分水街の暑さに慣れてしばらく経つと、
雨の日が長く続いた。
日陰の庭に張った天蓋は巻かれたまま、
花園に咲いていた花は雨で散っていった。
風が出ると外廊下に雨が入るので、
従業員達はブラシで砂埃ごと掃き流し、
スポンジやタオルで残った水を吸い出す。
黴を防ぐ為に部屋の中から扇を振り、
フランジも忙しく働く。

小さな生物の黴の繁殖は肺を患わせ、
服や本を劣化させて食材を腐らせる。
長雨の影響で来客が減っても、
館の保全を目的に従業員は増員される。
ヤゴウの妻、ミョーンとラッタマ以外にも、
普段は子供の世話をしているフォッターが、
ノーマ、ゼルマ、ウェルの3人の娘を連れて
手伝いに来た。



毎年この時期になると館に来るらしく、
厨房や浴場などの仕事を見て、手伝ったり、
舞踏室で走り回る姿があった。
一番下の子のウェルは6歳なので、
まだ仕事を頼むのは難しい。
それでも閑散期にやってきた彼女達は、
フランジの息抜きにもなった。
長女のデーンだけは
いつも以上に表情が険しかった。

わたしはフランジの仕事を手伝いはせず、
奪ったりもしないように努めた。
スーはまだサンサと一緒に部屋で、
ルービィの本の作業に追われている。
アルとイオスも雨と子供達を警戒して、
部屋から出ようとはしなかった。
日陰の庭も使えず居場所のないわたしは、
そのあいだ食堂で本を読みながら
内容を書字板に書き写した。
ヤゴウの子供達は、この島の歴史に
繋がりのあるメーニェ島海戦に興味を示し、
わたしが読み聞かせることもあった。
大陸のソーンの艦隊に囲われたこの海戦は、
メーニェ側のハーフガン将軍が
島に残した囮を犠牲にして勝利する。
読み聞かせは子供達以外にも、
世話をしていたフォッターの他に
ミョーンやラッタマまで一緒に座って、
涙を零しながら話を聞いていた。
厨房長のヤゴウがいつもの渋顔で、
変わった料理を作ってくれた。
湿気で傷みかけた残りの食材を使った料理。
妻二人の手が止まると困るので、
わたしを食堂から追い出したかったらしい。
以降はサンサの部屋から遠く離れた、
フランジ棟の南端にある教育室で、
子供達に本を読み聞かせるようになった。
知識に貪欲な子供達から質問攻めに遭い、
スーのような対応力が求められた。

長雨が終わると来客はまた増え、
フォッターも子供達も別れを惜しんで
泣いて大騒ぎして帰っていく。
外は一転して涼しくなり、
空気は澄んで過ごしやすくなる。
急な気温の変化に体調を崩してしまう
ドレイプやフランジが出て、暇なわたしは
サンサについて回って診療を教わった。
喉の奥の腫れを見つけたり鼻腔を見る。
呼吸時の肺の動き、心臓の拍動、
手足の血行、血色を見て、食事の偏りや
歯の掃除の確認、指導などを行う。
身体の痒みを訴えたり炎症や瘤があれば、
仕事を休ませて病院で検査をする。
サンサの診療は、メノー以外にも、
衣装室に大量の服を置いていった
ノーラにも教えていたという。
サンサのように診断を下せないわたしは
デーンに頼んで、体調を崩した子の為に
ナショーとヨーグルトに蜂蜜を掛けた
食事を作って貰い、持っていった。
トレイを持って食堂を出た時に、
これを羨んだドレイプのミュパが
率先して詐病をした。

彼女の行動によって、
わたしの責任で夕食の後は
全員に同じものを提供することになった。
ヤゴウとデーンが喜ぶフランジを見て、
同じように口元を緩める。
一方で詐病したミュパは
レデとジールの姉妹にまた叱られていた。

◆

朝の貯蔵室には業者の荷車が入り、
季節の食材が搬入される。
わたしはその話をファウナから聞きつけて、
誰よりも早く起きてその仕事を見物した。
ファウナや他のフランジは
自分達の食べる食材には興味がないらしく、
誰も作業を見に来ない。
貯蔵室の隅でわたしが見ていると、
仕入れ業者の若い男がこちらの視線を
気にして作業を進めてくれない。
そのせいで盗み食いを警戒したヤゴウに、
貯蔵室を追い出されてしまった。
「興奮した業者が積んだポッポの箱や
豆の袋で女を押し潰して、
抵抗できなくしてから犯すんだって。」
一緒に見ていたヤゴウの娘のデーンが、
浅ましい話をわたしに吹き込む。

館で仕事中は無口なデーンから
話し掛けてくれることはあまりない。
「男を発情期の犬みたいに言うのね。
デーン。」
起きて間もない彼女の髪は、
癖がついて一部が盛り上がっている。
賑やかだった妹達が帰ったので、
仕事中の張り詰めた表情とは違って
髪型と相俟って気が抜けて見える。
「女はそのくらい警戒して
利用した方が身の為よ。
ほい。
囮になってくれたお姫様への
ご褒美と口止め料ね。」
彼女が貯蔵室から取ってきた
ダギラの果実を分けてくれた。

ヤゴウがわたしに
注意を向けていたあいだに、
デーンが取ってきた。
「囮って…。
そんなの誰から教わるの。」
「あなたの部屋のドレイプ。」
「名前を言わないだけ
思いやりがあるのね…。」
以前はスーもわたしを囮にしたので、
ヤゴウに貯蔵室から追い出された。
デーンは取ってきたダギラを
皮ごと囓って口元を緩める。
暑さも落ち着き、
厨房には木炭などの燃料の量も増えていた。
◆

わたしは衣装室から上着を出して、
日陰の庭の椅子の背に掛けた。
長雨で花園の花を失った庭の中では、
シルクの赤色が主張する。
防虫剤の香りは屋外に放置すると、
空気が吸着して薄まっていく。
ファウナから借りた『ゼズ島冒険記』は、
スーが図書館で買ってくれた写本のおかげで
読み進めることができた。
ゼズ島に上陸したソーマの話も始まり、
エルテル領など知っている名前が出てきた。
庭で本の続きを読んでいると、
休養日の館は外の業者を見かける。
庭師が植木を剪定し、花園に花苗を植え、
枯れた緑の一部を引き剥がして
掘った穴に堆肥を詰めていく。
玉石の庭で洗濯を行う外の従業員達は、
大量のタオルやシーツ、クッションを、
行商人のように背負って交換してくれた。
彼女達は気軽にわたしに声を掛けたので、
わたしは頭を下げて挨拶を返す。
初老の女達はスポンジやブラシ、
石鹸、歯木などの日用品を補充して、
気になる服の解れも直してくれる。
女達はわたしの上着を見て燥ぎ、
要望に応えて着てみせると、
身体に合うように縫い直して整えてくれた。
繊細な作業も手早く器用に熟す女達は、
ドレイプの仕立てもやっていた。
煤染めの仕事で連れられてきた少年達は、
娼館の玄関と出口を間違えて騒ぐ。
わたしの椅子に掛けた上着に見蕩れ、
動きを止めてしまう子も居た。
手を振って戻る場所を示すと、
出口からやってきた指導役の女に
襟首を引っ張られて叱られていた。

楽器専門の業者も来て、
2階の舞踏室から、湿気で鈍くなった
弦楽器の音が漏れ聞こえる。
わたしも舞踏室に四時の札を持って行き、
業者にニスでの手入れを学ぼうとしたら、
若い生徒が練習代わりにやってくれた。
ファウナとセセラはドレイプ棟の
自分達の部屋の前に集まって、
通いの商人が仕入れた趣味の本を
静かに吟味している。

夜の館という娼館は、
ドレイプやフランジだけでは成立しない。
広く深く考えるというのを、
スーは視野や観点と例えていた。
わたしは塔から見下ろす感覚で、
館全体を並べた食器に見立てて眺める。
館の仕事や物の動きを知れば、
生活の仕組みを理解しやすくなる。
食材を仕入れて下準備をし、
熱を加えて味見をして味を整える。
食べ終えれば廃棄物を集め、
調理道具や食器の洗浄を行う。
食材の生産、流通から廃棄までの
循環という円環が形成される。
いくつもの円環から重なった接点によって、
人間の社会は構築されている。
連なる二つの円――、
湖を象ったネルタの繍旗を思い浮かべた。

高い視点で見下ろせば、
仕事もせずに食器に用意された
料理を食べるだけのわたしが、
この館に居る理由はない。
「ニクス、あなたどこを見てるの?
また本を読んでたのね?
もうみんな出掛けるわよ。」
雲一つない空を見ていると、
頭巾に宝飾巾をしたサンサと共に
アルとイオスも庭に戻ってきた。

「だってまだ開墾の最中だから。」
ソーマが牛を使って耕起し、
島の東にエルテル領を作る様子が
本に綴られている。
サンサが息を吐いて、
戯れに宝飾巾を靡かせる。
「本を読むのはいいけれど、
本が世の全てではないわよ。
これを着ていた方がいいわね。
日が暮れると寒くなるわよ。」
椅子に掛けていた赤い上着に袖を通す。
シルクの服は着ても肌触りがとても優しい。
「暑ければレナに着せてもいいわよ。
色のある服はあの子、着ないのよ。」
「サンサもレナタも黒い服ばかりだよね。」
「誰にも買うことのできない
ドレイプのわたしが、
他の子より目立っても
仕方がないでしょ。
レナの服はそのついでね。
二人はもう
出口で待ってるわよ。」
この休養日はレナタとスーの3人で、
アイリアの館に出掛ける予定があった。
「サンサも行くの?」
「行かないわよ。
わたしはまたルービィの館。
メノーの様子を見にね。」
「メノーは大丈夫?」
少し前からメノーは仕事を休み、
ルービィの家で静養している。
「心配ないわよ。
この前見に行った時は
ドロシアと踊ってたもの。
寝てばかりの方が身体に悪いのよ。」
「ドロシア?」
「ルービィの妹ね。
いまはこの館の
経営の手伝いをしてるひとよ。」
サンサが前を歩くと、
アルとイオスもそれに続く。
イオスはもう並んで歩くアルに
近い大きさに成長していた。
「サンサはアイリアってひとも
知ってるんだよね?」
「あなたも知っての通り、
メノーの壁画を作った女の画工よ。
女で画工なんだから、
この街では閨秀とも呼ばれているわね。」
彼女は言って笑っている。
「どんなひと?」
「これから会うのだから、
自分の目で確かめればいいわよ。」
「だってスーの様子、
ちょっとおかしかったでしょ?」
サンサに遣いを言い渡された時、
いつものスーとは様子が違って見えた。
「スーが言わないのなら、
ニクスに知られたくないことが
あの子にもあるのよ。
あなたが秘め事を抱えているのと同じ。」
「…サンサにもあるんでしょ?」
「もちろん、あるわよ。」
秘め事の内容までは教えてくれない。
「広く深く考えるからいいよ。
なにか悪さしたんだもんね。
アルはなにか知ってる?」
無言の返答をサンサがすると、
ついて歩くアルがミャオと返事をした。
「聞いた?
アルがしてるって言った。」
「言ってないわよ。」
「わたし猫の言葉なんて分からないし。
イオスも、サンサがまた
悪いことを企んでると思う?」
イオスもビャオと鳴いて返事をしたので
勝ち誇ってみせた。
同時にイオスはわたしの胸に跳びついて、
太腿を爪で引っ掻かれた。
「痛っ。」
「あなた、スーに似てきたわね。」
「そんなことないよ。ねぇ?」
少し意地悪を言ったせいで、
外に出るまでサンサは
口を聞いてくれなかった。
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