
朝になるとハンドベルが叩き鳴らされ、
子供の声が遠くに聞こえる。
孤児院の建物の隣には、
赤い煉瓦が剥き出しになった別館がある。
そこは避難所と呼ばれる場所で、
娼婦が暴客から逃げられるように
総督だった父親が用意した。
トリンに刺された私は病院を抜け、
この避難所で毎夜を過ごして
朝が来るのを待った。
家族が殺されて孤児になった時も、
私はこの避難所で過ごした。
別館の中にある数台の寝椅子と、
寒さを凌ぐ為の暖炉は変わっていない。
古くなった毛布と僅かばかりの本。
他は売られてしまい、
ここには最低限の物しかない。
――欲は無限の噴水ね…。
「星鳥…。おはよう。」
「おはよう、クイナ。」

私が座っていた寝椅子の毛布の中から、
赤髪の少女が起き上がって腕を掴んだ。
私はゼラチンを混ぜたインクで髪を染め、
道端に立つ娼婦を偽り星鳥と名乗っている。
試した染髪は見事に失敗して、
出来た斑点が偽名の由来になった。

星鳥は小型の鳥で
暗い虹色の羽根に白い斑点があり、
背に星空を持つ。
星座になれなかった鳥――、
というのはサンサの作り話。
冬を前に北のゼズ山脈や南の山の麓にある
営巣地を離れ、暖かなこの街を訪れる。
黒い雲を作るほどの
大きな群れで移動して騒がしい為、
農閑期にやってきた出稼ぎの労働者や、
驕った相手の蔑称として使われる。
「ここに残ってくれるの?」
「クイナが起きてから、
ここを出て行くつもりだったからね。
ちゃんとクイナに、
お別れを言いたかったんだよ。」
手首にしていた蹄鉄のお守りを外す。
飾緒と同じ金糸の紐の、
鍍金がされた蹄鉄のお守りを
クイナの手に納める。
「これをあげるよ。
ここに泊めてくれたお礼――。」
「要らないっ!」
クイナは手にしたお守りを投げられず、
ベッドに置いて私のお腹に抱きつく。
寝ていたアルが跳び起き、
棚の上に逃げ出した。
クイナは孤児なのに孤児院の建物ではなく、
この避難所で暮らしている。
彼女は盗賊団と共に暮らしていたせいで、
他の孤児達とは距離を置いていた。
「ずっとここに居てよ。」
「明日も?」
クイナは私に抱きついたまま頷く。
昨日の夜も、
彼女は寝るまで私に無理を言い続けた。
――ここで暮らすクイナにも、
退屈と死以外に選べるものが
無いんだね…。
この別館で過ごしていた頃を思い返す。
「クイナは私とずっとここで暮らして、
大人になったら娼婦になるのかな?」
私の質問に顔を上げた彼女は、
目を涙で濡らしながら首を横に振る。
クイナは自分が無理を言っていることを、
頭では理解している。
彼女の短い人生経験の中では、
孤児としての暮らしも、娼婦になることも、
未だに受け入れられずにいた。
「明日の自分を想像して、
今日の自分を誇れる行動をしなさい。
ってね。」
上着の袖で涙を拭ってあげると、
クイナは鼻を啜って涙を堪える。
彼女を大陸には連れていけない。
孤児相手でも人攫いになってしまうし、
幼い身体での長旅は体力が保たない。
クイナは知識があって自信を持っていても、
行動に移すのは無謀と自分で理解している。
洞窟港から来たファウナも同じで、
彼女はいつも背を曲げていた。
妥協の見返りに得られる安寧を捨て、
館を脱走したのはあの子だけだった。
「…もう行くの?」
「湖から溢れた水は、
川になって海に流れるんだよ。」
私は彼女の前髪を撫でて整える。
「…なに、それ?」
『湖から溢れ出た水は、
湖には戻らない。』
ネルタで暮らしていたクイナは
この諺を知っているからこそ、
私の言葉の意図を探ってくれる。
日陰の庭で、
東側の椅子に座っていた頃を思い出す。
私は小さく喉を鳴らす。
「私達の祖先は天候を祈ります。
天気、星座、天体の運行を調べ始め、
毎日変わる影の長さから太陽と
月の傾きを観測しました。
風の冷たさ、雲の大きさ、雨の量、
土の暖かさや動植物の変化を観察して
残すひとも居ます。
建物の設計図、お金の計算、
作物や服、料理の作り方を記しました。
宝石、花、生物の美しさや勇ましさ、
弱さや醜さを見て詩が歌われます。
こうして本というものは、
枯れる花の儚さを伝えてるのよね。」
「…うん? 本の意義?」
クイナは困惑するだけではなく、
私の話に頷いて意図を理解する。
「本を書いたひとは自分の知識を、
後世に伝える目的があったはず。
知識を発展させる為に――、
繁殖と同じだね。
知識が無ければ歴史は繰り返され、
人類はいまも石臼を回し続ける。
クイナはこれから
もっと多くの知識を得る為に、
色々なひとに出会って欲しいの。
だから一つの目標として、
赤土の丘を目指すといいよ。」
「娼婦は嫌よっ。
わたしはお嬢様にも選ばれなかったのよ。
みんながみんな、
ノーラみたいな閨秀に
なれるわけないのに。」
クイナの率直な意見に私は笑ってしまう。
夜の館ではどんなに優れたドレイプでも、
閨秀と褒めたりはしない。
賭場と娼館が溢れる法の街で、
この褒め言葉は相手を軽視して
娼婦扱いする時に使われる。
街の画工として知られるアイリアや
画材屋として大成したソフィなど、
女の活躍を妬む意味が含まれる。
「夜の館のドレイプを知りもしないのに、
否定するクイナは昔の私と同じね。
読んでもいない本の中身は、
語れはしないはずだよ。」
「うぅ…。」
娼婦というのは卑しい職業で、
私も彼女と同じく良い所感を持てない。
古代から存在する歴史ある職業でも、
伝統として誇りをもって働けはしない。
肌を重ねるのは動物的な行為に過ぎない。
快楽を目当てに欲を解消したい人間と、
生活費を稼ぐ為に妥協した二つの人間。
これを需給――、
需要と供給という経済の言葉で装い
便宜的に当てはめたに過ぎない。
動物の欲求を利用して、
人間の社会で商売の仕組みが構築された。
賤業の一つで、公衆の手洗い所や、噴水や沼、
水溜り、溝などに例えられ、蔑まれる。
高級娼館の娼婦になったところで、
羨望を受けられるとは限らない。
花の寿命は短い。
本で知識を得ただけの
狭い視野と浅い経験しか持たない私を、
家庭教師でやってきたドレイプが覆した。
『サンサ』。

恒星の名前を騙る女。
エルテル領から来たという
右腕の無い傷物の娼婦は、
誰にも買うことのできないドレイプと
この街で高々と宣伝されていた。
光を吸い込む黒髪の
怪しい娼婦を家庭教師にさせられた私は、
出会って間もなく彼女の知識を試した。
――浅はかだったね。
サンサは日食の日時を測り、
長雨の終わりを正しく言い当て、
真暗な空に降る流れ星を見せてくれた。
図書館のどんな本にも載っていない、
奇妙で豊富な知識を持っていた。
彼女が日食や流星群を当てられたのは、
島の暦が大幅に隔てられていた為で、
いまでは理由も原理も分かった。
理由が分かったおかげで
私の無知が理解できて、
自分に失望せずに済んだ。
私自身がなにも知らないということを
サンサから学んだ。
そんな私はクイナに、
自分の見てきた未知の景色を
見せてあげたかった。
過酷な旅に連れて行くよりも、
夜の館は孤児のクイナには手近で
理想の場所になる。
「夜の館に入ったからって、
ドレイプになる必要はないんだよ。」
クイナは館に入れる年齢に満たない。
彼女は既に、
認証管理の補佐ができるほどの
知識を多く備えている。
「美貌と叡智の集まる夜の館だものね。
ふふっ。
あの場所にはあなたにとっての
道標があるはずだよ。」
私は蹄鉄のお守りを指の腹で撫で、
表面に施された鍍金を拭い取った。
――ニースだね。
金のお守りは赤い銅へと変わり、
赤い髪をした彼女の頭の横に掲げた。
クイナが受け取ってくれるのを待つ。
彼女は沸き立つ感情に堪えきれず、
再び目から涙が零れ落ちる。
「海に…、海に流れたら、
わたし達、もう会えないのよ。」
涙するクイナは手を向けて、
蹄鉄を受け取ってくれた。
ニクスから貰ったお守りを、
私はクイナに託したかった。
「いつか、あなたにも会えるよ。」
「だって、そんなの…
根拠がないわ…。」
クイナにとってその未来が、
いまではまだ永遠にも思えるかもしれない。
また泣き続けるクイナを両腕で抱きしめた。
別れも告げられなかったひと達を
思い出して、クイナと同じ気持ちになる。
彼女の身体は苗木のように細く、
風に吹かれた枝葉のように震えている。
私はあの日、ウラの魂を見送った緑の上で
歌った詩をクイナに聞かせた。
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