「あの、玄関に、
忘れ物をしたんだけれど…。」
手洗い所を戻ってから、
わたしはスーに嘘をついた。
「まだ食べててもいいよ?
取ってこようか?」
わたしは首を横に振り、
彼女の気遣いを断った。
独りで南の玄関へと向かう。
敷地を塀に囲まれた娼館。
手洗い所から見た塀には庇があり、
梯子もなく、壁を登って抜け出すのは
わたしには不可能だった。
塀の先には鉄の棘が立てられ、
売られた子供の脱走を許してはくれない。
――ニースだわ…。ニースよ…。
頭の中で何度も同じ言葉を呟くわたしは、
早くあの牢檻に帰りたかった。
わたしの居るべき場所は、ここではない。
獣の男に馬車で連れられてから、
もっと早く逃げるべきだった。
これから娼婦になるなんて、
自分の姿を想像するだけでも受け入れ難い。
スーには嘘をついて館を出ていく。
彼女に対する裏切りに思えて心が痛む。
けれどいまは、
あの檻から出てしまった
罪悪感の方が苦しい。
扉に掛かった留め具を外し、
館の重い門扉のハンドルに体重を預け、
身体が通るだけの隙間を作った。
その時、玄関の中にある隣部屋から出てきた
背中を丸めた少女と目が合った。

わたしくらいの年齢の
黒髪を切り揃えた子は、
紙束を積んだ籠を抱えている。
一瞬の沈黙が、
永遠とも思える長い時間を感じた。
わたしは、彼女から
声を掛けられるよりも先に逃げた。
夕暮れになると、
外には娼館を訪れる客は居なかった。
広場で酒宴を開いていたひと達も、
もう居ない。
春とはいえ、広場に吹く風は冷たく、
裾の短いキャシュクは足全体に風が当たる。
寒さでまた身体を震わせると、
騒がしいくしゃみを耳にした。
玄関の扉の横で寝ていた浮浪者のような
服が解れて破れたままの中年男。

彼は自分のくしゃみに驚き、
目を覚まして身体を起こす。
暗闇に目が慣れてきてその浮浪者、
昼間の酔っ払いと目が合った。
昼間と同じ状況でも、
わたしを助けてくれるひとは誰も居ない。
地面に座る酔っ払いが、
完全に立ち上がる前にわたしは走った。
走ることは、品格に欠けた行為だと
幼い頃から乳母達に厳しく言われていた。
走ってはみたものの、
わたしは正しい走り方ができない。
本で読んだ知識はあっても、
酷く叱られた経験があって、
走りを真似たこともない。
本を思い出して動いてみても、
腕の動かし方もよく分からず、
歩幅を広くして急いで歩いている。
石造りの道の小石を踏んだ時の、
足底の痛みは本に載ってはいなかった。
こんな拙い走りの子供は、
すぐに捕まるはずだった。
「おい、待ってくれ!
アースラ、ヒルドォ!」
酔っ払いは誰かの名前を叫んだ。
振り向くと男が立ち上がって走ろうとし、
足を縺れさせて再び地面に突っ伏した。
酔っ払いは佩いた剣を落とすと
音を立てて倒れても、
また立ち上がろうと蠢く。
玄関で騒ぐ酔っ払いに、
警備の男達が建物の両脇の棟から出てきた。
わたしは館のあった坂を下って
角を曲がり、夜影に身を隠す。
建物の隙間から西に塔が見えた。
この都市に来た時に見上げた六角柱の塔。
その塔が鐘を鳴らし、空気を震わせる。
日没を知らせる鐘の音。
帯の垂れ下がったロープが、
鐘の音と共に引き上げられていく。
鐘楼から西に向かってこの都市を出れば、
来た道を戻り、いつか地下の牢檻に帰れる。
邸宅の塀が並ぶ通路を北へと走り、
通りに出ると標の鐘楼が西に見えた。
館から離れた気がしても、
鐘楼には近付いていない。
肌着に汗が滲み、肩で息を吐く。
――早く、あの檻に帰ろう。
暗い車道に飛び出すと、
わたしの目の前を荷馬車が走り過ぎた。
呼吸が途切れ、
心臓の拍動さえも止まったように思えた。
不慣れな土地で、視界の悪い夜の道。
危うく荷馬車に轢かれるところだった。
整わない呼吸を繰り返し、
帰る手段も考え付かずに、
邸宅の角を曲がる。
鐘楼の先ばかり見ていたわたしは、
不注意で今度はひとに衝突した。
それは二人組みの男。
「ガキィ! 死にてぇのかぁあ?」
わたしはそのうちの一人に右腕を掴まれ、
舌の縺れた罵声を浴びせられた。
すると目の前が一瞬、真白になった。
頬と鼻の痛さで、
平手で叩かれたと分かった。
耳鳴りが頭の中まで刺激する。
唾を飛ばして捲し立てる相手の言葉は、
痛みで耳と頭が理解を拒んでいる。
鼻から暗い液体が上唇に垂れて、
口の中に銅貨の味が広がった。
罵倒と暴力に慣れていたおかげで、
不思議なことに叩かれて混乱は落ち着いた。
背の高い方の一人は
赤い髪の真ん中だけを残し、
背の低い方の一人は真逆を剃っている。

二人ともキャシュクを着て、
飾緒を胸元に渡らせていた。
酷く酔っていて、
身分のある人間とも思えない。
――獣だわ…。
背の低い男はガラス製の立派なランタンと、
なぜか干し草の束を抱えて喚く。
背の高い男の方は、
わたしの右腕を掴んだまま離してくれない。
逃げようとするほど固く握られ、
手が痛くて悲鳴が漏れる。
「こいつぅ、もしかして
赤土の丘から逃げてきたなぁ。」
「えーもん拾ったぁ。
ドレープ拾ったなぁ。」
奇妙な調子で歌い、酒臭い息を吐き、
わたしの顔を覗き込んで喜ぶ。
「ドレイプじゃねえなぁ?
フランジだぁ。
売りもんにしては貧弱だ。
こりゃ孤児かぁ?」
「嫌っ!」
背の低い方の男が、スーのくれた
金赤色の帯紐と帯布を引き剥がし、
キャシュクを掴んで捲り上げた。
どんなに叫んで抵抗しても、
獣を相手にしては言葉は通じず、
疲労で力が出ない。
鼻血が呼吸を阻害して、酷く息苦しい。
彼らはわたしの反応を愉しんでいる。
「いっけねぇよ。
そりゃ、ハミース法に触れちまうなぁ。」
「ハミウス法だって?
ありゃあハミウスが破った法だ。
オレ達に怖いもんなんてねえ。
館に連れてきゃ、
どうせゲッベルが娼婦にしちまうんだ。
いまからオレ達が先に初物を頂いて、
教育を手伝っちまおうぜ!」
「げははっ!
頭良ぃなお前はよぉ。
教育の時間だぁ。」
「そんで娼婦にしたりゃ、金にならぁ。
こんな雑用、必要なくならぁよ!」
「天才かよぉ!
お前はよぉ。」
小男が干し草の束を放り投げて喜ぶ。
「やっ! 放して! 助けっ!」
誰に言うでもなく叫んだけれど、
喜び合う二人の男の力に抗えず、
掴まれた腕ごと身体を振り回される。
二人とも剣を佩いていた為、
通りかかったひとも止められない。
非力なわたしは相手から逃げ出せず、
何度か抵抗を試みても振り回されて、
煉瓦塀に叩きつけられた。
当たった時の背中の痛みが酷く、
疲れと衝撃で呼吸も苦しい。
右腕を掴まれたまま身体を吊るされ、
跪いて地面に倒れることもできない。
咳き込む度に背中が痛み、
息苦しさに涙が零れた。
俯いたわたしの足元に、
黒猫がミャオと鳴いた。
細く若い猫が夜影に瞳孔を輝かせる。
「ユヴィルの傭兵が、
こんな場所で燥いで。
浅ましいわね。」
「おぉんっ?」
少女の言葉で振り向いた瞬間に、小男の
肩から胸に向けて短剣が突き立てられた。

近付いた少女は
細い左手首で短剣を捻じると、
小男は道に倒れて動かなくなった。
彼の持っていたランタンは横倒しになり、
蝋燭の灯火が消えた。
暗い血に濡れた刃は、
小男の心臓の脈に達していた。
少しの間を置いて、
その意味を理解した長身の男。
わたしを引っ張り倒すと、
瞬時に剣を鞘から抜いて
少女のお腹を横に斬りつけた。
長い腕で風を切り裂く音が、
わたしの耳に当たる。
振った剣の勢いで、少女の着ている
黒色のチュニックと肌着が裂け、
闇の中に白い肌が浮かんだ。
しかし男が斬ったのは、彼女の服のみ。
剣先を躱した少女は
相手の剣に怯むことなく踏み込み、
男の喉を深く突き刺した。
一瞬の出来事にわたしは目を疑った。
酔っていた相手とはいえ、
少女は短剣一つで二人を殺した。
黒色の頭巾と宝飾巾をした少女に、
なにもできなかった周囲の人々が騒ぎ出す。
少女の右肩に飾り布をした
輪郭が浮かんで見える。
彼女の冷たい瞳がわたしを見る。
この少女は『夜の館』に居たサンサだった。
「はっ…。はぁっ…。」
なにか言おうと口を開けても、
わたしは声が出ない。
慣れない走りに息が切れて、
塀に身体を預けて力無く座る。
叩きつけられた背中が痛くて、
掴まれた右腕が変色して腫れていた。
サンサは血溜まりを踏んで、
痙攣を起こしていたわたしに近付く。
そのせいで、
雪のように白い彼女の足が血に汚れる。
「落ち着いて息をしなさい。」
背を撫でる手の動きに呼吸を合わせると、
自然と息が整っていった。
サンサの纏う香料の甘い匂いに包まれる。
「グルグス。」
サンサが呼ぶと
大男が水袋を持ってきて、
彼女の手から口に押し込まれた水が
わたしの喉の渇きを潤した。

「あなたを引き止めはしないけれど、
館を出ていくつもりなら
体力を付けた方がいいわよ。
余計なお世話かしら。」
彼女はわたしの脱走を責め叱りもせず、
おかしなことに鼻で笑って助言をする。
二人の男が死んだ。
わたしの軽挙のせいで。
石の隙間に、なにも言わなくなった
男達の黒い血が流れる。
それはまるで、
地下の檻でずっと見ていた景色だった。
向かいの檻にあった、
死体が垂れ流す体液に見えた。
――あぁ、帰ってきたのね…。
薄暗闇の中で疲れきったわたしは、
サンサに抱かれて安堵した。
彼女の胸元に身体を預け、意識が途切れた。
▶