第2章 第4節 白毛の羊
総督という高い地位を持つ小男のマルフは、
長い飾緒と白羊毛のコートに黄金の腕輪との
調和が取れておらず、貴族には見えない。
庭でサンサと札遊びを終えた彼は、
テーブルに置かれた括れのある銀の杯と、
お菓子を細い目で見つめた。
「今日のはなんだ?
こりゃ、変わった匂いがする。
薬ではあるまいな?」
額に深い皺を作り、
眉根を寄せて鼻を鳴らした。
寝起きにわたしが飲んだ、
喉を焼くスパイスティーを、
スーが食堂から持ってきた。
「香辛料と山羊の乳を混ぜて、
軽く温めたものよ。
暦の上では春とはいえ、
昼もまだ少し寒いでしょ?
材料とレシピを届けておくから、
これでアイリアの機嫌を取りなさい。」
「そりゃ助かるが…、
機嫌を取らねばならんほど、
わしらは険悪ではないぞ。」
細い目を見開く。
「年老いて身体が衰えれば、
相手にしてあげられることは
減ってしまうものよ。」
「そこまで老いちゃおらん。
膝と腰は枯れておるがな。
小娘のようなサンサに言われては、
なんとも居心地が悪いわ。」
目下のはずのサンサの忠告であっても、
総督のマルフは気を悪くせず、
口角を上げて笑っている。
「しかし『女は夜』と言うからな。」
――女は夜…?
マルフは奇妙な言葉を使った。
定型表現の『男は昼、女は夜。』は
男は真昼の太陽のように尊く、
女は夜暗に隠すべき卑しい存在
という意味がある。
女が使えば卑下になり、
異性を称える適切な言葉になる。
男が使えば、自惚れ者が
女を貶める発言にしかならない。
――この都市では意味が違うのかしら。
そんなことを考えながら、
わたしはテーブルの上を見つめて
何度か瞬きをした。
身体は移動の疲れが残り、
支える足に力を込めても
柔らかな緑の上では分散してしまう。
「こっちのはなんだ。」
白磁の小皿に盛られた料理。
細い枝の見た目の土色の生地の中には
赤や紫、白色の具材が覗かせる。
「根菜を揚げたお菓子よ。
硬めに揚げて、噛み応えと味を
楽しめるように工夫したのよ。
マルフは甘いもの、苦手でしょ?」
「確かに。こりゃあ旨いな。
いや、食感が良い。
塩が利いて、野菜の味も濃いな。
お菓子と聞いたが、酒にも合いそうだ。」
表面は噛めば霜柱を踏む音が鳴り、
噛むほどにマルフは頷いた。
「お酒はお勧めしないわね。
スパイスティーは利尿作用、
そのお菓子は胃の消化を和らげるわ。
あなたの痛む胃も、
それで少しは和らぐでしょう。」
「ぶははっ、年寄り相手に気を使わせたな。
いや、サンサはわしとも、
大して変わらんだろうに。」
「手紙で呼び出したのはわたしよ。
目下の人間なのだから、
このくらいの饗しはさせて貰うわ。
厨房長のヤゴウも、マルフくらい
偉い客が来ることを喜んでたわよ。
普段は渋顔なのによ。」
「そりゃ良かった。
無駄足にならずに済んだな。
それでもサンサは
わしの恩人でもあるのだ。
総督になれたのも
あなたのおかげだ。」
「その話は聞き飽きたわよ。
老いると同じ話をしたがるのね。」
「立場上、表立って言えん分、
何度だって言わせて貰う。
今朝だってアイリアに
厳しく言われたものだ。」
「いつまでも仲良しで
羨ましいわね、あなた達は。
アイリアにも今度
お願いしたい用件があるのだけれど、
これは別件ね。
いまあなたに伝えるべき話ではないわね。
ルービィが東部周遊から戻ってきたら、
相談しなければならないし。」
「もしや、本当に劇場の権利か?」
「ふふっ。それはないわね。
わたしは負けないもの。」
テーブルに身を乗り出し、
なにかに気付いてマルフは足元を見た。
「わしからも渡すものがある。
こんなとこに置いて、
忘れ物にするところだった。」
マルフは椅子を離れて屈み、
足元の玉石の上に放置した本を拾い上げる。
庭に持ってきて感情的に捨て置いた物。
「以前、サンサが欲しがっていた本だ。
盗賊の持ち物から手に入ったのだが、
状態には問題ないはずだ。
司書連中にも確認を取ったが、
誰も読めずに放置しておった。
語学力の低下だと嘆いてみたが、
わしも読めんからな! ぶははっ。」
濃い褐色に染まった革製の、
厚い装丁の本がテーブルに置かれた。
サンサは差し出された本の表紙を捲り、
わたしも彼女の背中越しに
中身をいくつか確認する。
特殊な書体が、隙間もないほど
羊皮紙に埋め尽くされている。
本は見慣れない単語が多く、
大陸語の筆致も細かく難しい。
見ていると文字が一瞬揺れて、
わたしは目を瞬かせた。
「探していたのはこの本よ。感謝するわ。
ルービィも懐かしむのかしらね。
この本一つで
今日の饗しでは足りないくらいよ。」
「わしはもう、充分なほど
サンサから貰っている。
それに40も過ぎれば老齢だ。
過ぎた妻を貰って総督にもなって、
いまのわしでは持て余す。
それにわしらは子供も居ないから、
分配先は部下や使用人くらいだ。
これ以上の貰い過ぎは良くない。」
「マルフに弱気は似合わないわね。
100年は生きるつもりでしょ?」
「ぶはは。
長く若く健康でありたいものだ。
まだやりたいことは多くてな。」
哄笑し、お菓子を摘み、
残りのスパイスティーを
一口に飲み干した。
「マルフはマルフのやりたいことを、
アイリアはアイリアのやりたいことを、
そしてわたしはわたしの求めることを、
二人にお願いしているだけの話よ。」
「あぁ、確かに。
サンサは昔からいままで。
ずっと変わりないな。」
マルフは細い目を閉じて、
過去を懐かしみながら頷いた。
彼が頭を上下に動かすと、
地面が上下に揺れる。
「あなた達にはまだ
やって欲しいことがいくつもあるから、
長生きして貰わなくてはね。
それにユヴィルを退けたら、
やることも増えるわ――。」
「あぁ、それは当然――。」
――サンサとマルフの声が遠のく。
「ニクス?」
スーの呼び掛けに、
わたしはすぐに返事ができない。
目の前が白く霞んでから真暗になり、
緑の上に臀部を打って座っていた
なぜか立ち上がれない。
「風邪か!」マルフが声を張り上げる。
――サンサの香りがする。
地面に倒れるわたしの背中を、
サンサが支えていた。
彼女に頭を抱かれ、
わたしは緑の上に仰向けに寝かされた。
「しばらく動かずに、
そこで寝ていなさい。
スーは向こう側で足元に座りなさい。
ニクスの両足を持ったら、
あなたの腿に乗せるのよ。」
「こう?」
わたしは足元のスーの顔を見る。
周囲に霧がかかったように、
彼女の表情が分からない。
「体調が悪かったら、言ってくれないと。」
――どこも悪くないのに。
首を横に振った。
口を開いてもまともに喋れず、
わたしは虚ろを見つめた。
「風邪ではないのか?」
マルフが口布を取って口を塞ぐ。
「ただの眩暈。
ずっと立っていたから、
血液が頭に回らなくなったのよ。
頭は打ってないし、
このまま休めばすぐに治るわ。
長旅で疲れが溜まっていたのかしら。
マルフもスーも驚かせてしまったわね。
心配いらないわ。」
「これを使えばいい。
こんなとこで寝ては風邪を引くぞ。」
マルフは自分の着ていた
白羊毛のコートを、
わたしの身体に被せた。
スパイスティーの匂いに包まれる。
「あ…、すみません。マルフ総督。」
「ぶははっ、堅苦しく呼ぶな。
マルフでいい。
わしもお前で
良い勉強をさせて貰った。」
――勉強…?
「スー。マルフを出口まで送っていくから、
そのままニクスを見てて。」
「はい。さようなら、マルフ総督。」
「あぁ、スー。
今日は騒ぎ立てて悪かった。」
「無理もないよ。
なにも言わないサンサが悪いんだよ。」
彼女の口調は元に戻っている。
「わたしはなにも悪くないでしょ?」
「この場の誰かが悪いわけでなし。
わしらが会うには、
まだ機が熟してなかっただけだ。」
マルフは言って頷いた。
アルがわたしのお腹の上に乗って、
顔を見下ろしてミャオと鳴いた。
サンサはアルを抱え上げる。
「あなたは余計なことをしないでよね。」
わたしに言ったのかと思った。
彼女がアルに囁きかけると、
アルはひとの言葉を理解しているのか、
再びミャオと鳴いて返事をした。
『あなたはわたしの右の手ではないのよ。』
彼女が言い放ったこの言葉が、
頭からずっと離れなかった。
◆ 第2章 『白亜の館』 おわり




