第5章 第3節 言葉の波(第1項)
日陰の庭の、天蓋の下。
北側のサンサの椅子に座っているわたし。
わたしは誰かに声を掛けられた。
『誰? あなた。』
小鳥の囀りのような涼やかな声の女。
厳しい口調で名前を問われたけれど、
わたしは名乗れる名前を持ってない。
彼女は名乗るべき相手ではなかった。
『この子はニース!』
錆びついた女の声が、頭の中に響き渡る。
燃えるような赤い髪の誰かが、
金属を擦り合わせたような声で叫び、
わたしを罵倒する。
女の声と共に椅子が傾き、
わたしはベッドの上に倒れた。
館の柔らかな緑の上ではなかった。
ベッド代わりの寝椅子だった。
寝椅子は大きく傾き、
掴まった布は破れて落ちた。
落ちた先は冬を前にしたネルタの湖。
わたしは浮かぶ艀の縁に手を伸ばすと、
女の踵で肩を踏みつけられる。
溺れた息苦しさで、
わたしは夢から目が覚めた。
視界が白く霞む。
わたしは朝からずっと熱を出して寝ていた。
毛布の中は暑いくらいなのに、
全身に汗が湧いて寒さに震えた。
白む視界と息苦しさの理由は、
イオスがわたしの顔に
乗っていたからだった。
毛玉を摘み上げると、
ビャオォと掠れた声で抗議する。
イオスを毛布に入れ、
明るい部屋の中で
扉の外の会話を耳にした。
「季節の変わり目だからよ。
病院に連れて行くまでもないわ。」
「えぇー。病院に連れて行きたいのに。」
「目的と手段が逆になっていませんか?」
サンサとメノー、レナタの声も聞こえる。
「今日の勉強会は試しに、
メノーだけでやってみなさい。
わたしは出席しないし、
ニクスは休ませるわよ。
ニクスが居るつもりで、
話を逸らさず教えなさい。
どうせならレナも、ニクスのつもりで
メノーの隣に立つといいわ。
困った時は、聴いている子達の
反応を見なさい。」
サンサは部屋の前にやってきたメノーに、
そう言って追い返した。
「あら、起きてたのね。」
「これを食べて、
早く良くなってくださいね。」
「レナももう良いわよ。
ありがと。
メノーの助けてあげなさい。」
レナタは木皿に入れたパン粥を、
わたしのベッドの横の棚に置いた。
「ありがと、レナタ。
わたしは大丈夫よ。」
「分かりました。」
彼女はサンサが持ってきたタオルで、
わたしの額を拭ってから部屋を去った。
食べ物の匂いを察知して
毛布の中から顔を出したイオスが、
鳴いて食事を求める。
「あなたは食べたばかりでしょ。
デーンがお粥を作ってくれたわよ。」
「…デーン?」
パン粥を見て、
まだ呆けた頭でサンサに訊ねた。
レナタには気丈に言って見せたものの、
妙な夢を見たせいで記憶が整理できない。
「まだ紹介してなかったかしら。
ヤゴウとミョーンの娘よ。
厨房の手伝いとして働いてるけど、
鶏小屋の管理も任せてるわ。
厨房に居て暇をしていたから、
命令して作って貰ったのよ。」
ミョーンはヤゴウの妻の一人で、
もう一人の妻のラッタマと共に
厨房に出入りしている。
デーンの顔は覚えがあった。
鶏小屋の掃除をしていたり、
煤染めの時にも居た赤い髪の少女。
――下働きの子ではなかったのね。
目鼻立ちはミョーンに似ていて、
渋顔なのはヤゴウにも似ていた。
「吐き気はある?
寝起きで食べられないかしら。」
「ううん…。
…でも、デーンにありがとって…。」
朝食後からずっと寝ていて、
なにもしていないので食欲は湧かない。
「起き上がれるのなら、服を脱いで。
身体を拭くわよ。」
サンサは持ってきたタオルで、
汗で濡れたわたしの背中を拭く。
「まだ骨が浮いてるわね。」
脇を拭かれると擽ったさに、
足の指を動かして悶え、
毛布で口を塞いで声を堪えた。
スーがトレイを持って部屋に入ってきた。
「ニクス。これ食べる?」
トレイの上の木皿には、
パン粥とは違う食べ物。
蜂蜜の小瓶も置いてある。
「ナショーにヨーグルトを混ぜた特製品。
これなら風邪でも食べられるし、
とってもおいしいんだよ。」
「ありがと。
…わたしの病気って伝播しない?」
「ニクスは分水街の気候に、
慣れていなくて体調を崩しただけだもの。
咳や鼻水、痰も出ていない。
その発熱は小さな生物に関係は無いわ。
身体を冷やさないように汗を拭いて、
充分な食事を摂って
暖かくして寝ることね。
歯も磨くのよ。」
「だって。」スーが笑う。
彼女は隣のベッドに座り、
持ってきた歯木を構えた。
水平にした堅い歯木の端を片手で摘み、
上下に振って撓う錯覚を見せてくる。
「勉強会は? いいの?」
「具合が悪くて寝込んでる子が関わったら、
周りに迷惑よ。」
「サンサが厨房に入る感じだよね。」
「スーも貯蔵室の果物を勝手に食べるから、
ヤゴウに追い出されてるわよね。」
「サンサほど迷惑は掛けてないよ。
食器の後片付けはするから。」
二人は程度の似た言い争いを繰り返す。
わたしは会話を耳にしながら、
スーの持ってきた料理を口にした。
舌に触れた味はヨーグルトの他に、
酸っぱさの中に混ざった砂糖の
濃い甘さが舌から口に広がる。
ナショーの仄かな甘味が喉に通り、
お腹に受け入れられていくのが分かる。
「つらかったら吐いていいからね。」
「うん。平気。おいしいよ。」
「病人が出ると、
サンサがこれを作ってくれるんだよ。」
「わたしのせいにしないでよね。
それはスーが用意したのよ。
いつか誰かが病気になった時、
ヤゴウかデーンに言って、
今度はニクスが作ってあげたらいいわ。
スーは病気になりそうもないから。」
「私もサンサが病気になった姿、
一度だって見たことないよ。」
「わたしは毎日、
健康に気を使ってるからかしらね。
アル、イオスを見て。」
サンサはわたしのお皿を狙うイオスと、
その世話をするアルに呼び掛けた。
元気が有り余っているイオスが、
パン粥を置いた棚の上に
乗り出したからだった。
アルはイオスの頭を押さえつけ、
首元を噛み、離れたテーブルに移動する。
テーブルの上、部屋の奥の壁には
銅鏡が飾られている。
――銅鏡…? ってなんだっけ…?
ペタの次代領主を騙る男、
ヘッペリオが日陰の庭に来た時に
サンサがなにかを言っていた。
頭の奥に鈍痛があり、蜥蜴の意匠に、
なにを考えていたのかも思い出せない。
サンサはアル達の居る椅子に座る。
「ニクスが体調を崩しているけれど、
あなた達は余計なことをしてはダメよ。」
アルがミャオと返事をしたので、
イオスもそれを真似して
掠れた声で鳴いた。
「イオスも言葉が分かるの?」スーは疑う。
サンサに押し付けられたパン粥を口にして、
わたしもスーと同じ疑問を抱く。
スーの持ってきたナショーを食べ切ると、
自然と食欲が戻ってきた。
サンサのパン粥はまだ温かく、
香辛料の匂いと味には癖があって、
身体を内側から熱くさせた。
――ちょっと、辛いかな…。
粥の中に紛れた黒い粒が舌を焼く。
「文字や言葉を知らなくても、
こちらの考えが伝わればいいのよ。」
「言葉が通じないのに、
考えが伝わるものなの?」
「言葉の通じない赤子を
相手にするのと同じよね。
レナは感性が鋭くて賢かったわね。」
彼女は過去のことのように言う。
「具体的にはどうするの?」
「思考について説明しましょうか。
言葉の原点は音、文字は絵図よね。
発話ができない赤子は、
身振り手振りで感情を表すわね。
『感情論』という本にも書かれているわ。
笑う、怒る、泣く、嫌がるとある
これらの感情とは状態なのだから、
目で観測する点では絵図と同じになる。
文字という絵図は、
光と影の調和と要約できるわね。
色はあくまで、反射した光の
おまけと考えましょうか。
文字そのものに色は含まれないものね。
言葉は耳で聞き取るものになり、
目で読み取る文字とは異なるわ。
身体が発する体臭は鼻で読み取るから、
空気はただの媒介であって、
光の特性に近いのかしらね。」
サンサはアルに訊ねると、
ミャオと返事があった。
感情論という本は読んだことがあっても、
彼女の説明には理解が追い付かない。
「普段こうして行う発話は、
空気を振動させて伝える波よね。
波は時間の経過と共に流れ、
強弱が生じて変化する。
さらに例えるなら言葉は流れる川であり、
文字は思考の湖になる。
文字の湖から発生した蒸気や、
雨で水溜りができる。
観測によって光が反射して意味は変化し、
集まれば広大な海になる。
海を知れば全体像が見えるわね。
後は思考の起源を辿るだけよ。」
サンサはテーブルの縁を指先で弾いて、
打楽器のように音を鳴らす。
猫達は音の元に耳を立てて見ていた。
「思考の、起源?」
「いままでで一番分からない説明だよ。」
わたしもスーの意見に同意して、
顎を引いて首を捻る。
「なにか食べたいと思う飢餓感と、
知りたいと思う知識欲の源流は
どちらも同じなのよ。」
サンサは、わたしが空にした
パン粥の器を手にして微笑した。
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