黒猫のアルが、また私に跳び乗ってきた。
胸への衝撃に目を開けたのに朝ではなく、
天窓から月光の差し込む夜だった。
収穫祭の劇場で観劇を終えた日の夜中。
アルは私の胸元には居なかった。
「ぶあっ!」
痛さと息苦しさに呼吸ができず、
咳をすると喉に詰まった液体が
顔に飛散した。
顔を拭こうと手を動かしてみたけど、
手も足も動かせずに激痛が全身を襲う。
ベッドの上で身体に力が入らないまま、
瞬きを繰り返す。
「トリンッ! なんでっ?」
ニクスが悲鳴に近い叫びを放つ。
夜なのにトリンが部屋に居る。
「ニクス…トリッ…?」
名前も呼べないトリンの暗い目が、
私を見下ろしていた。

トリンはネルタの元貴族の子で、
第2次革命から国を離れて盗賊団に居た。
その盗賊団も1年前に壊滅した。
孤児になったトリンの瞳は
月光の中でも暗い。
名前を呼ぼうとしたのに、
胃の内容物ではない液体が喉を逆流する。
胸の息苦しさに何度も咳き込み、
舌に広がる銅貨の味と臭気で
それが私自身の血だと分かった。
血が胸から湧き、身体中から溢出していく。
胸の表面に熱が広がると体内の熱は薄れ、
手足の先から冷たくなっていくのを感じた。
痛みに耐えて、目を開けるのも疲労を伴う。
ニクスとトリンが口論をしている。
――ニクスは…トリンの…。
頭の中を支配していた知識欲も失せ、
槽の栓が抜けてしまった感覚に襲われる。
痛みと苦しさで考えがなにも浮かばない。
なにも考えられなくなる。
サンサに背を預けて倒れるトリン。

――死ぬと、なにも無くなるんだ…。
怖くて身体が震えた。
光、陰、音、熱の全部が、
濃い靄に包まれていく。
私はハーフガンに持ち上げられて、
メノーの病院に連れていかれる。
サンサの声がアルを呼ぶと、
その黒猫が私の胸に跳び乗った。
――重た、くない…。
黒い体毛に覆われたアルは
月光の中で輪郭を作り、
真黒な瞳孔を広げて私を見つめる。

――アルムデナ。
頭の中でその名前を呼ぶと雷鳴が轟き、
私の意識はそこで途切れた。
◆
私は目を覚ました。
湿った空気のする変わった部屋。
質素な燭台に太い蝋燭の小さな火が、
なにもない部屋の壁を冷たく撫でる。
台座には見慣れた革袋がある。
息苦しさからは開放され、
胸に痛みもなくて手足は先まで動く。
石のベッドの上で上体を起こそうとすると、
胸が重たくて首だけを起こす。
「…アル。乗らないで。」
重さの正体に気付いて呼び掛ければ、
アルは私を見てミャオと鳴いた。
鳴き声に違和感を覚えても
それを正しく言語にできずに、
アルを持ち上げたまましばらく考えた。
アルは軽く、細い骨には僅かな筋肉と、
冬の厚い毛皮に覆われている。
――夢、ではないのね。
寒さを感じるのに、寒くはない。
薄暗さを感じるのに、暗くはない。
――サンサの猫。
サンサが私に押し付けた猫。
私の身体には低廉なチュニックが
着させられていた。
普段寝る時はキャシュクなので、
誰かが私の服を着替えさせた。
思い当たる人物はメノーだけど、
彼女の姿はここにはない。
チュニックの広い襟に手を入れて
胸に痛みのあった箇所に触れると、
皮膚は糸で縫われていても傷跡が見えない。
爪で掻いてみても化粧もされていない。
血の跡もなく、拭い取られている。
爪のあいだには、
確かに流れた血が
乾いて黒く残っていた。
ニクスから貰った蹄鉄のお守りは、
寝る時にも手首に着けたままだった。
血で汚れた部分を爪で剥がす。
石造りの冷たさのあるベッドに座り、
張り付いた汚れと部屋に残る臭気から、
頭の中に溢れる記憶を辿る。
刺された時に失われた
知識欲の槽は栓が戻されていて、
知識の湧き水が噴水になって
槽の中を満たしている。
北部入植記録を初めて読んだ時のような、
異質な知識の洪水に意識が混濁する。
――…ニースだね。
私は目を一度閉じて考えを取捨し、
溢れる思考を整理しなければいけない。
しかし壁の向こうから聞こえる足音が、
落ち着いて考えさせてくれない。
扉が開けられるとランタンを持った男が、
部屋の前に立って私を照らして見つめる。

彼は眉間に皺を作って、
目に疑問を浮かべた。
全身が黒い布に覆われていても、
筋肉質な身体をしているのが分かる。
私を見て立ったまま
男は次の行動を起こさない。
襲ってきたり、逃げないところを見ると、
盗賊ではないらしい。
黒色の頭巾を被り、鼻口には
パイル生地の厚い宝飾巾で顔を隠す。
腰鉈を佩いているので
この施設の護衛には見えないし、
この街で笛を咥える男娼にも見えない。
顔はよく見えないけど、
護衛の中ではディーゴに近い年齢の男。
袖のある黒色のキャシュクと、
スラックスを履いた黒装束姿。
飾緒もない紐無しの男は、
黒色の布を肩に掛ける。
頭と顔を覆い隠すのは
口布と同じで汚れを防ぐ目的で、
街で見かけることもある
マルフの清浄屋の姿になる。
鈍色の眼が蝋燭の光に照らされている。
「…お前は本当に死んだのか?」
死体に問うべき言葉ではない彼の質問に、
私は戯れに頷く。
私は彼を知っていても、
記憶の中の姿とは一致しない。
「今日は白髭をつけて、
老馭者の格好をしないんだね。
ゼオ。」
試しに私の記憶の中にある、
彼の名前を呼ぶと、
沈黙という返事があった。
館に時折姿を見せる老馭者は、
沸騰を意味する名前を持つ。
ニクス達を誘拐した
傭兵の雇い主、ユヴィルの裁判で、
彼は老馭者の姿で証人を演じていた。
いまは白髭を蓄えた
老馭者の姿でも無ければ、
演技もしていない。
「初めまして。でいいかな?
私の名前はスース。
知ってるよね。
スーでいいよ。」
「知ってる。
…いや、俺の方が
知られてるなんて気味が悪いな。
…誰にも教えてはいないはずだ。」
「ゼオって略称よね?
劇場でも同じ名前を名乗ってるの?」
「カヴァでは有り触れた名前だ。」
不審に思う彼は、
宝飾巾の奥で顎に手を当てて撫でる。
「指導者ソーマはゼオだったんだ。
収穫祭であなたの劇を見たよ。
まだ昨日だよね?」
「最前列に居たのは知ってる。」
舞台上で真赤なコートを靡かせる、
指導者ソーマの役を演じていたのが
彼だった。
「…スァラに席を用意させられたからな。」
――スァラ…、サンサのことね。
彼がサンサに強要された想像に、
少し笑って緊張が解れる。
「老馭者に死体運び、それと役者…。
あなたは多彩に役を演じられて、
器用に生きられて羨ましいね。」
「演じられる分、信用を失うもんさ。」
「…それは役者だからでもないよね。
自虐はサンサに似てるね。
他の仕事は?
マルフ総督の監視? それとも暗殺?」
私が冗談を混ぜて訊ねても、
宝飾巾の奥の表情は変わらない。
「役者如きが見様見真似で、
相手を殺せるはずがない。
殺すのなら覚悟も必要だ。」
「覚悟…。確かに、ね。」
彼の考えに納得する。
「殺しに関しては俺なんかより、
オーブの人間がやった方が早いだろ。」
「…オーブのひとは喧嘩が強いもんね。」
オーブ領風の黒装束を着た男が言う。
私の記憶の中に、
思い当たる人物が居て同意した。
「今回はなにを言われて来たの?」
「死体の運搬だ。」
「あなたが火葬場に?
私はどうなる予定だったの?
実はあの施設の権利者とか?」
「面倒な権利は持たん。
貴族や病人なら火葬場で焼くはずだ。
ただの死体なら運びやすいように
折り重ねて縛ってから、
こいつに詰めて南門に捨てる。」
ゼオが布袋を広げた。
私の全身が埋まるくらいの長さの布。
「他はマルフの農場に運ばれて、
埋められるはずだ。」
「マルフ総督の? …死体の処理場ね。」
このゼオという男は、
マルフの秘匿する農場も気にせず話す。
マルフは川を遡った南の僻地に、
特別な堆肥を作る農場を持っている。
無産街に転がる死体を全部焼いていたら、
この街に入ってくる燃料では足りなくなる。
その為この街には清浄屋の陰に隠れた、
死体運びという仕事が組成された。
不要物と一緒に運び、
死体を肥料とする農場がある。
――あれもサンサが考えたのね…。
アルが私の目を見つめた。
放置すれば人体に有害な死体でも、
適切な環境に置いて管理すれば、
やがて小さな生物が食べて分解する。
死体の分解には、
一月から半年は必要になる。
骨は半年経っても分解されない。
マルフの営む清浄屋は、
街の浄化の役に立っている。
彼の所有する死体の処理場からは、
肥料以外に副産物の火薬の原料が手に入る。
むしろ主産物かもしれない。
ただの堆肥を作るだけなら花汲みをするか、
馬の忘れ物でも拾い集めた方が効率は良い。
過去のソーマが残した
退化の科学論には記されない製法を、
サンサがマルフに教えた。
この製法は効率が悪い。
火薬の原料は鶏糞からでも作れるので、
サンサはマルフに街中の死体を
処理させる為に唆した可能性が高い。
「私が死体ではなかった場合は
どうするの?」
「働かなくて済むなら歓迎だ。」
ゼオの怠惰な返答に私は笑ってしまった。
「ここって、メノーの病院だよね?」
「あぁ、別館だ。」
別館はメノーの所有する病院の隣の建物で、
彼女は研究の為に通っている。

回復の見込みのない病人を運び、
経過を観察して原因の調査で解剖も行う。
そして遺族には報酬が支払われる。
「私も解剖してみたら良かったのに。」
隣に座るアルがミャオと鳴いた。
メノーは私の胸の刺創を縫って閉じた。
「娼婦みたいな、
浅ましい真似をするな。」
「あら。失礼したわ。」
乳房の上に縫われた傷を
襟を広げて見ていたら、
ゼオは私から顔を背けた。
ゼオの反応に口元が緩む。
女ばかりの夜の館での暮らしが長いと、
露出も抵抗がなくなり鈍感になっていた。
「…それで運搬を依頼したのが
サンサ、あなたの姉だよね。
『オランゼオル』。」
「俺の出自まで聞いていたのか。」
カヴァの王家独自の厳しい名前は長い。
「本人からは聞いてないよ。
出自を問わないのが館の決まり。
でもカヴァのことなんて
すぐに調べがつくもんね。
それにあなた達王家の人間って、
長い名前を付けて略したがるから。」
サンサを名乗っているサンスァラ王女を
スァラと呼ぶ人物は、カヴァの中でも
彼女に親しい者に限られる。
「『献身の王女』がカヴァに不在だと、
弟のあなたは居場所もなかったんだね。」
もし王子のオルデウスが
ネルタとの戦争で死去した場合、
ゼオが継承権を得てしまう可能性もある。
「俺は恵まれた方さ。
それに国を抜けて
これで良かったとは思ってる。」
「いつからこの街に居るの?
サンサが来た10年前に?」
「俺が分水街に来たのは15歳の頃で…
もっと前だ。もう13年になるな。」
「南部訛りが抜けてるのは役者だから?
長く留まってるのは、
なにか理由があるの?
こっちに妻子が居るとか?」
「そんな面倒なのは居ない。
まぁ、スァラが居るからだな…。」
「ふぅん…? 深い理由はないわけだね。」
ゼオは目で不満を顕わにしたけど、
待っても反論は返ってこない。
私はアルを抱えて部屋を出た。
右も左も同じ暗い廊下が広がる。
「ゼオ。案内して。」
「館にか? 農場にか?」
「ふふっ。どっちも違うよ。」
火葬場ならまだしも、
マルフの死体農場という
思いがけない冗談は笑える。
「袋を忘れてるぞ。」
ゼオは燭台近くに置かれた革袋を示した。
「身分証は置いてくんだよ。」
あの袋には私の身分証が入っている。
「…館に戻らないつもりか?
深い理由があるなら言ってみろ。」
ゼオからの意趣返しに私は頷く。
「もう死んだ人間だからね。
家族を失って売られた孤児が、
誰にも買うことのできないドレイプの
庇護を受けても、サンサは後を継げとは
言って来なかったからね。
主体性のなかった私でも、
サンサは自分の理想を押し付けなかった。
娼婦がドレイプなんて名前を変えても、
卑しい職業に変わりないもんね。」
娼婦に対する私の嫌悪感をゼオが鼻で笑う。
「でも私は、父親のやっていた
総督を目指したつもりもない。
マルフや元老院にとっては、
私って目障りな存在だよね。
ゼオなら分かるかな。
メリエは歴史ある総督の血筋だもの。
いつまでも総督の娘でもないんだし、
あの娼館に長居し過ぎたんだね。
貴族として生まれ育った私が、
孤児になってやっと分かったわ。
ニクスに影響されたのかな。
知ってることはあっても、
知らないことの方が多かった。
これは考え次第だけど、
いまの私はあなたと同じだね。」
ゼオは腕を組んで首を捻ったものの、
すぐに頷いてくれた。
この街は仮初めの居場所だった。
『スーッ! 待って!』
館に置いていってしまったあの子の、
悲痛な叫び声が頭の中に響く。
手首にしたままの蹄鉄のお守り。
「サンサは私達に口実を与えたんだよ。」
「俺も、か?」
「ゼオがこの街で劇団を率いていたから、
サンサはあなたを見つけることが
できたんだよね。」
演劇を禁止するカヴァの王家が、
検閲法を無視して座長をしているとは
普通は誰も思いはしない。
「さっきも訊ねたけど、
ゼオはなにかしたいことがある?
この街に留まる理由。」
「さぁな…。なんだろうな。」
ゼオは沸騰という名前に反し、
静かな男だった。
「広く、深く考えてみて。」
「長いこと役者をやっていたが、
スァラを探す目的で留まったに過ぎない。
この街も結局は権力と金と暴力ばかりだ。
カヴァに居た頃と同じで、
俺の居場所はここにはない。」
ゼオはランタンを掲げて、
暗闇の廊下を照らしながら前を静かに歩く。
国と身分を自ら捨てて、
死んだはずの姉を探した男。
舞台の上で英雄を演じ、
老馭者を装い、死体を運びに来た、
沸騰という現象の名前をした形の無い男。
私は総督の娘で、資産を捨てた孤児で、
サンサのフランジなのに、なにもない娘。
私達には目標や目的が無かった。
ランタンに照らされるゼオの影を踏み歩く。
「あなたも私と同じ流れ星ね。
ゼオは指導者ソーマを演じることで
島の様々な場所を旅してるけど、
行きたいところにはもう行ったのかな。
私は本を読んで大陸の知識はあっても
街からも出たことがない。
サンサは『広く、深く考えなさい。』
って言うんだよ。」
「スァラがよく言っていたな。
俺はただ、
長い退屈を無くしたいだけなんだよ。
お前はここを出て、どこに行くんだ?」
「連れて行きたいひとが居るから、
そのひとの所に案内して。
この退屈から抜け出すんだよ。」
私達は別館の暗い廊下から、
外へ出る扉を開ける。
冷たく乾いた風が中に入り込み、
乾いた空気が鼻孔を擽った。
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