呼び止めようと口を開くと、
血溜まりを踏んだサンサがやってきた。
「ニクス。帰るわよ。」
彼女の声で、
わたしは悪夢から目を覚ました。
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