第12章 第3節 想像の余地(第1項)
夏の暑さも長雨と共に去り、
日陰の庭の天蓋が取り外された。
暗い虹色の羽根を持つ星鳥が、
ゼズ山脈や天蓋山の営巣地から街に来て、
庭で賑やかにお喋りをする。
時折、背後から小石の擦れる
心地の良い音が耳の後ろを擽ってくる。
庭に敷かれた緑は色褪せつつあっても、
テーブルの上には彩りが増える。
ムネモスがデーンに作らせた新作は、
マリセスの果実のジャムで、
これは硬いパン菓子と一緒に食べて
砂糖と塩と果汁の水で嚥下を促す。
取り寄せて貯蔵室に入って来た
何十個もある果実の皮剥きを、
選考会で選ばれたフランジは
今回も労働体験をさせられていた。
春に行った根菜のポッポに比べれば、
マリセスは芽がないので難しくはなく、
刃物の扱いにだけ注意できる。
こうした単純な作業であっても、
館の普段の仕事を経験でき、
従業員に敬意を持つことにも繋がる。
ジャムという報酬もあり、
花汲みをさせるよりは良い。
作ったジャムの半分は暮相の館に送られ、
レデとジールの姉妹が娼婦達に与える。
輸送を担うミュパは盗み食いをした為、
厨房でヤゴウの妻達に早速叱られていた。
お客さんのマルフが帰ったのを見て、
わたしはテーブルの下で足を伸ばした。
太腿の上で寝ようとしていたイオスが
筋肉の急な動きに焦って起き上がり、
わたしに抗議の視線を送る。
詫びにイオスの狭い額から
尻尾まで撫でると、白い毛が舞った。
今日履いているソックスは
ファウナの考案した網目のもので、
腰まで伸びて左右が紐で繋がって
この上に股布を履く。
細長い袋状の網は糸が太くて節が広い為、
冷たい風をそのまま通す。
お魚であっても網を抜けてしまう。
これを履かされてマルフに見せると
露出に目を背けられ、風紀を乱すとして
娼婦の外出時の着用は許可が降りなかった。
これからの季節は寒くなるので、
娼婦でなくても外で履いたりはしない。
夏に作ったチュール生地のソックスは、
ルービィが見込んだほどは売れなかった。
生地を流用して作った
一部が透ける肌着は想定に反し、
娼婦のみならず中流階級にも広く売れた。
館の中でも自慢するドレイプのセセラや、
買った肌着を着て見せるフランジの
ミニとアミの双子が燥いでいた。
この浅ましい行いはファウナに代わって、
若いムネモスが双子を諫む。
チュールの肌着は低廉な木羊草でも織れ、
ルービィの工場で作った試作品は
中流階級にまで広まった。
吸湿や保温に優れた羊毛や
飾緒を作る高級なシルクよりも、
木羊草やさらに質の低い南部草でも
夏は涼しく、快適な睡眠を得られる。
飾り布やソックスとは違い、
公に見せられるものではない肌着に
材質は重要でもなく、着用者の貴賤が
問われることもない。
暮相の館のミュパは質が悪い肌着を
娼婦達の代わりに着て見せたことで、
肌が荒れてわたしが西側の館にまで
診療に呼び出された日もある。
こうしたミュパの詐病は
わたしを呼ぶ為の口実。
ただの蜂蜜と蜜蝋を混ぜた
凝乳物の特製品を塗ると、
ミュパの肌の赤みは拭い取れる。
不老不死の薬とも呼ばれた偽薬。
娼婦達は肌着よりも
この偽薬を欲しがった。
人間の欲というのは井戸の水とは違い、
簡単に涸れることがない。
チュールの肌着は流行が限度を超えて、
その生地でキャシュクも作られると、
風紀の乱れに議会を奔走するマルフは、
頭を抱えてわたしにまで相談してきた。
マルフは氾濫する生地に対して、
規制の為に税を設けようと画策した。
わたしは増税に否定的だったので、
法案への提出を見送らせた。
館を訪れる他の議員にも、
わたしは同じことを提言する。
薄いだけの服の生地は脆く、
変色も生じやすい。
夏も終われば、
それを着て外出するひとも居なくなる。
欲の透けた服を着た
マルフの狙いは失敗に終わり、
日陰の庭だけの笑い話で済んだ。
マルフが居なくなれば、
今日もムネモスはフランジを
日陰の庭に呼びつけた。
ムネモスは強張る彼女達の口に、
ジャムをつけたパン菓子を入れる。
立ったまま食べる行為は浅ましく、
仕事中の間食は怠惰に繋がって
望ましくはない。
フランジや従業員の起居に
厳しい目を向けるムネモスでも、
彼女達の仕事の様子を見て、
適宜お菓子という報酬と休息を与えている。
フランジはお菓子を食べた途端に、
その甘酸っぱさに驚きと喜びを隠そうと
わたしから目を背ける。
それからムネモスは
蜂蜜で作った飴を与える。
飴ならば咀嚼の必要がなく、
仕事中でも食べられて空腹を紛らわせる。
「噛んだり飲み込んだりしてはダメよ。
喉に詰まってしまうし、
綺麗な歯が悪くなってしまいます。」
ムネモスは諫む。
「後で歯を磨かない子は、
サンサ姉様に別室に送られて
折檻されますよ。
寝る前に確認しますからね。」
ムネモスの脅し文句にわたしを畏れ、
少女達は手で口を塞いで
仕事に戻っていく。
庭での会談にも慣れてきたムネモスは、
館でフランジや従業員に所作についての
指導も行っている。
ドレイプは表情を崩さず、
歯を見せることは推奨していない。
頭巾と宝飾巾をするドレイプは、
相手を目で魅了するものらしい。
ドレイプを目指すフランジは、
綺麗な白い歯であっても
見せないように努めていた。
テーブルに前足を掛けたイオスが、
わたしの太腿に立ったまま
羨ましがって見ていた。
夏に刈ったイオスの体毛は
刈る前よりも増えて、冬に向けて
さらに巨大な毛玉へと変貌する。
ブラシで抜けた夏毛を手で丸め、
球にした物を紡ぐ商売を考えてみる。
イオスが転がして遊ぶ玩具以外の用途は、
まだ見つかっていない。
毛の球体も放置すれば虫が湧くので、
熾火の中に捨てて燃やす。
「クイナも背を伸ばして座ってください。
ファウナの真似でしょうか。」
西側の椅子に座っている少女は、
酷く萎縮しながらわたしを見て怯える。
他のフランジに比べて稚いクイナは、
暗い赤髪の頭を下げて黙っていた。
「折檻はムネモスの冗談よ、クイナ。」
「知ってる…。」
昔のわたしによく似た素気無い返事をして、
クイナは目を合わせもしない。
何人かのフランジを
順番に庭での会談に同席させていると、
緊張で萎縮したり平静を失う子がいた。
総督のマルフを前にして
この少女は緊張や動揺を見せなかったのに、
わたしに対してはこんな態度を取る。
クイナは祈りの姿勢で
胸元で両手を握り締めて、
キャシュクに隠れた革袋を掴んでいた。
「風邪でもないのよね?
月経は?」
「普段と様子がおかしいですね。
サンサ姉様がまた、なにか言ったんですか?」
「まだなにも言ってないわよ。」
「まだ、ですか?」ムネモスが首を捻る。
去年、王女と孤児院で選考会に行った際、
わたしを姉のラミーと見間違えて
このクイナが声を掛けてきた。
――恐怖というより、畏敬という感じね。
観察して思っていたところで、
わたしからムネモスに伝えることはしない。
クイナが感じている畏れは、
食料貯蔵室で姉の暴力に怯えた
下女達に近いものがある。
「わたしのフランジになるのが
嫌なだけかしらね。」
「あの…どうしてわたしが、
サンサのフランジなの…?」
クイナは当然の疑問をわたしに訊ねる。
今年の春にもわたしは孤児院に顔を出し、
ルービィと面談を行った。
クイナは幼い頃にネルタの城で働いていた。
5年前のネルタでは父、ケイロウが
先王を弑逆して第2次革命が起きる。
司書のナルキック・ゴレムが死ぬと、
クイナの家族は土地を捨て、
ナルキック族が主体の盗賊団に加わる。
盗賊団は分水街側の兵士に捕まり、
クイナはトリンと共に孤児院に収容された。
わたしはその裁判記録を読んで知っている。
クイナをフランジにする選んだ理由は、
彼女がネルタ出身だからでもない。
「クイナが思慮深く、聡明な子だからよ。」
「なんなのよ、それ…。」
不満を見せるクイナに、
言われた経験のあるわたしも
説明しようがない。
「サンサ姉様の隣に並んで立つくらいには、
クイナはお上品なのよね。ふふっ。」
過去の話で、
ムネモスがクイナを捓って和ませた。
そんな話を広めたのはファウナで、
去年の選考会でのクイナの行動には
わたしも笑いが込み上げてしまう。
盗賊団に居たせいか、娼婦の避難所、
孤児院の別館に住んでいたクイナ。
彼女はまだ、フランジとの共同生活に
馴染めていない。
孤立するクイナは、
他のフランジが怖がる書室に入って、
解剖学の本を少しずつ読んでいる。
知識に対する欲と胆力があった。
彼女をドレイプの手伝い役で
成年まで5年間を過ごさせるよりも、
日陰の庭での会談に同席させて
社交の経験を多く積ませたかった。
「下働きが好きって
わけでもないのよね。
あなたは姿勢が良くて、
読み書きも大略はできるでしょう?」
「勉強は、好きではないのよ…。」
「学校に通うよりも夜の館を選んだのは、
ドレイプを目指してのことでしょう?」
ムネモスが訊ねても、
クイナは下を向く。
ルービィに頼んでいた学校は、
来年の開校に向けて準備を進めていた。
この街の学校は
兵学や馬術を習わせる為に、
上流階級や貴族の男しか通えない。
貴族の娘であれば家庭教師を雇い
教養を身に付けられるけれど、
女が通える学校はこの街には存在しない。
新設する学校はすでに定員に達してしまい、
他は孤児院の子供達で席が埋まっている。
「孤児院からはノーラというひとに憧れて、
夜の館に来る子がほとんどですよね。」
ムネモスの言葉にわたしも首を縦に振った。
「ドレイプにはなりたくない…。
美貌も叡智もわたしには無いし…。」
「美貌と叡智は必要ないわよ。」
「姉様がそれを言いますか?」
疑問を口にしたムネモスに、
わたしとクイナは異なる考えで首肯すると
ムネモスはえくぼを作った。
「それでも孤児院を出たかったのよ。」
「嘘をつかないのは
フランジの戒めですね。」
「クイナは素直でいいわね。
そんなことで館を
追い出したりはしないから、
不安がらなくてもいいわよ。
それにムネモスだって
ドレイプにはならないのよ。」
「姉様もですよね。」
わたしは首を縦に振る。
「わたしはもうドレイプよ?
誰にも買うことのできないドレイプ。
ムネモスは誰にも買うことのできない
フランジだもの、肩書きも違うわね。」
「否定するんでしたら、
どうして頷くのでしょうか。」
勉強会で王女がしたことを真似すると、
ムネモスに指摘されて笑ってしまった。
◆
「でも、わたしが一番幼いのよ。」
「クイナがドレイプになるのは、
法律上5年も先の話よ。
時間を超えて年上にはなれないし、
肌を重ねる相手ができなくて
今から悩んでも仕方がないことよね。」
「違うのよ。」
首を横に振って赤い髪を振り回す。
「ドレイプは16歳でなければ
ドレイプにはなれないけれど、
フランジの年齢に制限はないもの。
レナは10歳まで館に居て、
ドレイプとしてずっと働いていたのよ?
選考会でクイナを選んだ時は、
ルービィも不満を見せてたわ。」
「どのように説得なさったのですか?」
フランジにするには身体的に幼く、
クイナの選考は春ではなく
今の時期になったのには事情がある。
去年と春の選考会に参加して
眼識に一定の評価を得たことで、
ルービィからの信用と信頼に繋がった。
「年齢を理由に賢い子を後回しにしたら、
銀行屋が先に引き抜くのよ。
ルービィはマイダスに
対抗心を抱いてるもの。」
ルービィにとっては、
それがなにより許せないらしい。
「姉様はファウナが言っていた通り
人誑しですね。」
「人聞きが悪いわね。」
それを聞いてクイナが笑いを堪えていた。
「クイナはなにか目標がありますか?
競馬場の騎手になりたいとか?」
「それはムネモスが
やってみたいことでしょ?」
「ふふふ…。
姉様はわたしのことを、
なんでもお見通しなんですね…。」
ムネモスは馬のことばかり言い、
部屋で一緒に過ごしている為に
考えが読みやすい。
「レナみたいに幼い頃から
ドレイプや画工という目標を定めて、
行動できる子の方が珍しいわよ。
天秤で軽重を比べて卑下しても、
得られるものはないわ。」
「他人を傷つけて名前を奪ったところで、
他人にはなれませんからね。」
ムネモスの言葉に、トリンを思い出す。
ネルタの王女に成り代わろうとしたトリンは
奪う以外の手段を選ばなかった。
――クイナはどう考えているのかしら。
去年に選ばれたはずの、
トリンの居なくなった娼館。
わたしはトリンに混乱と欲望を与え、
彼女は館を去ることになった。
聡いクイナであれば、知らないはずはない。
――クイナを館に入れたのは、
トリンに対する償いなのかしら…。
彼女をフランジにしたことで、
サンスァラ王女の行動を考えさせられた。
「わたしはなにをすればいいの?」
「それは難しい質問ですね。」
「クイナの疑問はクイナが自分で、
生涯を賭けて答えを模索するものよ。」
「私もまだ見つけられません。
姉様は見つけたのですか?」
ムネモスが訊ねることでクイナを助ける。
わたしもその答えに至ってはいない。
「周囲の良いところを見て学び、
自分に取り入れるのよ。
誰かの模倣でもいいし、
わたしを戒めにするのもいいわね。
明日の自分を想像して、
今日の自分を誇れる行動をするの。」
以前に王女が使った他人の言葉でも、
クイナはわたしの目を見て頷いた。
「それにここの勉強会は、
学校みたいに学ばせる目的ではなくて、
選べるようにする目的で教えてるの。」
「選ぶ…?」
「自主性の育成ですね。」
勉強会で教える立場のムネモスが、
より難しい言葉を使って混乱させる。
「大陸語が読めなければ、
大陸の本を手にしないでしょう。
それは選べないのと同じ。」
大陸語の本を読めるクイナは、
例え話でも否定はしない。
大陸の言語も一つだけではない。
ドレイプやフランジの中には
島の文字に近い、エンカーンさえ
読めないひとも多くいる。
「わたしはムネモスやクイナに、
選べることが普通なんだって
知って欲しいの。」
カヴァのオルドラスとの会談を通じ、
わたしが理解したこと。
サンスァラ王女がわたしに教えてくれた。
「知識が無ければ、
食べられる食材かどうかも
分かりませんものね。」
「お料理がどうやって作られるか、
クイナは明確に答えられるかしら?
ムネモスは言えるわよね。」
クイナが首を捻って、
無言のままムネモスに訊ねた。
「まずは食材の調達をして、
下準備が大切ですね。
食材を扱うひともお料理を食べるひとも、
どちらも必ず手を洗いましょうね。
野菜の泥は清潔な水で洗い落とします。
食べるひとの量を計算してから
食材を用意しましょう。
火加減も重要ですね。
お肉の生煮え・生焼けは
食中毒の原因になります。
調味料は感覚、経験が大切ですよ。
それから味付け、味の調整を行います。
味見はお料理には欠かせません。
味見をして、問題がなければ完成です。
お味はいかがですか?」
テーブルに向かって両手を広げて見せる
ムネモスの前には、ジャムとお菓子しか
置かれていない。
――こうして館に居るわたしは、
お料理の味見役になるのね。
「味覚を培い、標準を持つ。
いまのは科学の5段階法と同じね。
見て、予想して、仮定を置き、
証拠立て、その事実を示す。」
右手の中指と母指を立てて示す。
「人類の科学の原点は、
お料理にあるのよ。」
「初めて聞きました。」
クイナに伝える為に分かりやすく、
尤もらしい言葉を並べてみると、
驚いたのはムネモスの方だった。
「…その調べる力を
この館で身に付けるの。
勉強は答えを知ることが重要ではなくて、
答えを導き出す方法を得る為ね。」
わたしはそれをこの館で教わった。
教わった時間はとても短かった。
「わたし達は、
まだ知らないことが多くあるもの。」
クイナはまた俯いて、黙ったまま頷いた。
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