螺旋階段は壁に棒を挿した簡素な造りで、
私が乗ると撓って軋みが生じる。
棒同士の間隔が広く勾配は急で、
落下を避ける為に手にしたロープは
擦り切れている。
足長程度の太さしかない棒の表皮は、
削げ落ちて滑りやすい。
棒の中には根元が腐って
折れたままの箇所もあり、
まともに上るのに苦労する。
身軽なアルは暗い塔の中でも、
明かりに目を光らせて先に跳ぶ。
ランタンを持つゼオが、
階段の先で待っていた。
ゼオは私に頭巾を譲ってくれ、
癖のある鈍色の髪を露出させている。
私は照らされる棒に足を乗せ、
壁に張り付きながら興味深く上る。
――落ちたらどうなるんだろ。
一歩でも踏み違えれば、
深い暗闇の先には硬い地面が待っている。
好奇心が私を誘う。
最後まで慣れない螺旋階段を上ると、
街を一望できる高い場所に出る。
南には天蓋山が聳え、
東には赤土の丘が見下ろせる。

空が明るくなってきた。
ここは幼少から憧れていた場所。
――翼を手に入れて塔から空を飛び、
星を掴もうとしたヴィカロスの景色ね。
――私にはその翼も、
飛び出す覚悟も無かった。
初めて鐘楼の展望台に立ったけど、
心許ない場所に足が竦む。
板を張っただけの薄い床材の上は、
重心を変えるだけで揺れて頼りない。
「名所の鐘楼に総督も入らせない理由って、
こんな状態だからなんだね…。」
疫病の蔓延で東部に恐慌が起きた。
カヴァとネルタの戦争とメリエ家の暗殺、
ネルタの第2次革命やハミウス事件が続き、
鐘楼の改築計画は頓挫した。
深く息を吐いて、
朝の冷たい空気を肺に入れ替える。
天井から吊り下げられる
青銅の鐘を見上げた。
何人も収まるほど巨大な鐘の中に、
打ち鳴らす為の舌が垂れている。
日の出前のいまは、舌の周りが
クッション材で覆われている。
床には束ねられたロープと、
鮮やかな色の帯が箱に詰められていた。
時刻を示す帯を近くで見ると、
日陰の庭で使う天蓋よりも長く幅広い。
まだ朝には早く、
いくつかの寝椅子で鐘撞き達が
毛皮に包まれて寝ている。
一人の男が寝椅子に座って、
こっちの様子を窺っていた。
赤い髪と髭を生やしたこの若い男も、
オーブ領風の黒装束を着ている。

「なんだ? サンサのフランジか。」
「会うのは夏以来だね、ラッガ。」
「館に入ったのは春だけだ。」
「街道で見たよ。
あの日フルリーンを助けて、
ユヴィルを脅したのはあなただよね。」
「…あの時に居たか。」
口数の少ないラッガは、
座ったままなにも言わなくなった。
西の頭目、ユヴィルの喉元に
短剣の刃を当てていた時とは違い、
頭と顔の毛が繁茂している。
ラッガは春まで隣のゼオと一緒に行動し、
夜の館の日陰の庭にニクスを連れてきた。
「こんな退屈なやつを誘うのは辞めとけ。」
「舞台だって役割は大切だよね。
ゼオに私の護衛が務まる?」
この質問にゼオは素直に口を結んだ。
「…なにしに来たんだ。お前まで。」
「二人共、仲良しなんだよね。」
「スァラを通じた仕事仲間ではあるが、
仲良しではないな。」
ゼオが否定し、ラッガも同意する。
「ところでラッガはサンサの子供なの?」
私の質問に隣のゼオが吹き出した。
ラッガは不快感を浮かべて首を横に振る。
「それなら護衛? 暗殺者?
まさかオーブの騎士とか?」
オーブには貴族は居ても、
騎士という階級は存在しない。
ラッガが自称しなければ――。
「何者でもない。」
「いまはナルシャを僭称してるんだ。」
『名も無き者』を意味するナルシャ。
入植以前に使われたナルキアを語源とする
海賊時代から変化した言葉で、
家名の無い者や孤児はナルシャを名乗る。
「オーブの人間でもない。
おれはネルタ東部に住んでいた
ソーマ族の生き残りだ。」
「20年前にな。」と、ゼオが言う。
20年前に湖で起きた民族の粛清。
「究極的な価値観の相違…。
ネルタ族による
第1次革命の犠牲者だね。」
サンサはネルタ族に追われ、
湖から逃げてきた家族の中で
一人の子供を助けている。
――盗賊団を壊滅させた女傑…。
「私もサンサに助けられたんだよ。」
父母が劇場で娼婦に襲われた事件の日。
家庭教師をしていたサンサから
勉強を教わっていた私達は、
盗賊からの襲撃に遭った。
「知ってるさ。
後処理をしたからな。」
「したのはおれだ。」
「同情を乞わなくて済むね。」
私は笑って言ってみても、
二人共、笑ってくれはしない。
「なにを企んでるんだ? お前達は。」
「俺も一緒にするな。」
「ゼオは私に協力するから
案内してくれたんだよね?」
「同意してねえ。」
まだ踟っているゼオに
私はさらに訊ねる。
「ゼオは興味あるんだよね、
大陸に。」
「…大陸?」
ラッガがゼオに訊ねる。
「…興味があるのは大陸史な。
こいつが館に戻らずに
大陸に行くっていうんだよ。
大陸に興味はあるが、
行けるのなら行ってみたい場所
ってだけだ。」
ゼオは病院の別館から出ても、
ずっと同じことを言っている。
口数の少ないラッガは、
膝元で組んだ手の母指を入れ替えて
僅かに興味を示した。
「そこで護衛か…。」
ラッガの予想は概ね合っていても
私は首を横に振る。
大陸に行くと決めても、
私だけでは旅の苦労は目に見えている。
道楽者のゼオは役者なので
役を演じられても、護衛そのものは
期待できない。
旅の護衛が男一人では心許ない。
オーブ領で、『鷹』と称えられた
ラッガが護衛につけば、
多少の面倒は避けられる。
ラッガとサンサは親子か姉弟に近くても、
主従の立場でもないのであれば、
対等な関係かもしれない。
それぞれの意思も尊重した上で
交渉を進める。
「この島からサンサが居なくなったら、
ラッガはどうする予定?
ずっとここで鷹を続けるつもり?」
「ラッガはスァラの信奉者だ。
仮定の話だろうと
勝手に居なくなるなんて考えてない。
居なくなっても
迷い子みたいに探すつもりだろ。」
「サンサに執着してるお前が言うな。
お前なんてまだ自分のことを
お姉様の所有物だと思っているだろ。」
「あははっ。仲良しだね。」
「どこがだ!」
ゼオの訴えにラッガも頷いて抗議する。
二人のあいだで
サンサの呼び名が統一されないまま、
言い合っているのが奇妙だった。
彼らにとって私は、
サンサのフランジと認識されている。
しかも経歴を比べれば、私が一番浅い。
3人に共通する事実が一つある。
「私達はサンサで繋がっている。
でも他にはなにもない。
やりたいこと、目的がない。
主体性というものだね。
『言われる前に行動しろ』って
マルフに叱られるかな。
それなら作っちゃえばいいんだよね。」
私が大陸のある西に指先を向けると、
太陽の光が背中を暖める。
「作るって…、歴史の捏造か?」とゼオ。
「愚者め。大陸に行くんだろ。」
「ゼオは勘が鋭いね。」
「愚弄された気分だぜ。」
「半分は当たってるから、
褒めたつもりなのに。」
こんな小娘が褒めたところで、
カヴァの王家に居たゼオには
侮辱に感じるのかもしれない。
「大陸に行くことだけが、
目的ではないんだろ。」
「分水街の貴族特有の旅行感覚だろ。
フランジの給金程度で
気軽に行ける場所でもないぞ。」
「金はない。」
「舞台の収入を当てにされても困る。」
彼らは、私という共通する
批難の相手を見つけた時には、
同調する相性の良さがある。
二人がお金を持っているのは
知っていても言い分を飲んでおく。
「お金はこれから用意するんだよ。
統一硬貨のルースがあっても、
大陸では使えないからね。」
「闘技場に売られるぜ、お前。」
「お前が行け。娼館だぞ。」
この二人は仲が良い。
「二人共、ここは法の街だよ?」
私の忠告に似た言葉に、
彼らは顔を見合わせて首を捻る。
「この島を出る前に、
協力してくれるひとがもう一人
必要になるんだよね。」
日の出に気付いた鐘撞きが慌てて起き、
舌のクッション材を取り外した。
私は抱いたアルの両耳を塞ぎ、
その手で頭巾の紐を絞めた。
間近で聞く大鐘の音は頭巾を穿ち、
お腹にまで響いた。
陽光が大地を抱き起こし、
音の波が人々に朝を告げる。
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