第6章 第2節 金銀の硬貨(第1項)
「ニクスぅ。暇だよぉ。
構ってぇ。ニック、スースぅ。」
――スースはあなたの名前よ。
スーは日陰の庭のテーブルに手を伸ばし、
わたしの名前に自分の名前を混ぜて
言葉遊びを始めた。
天蓋の日陰の中で暇を持て余す彼女は、
金色に輝く自分の髪を編んでは解き、
落ち着きのない子供になる。
彼女が足を揺する度にテーブルが揺れた。
サンサという主の居ない日陰の庭。
今日は来客の予定もない。
「ニクスはどこか、
行きたいところってない?」
「エルテルの服が届くから、
今日は待機だって言ってたよね。」
帯紐に付けた青銅の鍵を取り外して、
テーブルの上に置いて見せる。
休養日の今日は勉強会もないけれど、
エルテル領からの荷物の受け取りがあり、
外出もせずに庭で過ごすことを決めた。
命令されたわけでもないわたしは
普段通り仕事も与えられず、
今日も本を読んで書字板に写す。
部屋で本を読むよりも
日陰の庭の方が風通しが良くて
日中は過ごしやすい。
分水街の暑さにも少しは慣れてきた。
スタイラスで削った書字板は、
わたしの知らなかった言葉で埋まっていく。
本を目で見て、読み上げ、聴き、
書く動作を繰り返し行えば、
難しい内容の本でも身体が覚えやすい。
庭に居ると視界には鳥が目に入り、
囀りがわたしの耳を擽った。
「エルテルは隣でも遠いんだし、
予定通りには着かないよ。」
「不誠実だよ、それ。」
以前、サンサに放った言葉を
わたしはスーにも放っていた。
「だって荷物の受け取り程度なら
従業員の誰でもできるからね。
ニクスの持ってる衣装室の鍵は、
特別な権能ではないんだよ。」
この鍵はサンサから責任ごと
押し付けられた物に過ぎず、
仕事のできないフランジのわたしが、
鍵の一つで特別になるはずはなかった。
鍵を吊り下げただけのわたしは、
自分がこの館に居ることの意味を
勘違いをしていた。
「さっきから難しそうな顔してるけど、
その本、ページが進んでないよ。」
「…読めてはいるよ。」
わたしは朝からずっと、
ファウナに借りた本を読んでいる。
ファウナの説明では、
遥か西の大陸からこの島に
やってきたひとの活躍が描かれた本らしい。
彼女は本の内容を教えてくれない。
本は島の文字で書かれているのに、
知らない定型表現や不明な引用が多い。
書字板に書いては、意味に首を捻る。
何度読み返しても意味が通らず、
別の言語のようで読み進められない。
メノーから渡された難解な医学書は、
人体の構造から機能、症状などを記憶して
解読していく工程も楽しめたので
まだ読みやすかった。
「いま、どこまで読んだの?」
「みんなで船を作って、
海に出たばかりだよ。」
自分で思った以上に進んでいなかった。
「『ゼズ島冒険記』だよね。
サンサが図書館から買い取った写本かな。
ファウナが試しに勧めてくる本は、
表現が堅くて難しい内容が多いよ。
冒険記はお客さんも好んで読む本だけど、
原語の本よりは難しいかもね。
まだエンカー半島を出る場面なら、
そんなに読めてないね。」
スーの言った通りで、
わたしは首を縦に振った。
「それに結末に突飛な描写もあるから、
難しい顔して歴史書のつもりで読むより、
創作物として気楽に読んだ方が楽しいよ。
書いたひとは神話にしたかったのかな。
読むのが難しいのなら、図書館に行けば
もっとニクス向けの本もあると思うよ。」
彼女はテーブルの上に身を乗り出して
わたしを見た。
「ニクスは四時の覚えも早いし、
豪胆だから賭けにも巧く勝てそうだよね。
競馬には興味ある?」
スーはテーブルを指先で弾く。
「競馬って?」
「馬に乗って速さや
乗馬の技術を競うんだよ。
川の向こうに競馬場があるんだよ。」
「馬に? 本物は乗ったことないよ。」
分水街には馬車が多く走っている。
ネルタの塔で暮らしていた頃は、
馬よりも小さな驢馬を見かけた。
輓獣や駄獣よりも、狩猟を行う為に
犬を飼って連れているひとを多く見かけた。
「競馬場に行っても
馬には乗せてはくれないんだよ。
私も女だからって理由で、
馬には乗せてくれなかったな。
サンサは乗馬の経験があるんだって。
もちろん木挽き台じゃなくて本物だよ?」
「へぇ。片腕で乗れるのかな?
サンサってあれで器用だよね。」
「私は馬肉なら食べたことあるよ。
いまから馬の本、探してみる?」
「なにと対抗してるの?
本を探す前に、片付けが必要になるから
倉庫には行かないよ。」
腕を上げてサンサの倉庫を指示するので、
わたしはガラクタの片付けを拒否した。
「闘技場は? 行ったことある?」
今度はサンサの席の方に腕を伸ばし、
指先でテーブルをまた弾く。
「まぁ、ないよね。
あそこは男のひとしか見ないもんね。
あ、ミュパは今日も、
お客さんと行ってるんだって。」
4番部屋のミュパは
濃い肌に金髪のドレイプで、
舞踏室で酔って寝ていたり、
勉強会にもよく来る騒がしいひと。
彼女の言動に振り回されて、
ドレイプのレデとジールの姉妹や、
ミュパの手伝い役でフランジの
テミニンがよく苦労している。
彼女には戒めのミュパという
不名誉な二つ名が与えられていた。
「ねぇ、劇場って。
なにかあるの?」
サンサは劇場を持っていて、
総督のマルフが彼女の権利を狙っている。
「毎年、冬前の収穫祭に
サンサが書いた戯曲の公演があるんだよ。
私はまだ行ったことがないけどね。」
彼女の声がさっきより低くなって、
気持ちが沈んで聞こえた。
スーは本を読むわたしの前で、
テーブルを何度か指先で弾いている。
「あれ? ここ? これって地図?」
扇状の赤色の石が劇場、
近くに並べられた円形が闘技場だった。
「このテーブルは
この街の地図になってるんだよ。
ここに日時計島もあるよ。」
「気付かなかった…。」
テーブルの青色の石は
ただの仕切りの模様ではなく、
街を3分割する川を描く。
「繍旗もこの街の形から来てるんだよ?」
「あれも?」
甲虫の背中らしき図柄の繍旗が、
夜の館の玄関に掲げられていた。
「ここが赤土の丘、夜の館ね。
ちょっと北西に行くとオーナーの館。
館から東に行くとマルフ総督の館。
火葬場が南の壁際で、
館との真ん中あたりが病院かな。」
スーがテーブルを指で示していく。
「そっちにある長いのが競馬場ね。」
「これが競馬場?」
わたしの右手に
並べた石がで長い 線を描く
施設が浮かんで見える。
「それは偽の競馬場。」
「偽?」
彼女は左手を伸ばして
2本の指を交互に動かし、
太く丸い競馬場と細長い競馬場を指示した。
「こっちが本物の競馬場。
馬達が場内を周回して競争する所だよ。
お客さんは足の速い馬の
順番を予想してお金を賭ける。
速い馬を持ってる資産家は、
賞金とこの街での名誉を得られる。
この真ん中の場所は、
馬が障害物を跳び越える馬術と
速さを競うのに利用するよ。」
「偽の方は? 周回できるの?」
「偽の競馬場はこの直線を走るだけだね。
土地が狭いから。
そんなだから止まれずに、
よく事故に遭うんだって。
本物の競馬場と同じで、
お客さんが速い馬の順番を、
予想してお金を賭けるんだけどね。」
彼女の含みのある言い方に
わたしも首を捻る。
「馬に乗るひとが示し合わせしてるから、
興行主と馬を持ってる資産家だけが
儲かる仕組みなんだよ。」
「詐欺だね…。」
「偽の競馬でお金を使い果たしたひとは
高利貸しからお金を借りて、
また偽の競馬にお金を注ぎ込むんだって。
示し合わせには気付いてるけど、
その通りにやれば勝つ側になれる
と信じて騙されるんだってね。
そこの興行主がユヴィルで、
彼は高利貸しもやってるんだよ。」
「ユヴィル…闇の館のひと?」
彼の名前は何度か耳にした。
「うん。まぁ、あれは
西側の代表みたいなひとだね。」
「それって、マルフと
同じ立場のひとになるの?」
「思想の異なる対立組織だね。
ん? グルグスだ。
お客さん?」
護衛のグルグスが館に入ってきた。
庭園に来客を知らせるハンドベルを、
グルグスは不器用に叩きつける。
護衛が庭にまで入ってくる時は
サンサへの来客に限る。
「見たことないひとだね。」スーが言った。
黒い服の女も入ってきた。
彼女の手には箱型の旅行鞄が、
棒で取り付けられて足元に引き摺っている。
立てた鞄の底面には車輪があり、
地面を擦ることなく転がる変わった仕組み。
日陰の庭に入ってくると、
大男のグルグスと並んでも、
身長に差は無くて背が高い。
銀色の長髪を片側に分け、
裾の短い黒のキャシュクには
黒のスラックスを履いた黒装束姿。
足首まである靴には泥が乾いたままで、
ドレイプの客ではないことが分かる。
――エルテルから服を運んで来たのかしら。
――でもオーブの黒装束よね?
わたしをこの館まで連れてきた獣の男、
ラッガと呼ばれたひとの服装に似ている。
夜の館の来客ではまず見ない格好で、
帯布の上には革製の帯紐を巻いていた。
女はサンサと同じ、
銀の糸で編まれた飾緒を
胸元に渡らせている。
飾緒は身分の高さを示している。
「グルグス、そちらは?」と、スー。
「サンサっての、どっち?」と、女。
「の、お客さん、だ。」と、グルグス。
会話が織れていない。
「サンサは居ませんよ。
グルグス、サンサ達は
今朝出掛けたよね。」
「んだ、でも。
侵入者おったでな。」
「あぁ、またなにか
引っ掛かってたんだね。」
今朝、侵入者が塀の先に設置された
鉄の棘で死んでいた。
その死体を啄む鷹に、
獲物を横取りされた烏が
群がって騒いで抗議していた。
「だら?」グルグスが同意を求める。
「『だら』ではなくて『だろう』ね。
あなたはサンサのお知り合い?
オーブのひとですよね?」
「名前は知ってるはずだが、
紹介はまだだな。
あたしの名前はフルリーン。」
「フルリーン? って、あの馬の?」
「あぁ、馬のひとかぁ。」
スーも気付いた。
「馬ぁ?
あぁ、一人乗りの車を改造した
木挽き台のやつの話か。
手紙にあったニクスって人物に、
こいつを届けに来たんだよ。」
「わたしに?」
彼女は鞄の中から
シルクで出来た赤い布を取り出した。
わたしはそれを見て、
帯紐に吊るした衣装室の鍵に触れる。
◆
サンサのガラクタ倉庫、
玉石の庭の北にある書室に、
わたしはフルリーンを案内した。
扉を開けると目の前には、
サンサが扇風機と名付けた馬が
部屋への侵入を拒む。
壊れた扇風機を
グルグスが無理に押し込んだ跡が窺える。
「これか?」フルリーンが指示する。
「それですよ。」スーが頷いた。
フルリーンは軽々と引っ張り出して、
扇風機を玉石の庭に置く。
「折れてるぞ。」
歯車から伸びた曲軸は
ハーフガンに踏み折られた。
「ニクスが使ってから、
踏み蹴って折れたんですよ。」
「わたしは折ってないよ?」
スーの説明は誤解を与えかねず、
制作者を前にわたしは否定をした。
「子供用に作った部分だ。
こんな踏み方したら当然…
大人が蹴ったんだろ、これ。」
「ご明察。」スーが拍手した。
「他に壊れてんのあるな。
見ていいか。」
「もう引っ張り出してるし…。」
フルリーンはいくつものガラクタを出し、
組み立て直し、問題の箇所を見た。
スーは道具の不具合についてや、
壊れた経緯を彼女に説明する。
そのあいだにわたしは
この奇妙なお客さんを歓迎する為、
2階の外廊下から見ていた従業員の子達に
食事と飲み物を用意してもらった。
◆
「でも、いいんですか?
こんな館に入ってきて。
おかしな噂が立ってしまいますよ。」
「ぅん?」
日陰の庭のテーブルで
一緒に昼食を摂りながら、
スーの懸念にフルリーンは疑問を浮かべた。
フルリーンは腸詰め肉を
半分に切っただけで一口で食べる。
彼女は口調だけでなく、
食べ方も豪快だった。
ペタの次代領主を名乗るヘッペリオと違い、
彼女の食べ方には不快感を覚えない。
フルリーンを観察していると、
背筋を伸ばした食事の姿勢や
動作に理由があった。
背を曲げてテーブルに肘をつけないし、
口を開けながら咀嚼して喋ったりはしない。
「んん~。
こっちのは血の臭気が無いな。」
「お口に合ませんでした?」
「いや、旨い。
オーブには獣臭を大切にする
妙な拘りがあるんだよ。
それで生肉を好んで食べて
食中毒を起こすから、
毎年何人も死んでる。
愚かな話だろ?」
彼女の口元は笑っているけれど、
オーブの冗談には馴染みがなくて
わたし達は顔を見合わせた。
「あ、なんの話だっけか?」
賓客として扱おうとするスーは、
間接的な説明を模索していた。
「女でもこの館に入れば、
娼婦を買いに来たと思われるわよ。
夜の館は娼館だからね。」
代わってわたしがフルリーンに告げた。
わたしは食堂の入り口に背を向けたまま、
こちらの様子を窺うフランジの視線を
追い払う為に手を振る。
彼女達はスーと一緒に
手を振って返していた。
わたしの意図は通じなかった。
「あぁ。そんなことか。
娼館にあたしが入ったって
妾の娘には関係ないのさ。
親がオーブの領主なんて言っても、
この都市からすりゃ南東の果ての、
森から来た星鳥も同然だろ。」
彼女の南部言葉から出る粗野な口調は、
威厳や気品を感じさせない。
「フルリーンってオーブ領の息女なの?」
飾緒を渡らせられる身分ではあっても、
口調に気を使って堅苦しく喋る必要もない
柔軟な相手に思えた。
「言ったぞ、あたし。」
「グルグス、護衛に言ったのでは?」
フルリーン相手でも、
スーは口調を戻さず訊ねる。
「あの大陸人な。
オーブ・ド・メテオラがあたしの父だ。
母はカヴァから来た曲芸師らしい。」
「それで綺麗な銀髪なんですね。
東部3領は黒髪が多いと
サンサは言ってました。」
「金髪に憧れて蜂蜜で脱色したり、
虚栄で義髪を被るやつもいるが――。
あたしも子供の頃はこの銀髪が嫌で、
昔は黒に染めてたこともあったな。」
わたしは二人の会話に耳を傾け、
ナショーを潰して作られた
ジュースを口にする。
山羊のお乳と混ざった濃い味の中に、
含まれたクァンが口内を程よく刺激した。
「なぁ、ここに地図はあるか?」
「手元にあるよ。」
わたしは指先でテーブルを軽く弾く。
フルリーンがトレイを押し退け、
配置された石を見て驚いた。
「これ? 確かに地図だ。
いや、これも良いが――。」
「紙の地図ですか?」
スーの言葉に頷くフルリーンは、
垂れ落ちる銀の髪を抑えて
興味深くテーブルを眺めながら目を細める。
「これは誰が作ったんだ?」
わたしは制作者を知らないので、
ジュースを口にしたまま
スーに視線を向けた。
「アイリアという街の画工です。」
「へぇ。良いねぇ。アイリアね。」
「地図って、ガラクタ倉庫…
書室に置いてある?」
「んー…あそこから探すより
図書館で買った方が早いね。
図書館なら新しい地図も
あると思いますよ。」
スーは相手に合わせて口調を変え、
テーブルの西側、川の向こうに描かれた
建物を指先で示す。
「案内しましょうか。
ニクスにも本を選んであげる。」
「待機する日だよね?
エルテルの服は?」
「今日は荷物は来ない、
と思っておこうか。
それに大切なお客さんだもの、
仕方がないよね。」
彼女は椅子から立ち上がると声を弾ませ、
肩に掛かった三つ編みを手で払い除けた。
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