――もう誰も、
わたしの名前を呼びはしない。
虚ろを見つめるわたしに呼び掛けたのは、
言葉も発さない足元の鼠だった。

暗い鈍色の鼠はわたしの足の指を囓って、
わたしの死を確認する。
なにをされたのか理解できず、
反射で足を引いて痛みから逃げた。
この動きに驚いた鼠は跳ねて部屋を逃げ、
わたしが死ぬのを廊下で待つ。
部屋と廊下を、
古く錆びついた鉄格子が隔てる。
この場所は、悪夢の中の牢檻。
何度寝ても、何度起きても、
夢から覚めずに、いつもの場所、
いつもの暗闇、いつもの悪夢。
遠くの入り口から迷い込んだ明かりが、
暗闇に曖昧な輪郭を生み出す。
壁の隙間から水が滲み、
床には黴が黒い影を作る。
僅かな光の中でも蜘蛛が巣を編み、
獲物が掛かるのを待っている。
細くなった指で細くなった膝を抱えて、
霞む目で周囲を眺めた。
わたしのベッドは土を盛った台座で、
形を失いつつある土塊に背中を委ねる。
鉄格子は浸水で腐食し、歪んでいる。
この地下の檻に入れられて、
何日経ったかは分からない。
看守も居なければ、食事も運ばれない。
湿った空気に混ざる黴の臭気にも慣れ、
鼻腔を突く不要物の臭気にも慣れた。
甘く張り付くような臭気が充満する。
長い空腹と寝不足で、
頭の中には常に靄がかかっている。
地下に棲む鼠や蜘蛛などは、
餌を求めて共食いを始める。
次に目を覚ます時は、
これが夢であればと願って、
また瞼を閉じて浅い眠りにつく。
顔の近くを飛び交う蠅が
耳の真横で翅音を立て、
鼠が再び足の指を囓り、
わたしの睡眠を妨害した。
布切れを頭まで被っても眠れずに
不快感から爪で頭皮を掻き毟る。
それから首、背中、枯れ枝のような腕、
服の縫い目の隙間に手を入れて
肋骨の浮いたお腹の垢を爪で削ぐ。
いまは全身が不快感に包まれている。
――こんな服を、
チュニックと呼べるのかしら…。
チュニックと呼ばれるこの服は、
わたしの国では奴隷に着せる
とても粗末な布だった。
本によるとこの服の作り方は簡素で、
どこにでも生えて垂直に伸びる
南部草で作られる。

伐採した南部草の茎を叩いて柔らかくし、
乾燥させて繊維にする。
大陸にあった繊維の代用品なので、
ペヌンとも呼ばれている。

繊維のペヌンを梳き、細く長い糸に紡ぎ、
複数の糸を並べて吊るし、横から糸を
何度も交差させて1枚の布を織る。
質の悪い布は元から肌触りが問われず、
パンの原料、穀物のブレズの
子実を詰める袋だった。

袋が傷めば奴隷用の服に転用される。
チュニックはペヌンで織られた縦長の布袋の底側を、
中心から半円に切り、頭を通す穴を作る。
布袋の脇に腕を通す箇所を作れば、
奴隷に着せる服、チュニックが完成する。

ロープと同様に、粗雑に梳かれた
繊維のペヌンで織られたこの布は、
首周りに襟がなくて皮膚に痛く、
常に痒みを与える。
両脇の縫い糸は足りなくて、
最初から何箇所か綻び破れている。
――身分の低い者の着る服が
チュニックではなくて、
生地の質が悪いから、
奴隷はこんな服を着せられるのね。
本から得られない知識に独り納得した。
惨めな格好で
浅ましく身体中を掻いても、
叱られないこの悪夢の中では
罵倒も暴力も嘲笑もされない。
廊下の奥の、格子の先にも檻がある。
顔を起こすと、向かいの檻にある
物体が視界に入った。
あるのは一つ。闇色の物体。
命の火を失った死体。
死体は甘く張り付くような異臭を放ち、
その臭気はこの地下だけではなく、
わたしの鼻腔、頭の中まで占領する。
動かないものの上を、白い蛆が蠢く。
死体に産み付けた蠅の卵は蛆になり、
死体と蛆は鼠の餌になる。
――わたしが死ねば、鼠に食べられ。
鼠が死ねば、蛆に食べられる。
――生命は循環する。
本に書かれている通りだわ。
檻の壁から漏れ出る僅かな水は
黴を増やし、床に滲みるばかりで、
不要物を洗い流してはくれない。
――湖から溢れ出た水は湖に戻らない。
わたしの思考はこの湧き水のように、
床土の中へと消えていく。
伸びた爪を噛み、詰まった垢を口にした。
――わたしの身体の鍍金…。
これがこの檻での唯一の食事になる。
代謝によって排出されたものは、
空腹を満たしてはくれない。
頬を叩かれた時に
不安定になっていた奥歯が抜けて、
手のひらに吐き出した。
口の中に血が湧いて出る。
――銅貨の味がする。
銅も硬貨も食べられるものではないのに、
血の味はこのように形容される。
わたしはもうずっと、
まともな食事をしてない。
地下の檻で過ごすわたしは、
昼夜の感覚も失っている。
干し草を敷いた寝椅子もなければ、
本棚や湖を見渡す窓もない。
与えられた布切れは薄く穴だらけで、
廊下から流れる冷たい風を
防いではくれない。
布切れに包まれたまま
誤って手足を伸ばせば、
すぐに破れてしまう。
布の裂け目は数え切れない。
ここにあるのは死体と小さな生物と、
遠く廊下の明かりしかない。
目は陽の光、森の緑、
塔から眺めた湖の青さを
忘れかけている。
暗闇と、黒い苔、鉄格子と蜘蛛の巣を、
布切れの隙間から眺める。
手のひらに抜け落ちた赤い髪の毛も、
ここではなんでも黒く見える。
異臭を厭い、
地下には誰も姿を見せない。
――早く眠ろう…。
また目を閉じて、悪夢の中で悪夢を望む。
わたしはこの退屈な檻の中で独り、
死を待っていた。
◆
地下の檻に、階段を下りる足音が響く。
厚い靴の音。
それともう一つ、柔らかな革靴の音。
目を覚ましたわたしは
近くの布切れを被り、
両の耳を塞いで目を固く閉じた。
石塊のように身体を丸くして、
故郷の広い湖を思い浮かべた。
眩しい光が反射する湖面、
釣りや網漁をする丸木舟。
南を向けばその山頂に雲を戴く、
雄大な天蓋山が目の前に聳える。
足音はさらに近付き、
鉄格子の扉が開けられる。
太い声の大人の男達の会話。
発せられた罵声は廊下に反響する。
耳を塞ぐ手のひらから、
心臓の拍動が伝わる。
――早く眠ろう。早く…。
力を込めて焦れば焦るほど
眠りから遠のく。
すると布切れが剥ぎ取られ、千切られた。
わたしの身体は布切れごと引き倒され、
驚いて、悲鳴が出てしまい、
寒さで小刻みに身体を震わせた。
「こっちを見ろ。」
ランタンの灯火。真赤な顔。鋭い目。
赤い毛に埋もれた、獣のような顔をした男。

黒い腕、黒い足。
太い手で右腕を掴んで立たされると、
わたしの意識はそこで途切れた。
――夢だった。まだ夢だと思う。
次に目が覚めると
周囲は酷く眩しくて、
手近な布を手にして顔を覆った。
その布は引っ張っても破れず、
檻の布切れではなかった。
『キャッ!』
『おいっ。放せっ!』
女の高い声。
異国の悲鳴に異国の言葉。
白む視界の中で浮かび上がる、
似たような顔をした二人。

わたしはその内の一人から、
右手で服の裾を引っ張っていた。
目が覚めた場所は
揺れ動く屋根付き馬車の床で、
大量の干し草の上には絨毯が敷かれていた。
叩いて柔らかくなった干し草が、
激しく揺れる馬車の振動を吸収する。
車内には草の青い匂いと、
女達の香料の匂いが混ざっている。

濃い肌の小柄な女がわたしの右腕を掴む。
胸甲をして細い剣を佩く。
わたしは何度も瞬きを繰り返し、
周囲を眺めて目を細め、
肌の荒れた首を掻いた。
檻の布切れも死体も無いのに、
身体の痒みは夢の続きのままだった。
夢の中で、座っている異国の女の
一人から罵声を浴びた。
わたしは似た顔の二人の女から
知らない言葉で怒鳴られながら、
重たい革の水袋とパンを貰った。
『食え、食事。』
女は大陸語を使っても発音は明瞭で、
わたしに通じるように
身振り手振りを繰り返す。
胸甲の女はわたしを警戒して睨む。
身体は思い通りに動かず、起き上がれず、
わたしは寝た状態のまま水を飲むと、
喉を通らなくて咳き込んで零した。
硬いパンを震える指の、
伸びた爪で千切って口に含んでみても、
不快感が込み上げて、絨毯の上に
水を吐き出してしまった。
喉の痛みに何度も咳き込んで、
鼻の痛さに泣きたくなったけれど、
涙は涸れて出なかった。
馬車が止まり、馭者台への扉が開かれる。
白髭を蓄えた老馭者の隣に、
あの赤い獣の顔をした畏ろしい男を見た。

わたしの記憶はまた朧気になり、
しばらく嘔吐と腹痛を繰り返した。
――あの檻に戻りたい。
苦痛の中で、自然とそう願った。
わたしは熱を出して
寝たきりだったせいもあり、
地下の檻を出てから何日か宿に泊まった。
熱が治まれば獣の男に抱えられ、
わたしは馬車の中の干し草の上で、
床に寝たままどこか東へと移動した。
移動中の食事は、
パンを山羊のお乳に溶かした
お粥だけだった。
移動の途中でわたしの熱が酷くなった為に、
また何日か宿に泊まることになる。
雨音と遠雷が頭の中に響く。
発熱でなにも考えられず、
霞む目は、よく似た顔をした
二人の女を自然と追っていた。
――奴隷服、チュニックの女。
わたしの介助をしてくれるひと。
二人に懐かしさを覚える。
――これは、誰なのかしら…。
記憶の中の朧気な姿。
湖を見下ろす塔の中にある
わたしの部屋、同じ景色に、
いくつもの顔が重なり霞む。
わたしには乳母が居た。
数多く居た乳母だけれど、
いまとなっては乳母達の顔は、
誰一人として思い出せない。
わたしは生まれた時から
母を知らなかった。
▶