第12章 第2節 意思の源(第3項)
わたしは左手の羽根ペンを置き、
署名し終えた権利書を眺める。
権利書の署名はサンサの字の模写は、
彼女の残した劇場の権利書の署名と
一致するまでに上達した。
ルービィがいくつも持つ資産の
分割協議書に署名する必要があり、
わたしは今日彼女の館に呼び出された。
夜の館、暮相の館、病院の本館、
農場と工場、新設する学校を所有していて、
軽い羽根ペンでも同じ文字を何度も書くと
持つ手が凝って疲れてしまう。
レデやジールの姉妹や
セセラみたいな将来有望なドレイプが、
権利を有するべきだとも意見した。
「これでわたしが死んでも、
権利はメノーとあなたのものになるわ。」
「死なれては後悔させられないわね。」
「あなただからいいのよ。
レデやジールは
他人のものを欲しがらないし、
でもミュパでは不安でしょう?
サンサは資産を持つことを嫌がったもの。
スーの持ってた劇場が良い例よ。
戯曲や役者、客席の確保、
施設の整備やら、権利以外にも
やることは多いものねぇ。」
「痛感してるわ。」
サンスァラ王女が押し付けた劇場は、
次の収穫祭に向けて夏のいまから、
膨大な準備に追われている。
「メノーなんて運営資金を託したら、
病院の別館に使ったのよ。」
「…わたしも同じにならないように、
気をつけるわ。」
ソファで重なるメノーとミティスが、
揃って寝息を立てはじめた。
「この前アイリアがここに来た時に、
レナタを養子に迎え入れようとして
断られたって嘆いてたのよ。」
「わたしも聞いたわ。
レナは夜の館が好きなのね。」
「良い子に育ったわねぇ。
で、マルフといえば、
あなたを迎えようとしてるのよ。」
「わたしを?」
「先に断っておいたわ。
スーと同じで女が総督を継いだって、
元老院や外からの反発もあるものねぇ。
議長を飼い慣らせるあなたなら、
良くやってくれるでしょうけれど。」
「人聞きが悪いわね。
まだ、そこまではしてないわよ。」
議長のエイワズはサンサを訪ねて
わたしに会いに来るお客さんで、
夏になると来館しなくなった。
洞窟港の港長だったドレンが病死した為、
エイワズは貴族病の治療で入院していた。
メノーの代わりにわたしが病院に行くと、
患者に立場を変えたエイワズのせいで
主客転倒な状態に変わってしまった。
エイワズが資産を売却して
夜の館に送ってきた多大な金額は、、
彼の治療費に補填しておいた。
「マルフで思い出したわ。
サンスァラ王女から預かってる本を
持ってきたのよ。」
鞄の中から厚い本を取り出して見せた。
濃い褐色に染められた背表紙には、
鎖が取り付けられていた穴がある。
「なぁに?」
本を開いてルービィ気付く。
「あら大陸語だわ、これ。
読むの大変ねぇ。
ここ、なんて書いてあるの?」
「ネルタの正統記よ。」
ルービィは目を見開いて息を吐く。
本来はネルタの城の書庫にあって、
鎖を付けて持ち出しの出来ない本は、
城と共に焼かれるはずだった。
「あぁ、教義が書かれてるっていう本ねぇ。
祖母が昔に読んだって言ってたから、
それで試しに読んでみたかったのよ。
あの子が探してくれてたの。
ニクスは読んだのよねぇ?
どんな内容なのかしら。」
「エンカーンで書かれていても
難しい言い回しをしているだけの、
ただの猥本ね。」
ルービィはまた目を見開いて驚いている。
「猥本…。え、猥本なの?
ネルタの教義本なのよね?」
「元は『感情論』っていう、
人間の感情について体系化した
大陸の専門書なのよ。」
「感情? それが猥本に?」
「感情論を偽った本だもの。
この本は淫事…、
肉体の支配を目的にしていて、
思想で正当化する為の内容ね。」
「まぁ。」
わたしがネルタの塔で見た本は、
大陸語の感情論ではなく
この正統記だった。
「わたしも読み終えて、
最初は意味が理解できなかったわ。
大陸語の難解な言い回しを用いて、
相手の主体性を奪って
教義を示す本だもの。」
イオスが眠っているサーブラスを舐め、
毛繕いをしてあげながら耳を囓り、
その食感を確かめている。
「月の女神の神殿を知ってから、
それが理解できたのよ。」
「月の女神って、セリーニの神殿よね?」
孤児院から北の川向こうにある神殿では、
娼婦達が自分の産んだ子を育てられず、
『黄金の祝福』を与える場所になっていた。
「自分の子を神殿で殺したり、
奴隷商に売って生活する親が居る。
親は子供を利用できても、
子供には親を選ぶ権利が与えられない。
また産み直せば済むと考える。
それが無産街では普通なのよね。」
ルービィは踟いがちに頷く。
「資産を持つ裕福な人間でなければ、
子供を育てることは難しい。
わたしは産んであげられなかったけれど。
貧しい女達はユヴィルの所有物として
扱われていったわね。」
「それと同じで、
この本は相手を道具にするのよ。
親子間で欲を満たす目的で、または
快楽や動物的な興奮を得る為だけに
教義を唱え、相手を支配する。」
「それで猥本なのね。」
王女が勧めた俗な本のおかげで、
この本への理解が深まった。
「他にも躾と称した暴力であったり、
食事を制限して働かせ、睡眠を妨げるの。
思考の余裕を奪い、相手を拘束したり、
依存させれば、崇めさせたりできるわ。
この本は大陸語で醜い企みを覆い隠し、
教義として鍍金をすることで、
高尚なものに見せかけている。」
ルービィは中身を読みもせずに紙を捲る。
「欲を理解する学術の本を改竄し、
欲に支配された結果、国が滅んだわね。」
「祖母達がネルタを離れた理由が、
良く分かったわ。
これ、なにかしら?」
本の末尾は糸で綴じられ、
中身を見ることができない。
「これはルービィのものだから、
わたしは見てないわ。」
「わたしの為に見るしかないわね。」
ルービィはいたずらっぽい笑顔を見せる。
彼女は握り鋏を摘んで糸を断ち、
赤色の糸を引っ張り出した。
見ていると、わたしの右腕が痒くなった。
「家系図ねぇ。
これなら読めるわよ。
わたし達の家の、
ナルキア族の名前もあるわ。」
「ナルキアというのは、
大陸の家名が由来なのよね。」
「海賊の末裔なんだから、
名も無き者の家名よねぇ。
許可なく勝手に湖に住み着いて、
獲った魚から魚油を作って、
売っていた無法者達よ。
祖先の恥ずべき歴史であって、
誇ったり偉ぶるものではないわねぇ。」
子育てに疲れて眠るサーブラスの、
安眠を妨げるイオスを抱き上げる。
「ネルタには湖周辺の禁足地を占領した
ネルタ族とソーマ族よりも昔に、
分水街と魚油で交易のあったナルキア族、
わたしの祖母達が住んでいた。
ネルタ族とソーマ族が、
『括れ』に建造していた橋が崩壊して、
ナルキアの民衆は住処を追われたのよ。」
「壊れたのはダムと聞いたわ。」
司書をしていたゴレムが言っていた。
「広く深い湖の括れに、
ダムなんて建てないわよ。
試作していた浮き橋が
雪解け水による増水で崩壊したから、
建設技術の低さを偽ったのね。
…20年以上も昔になるわ。
亡命から3年後には
第1次革命が起きたのよねぇ。」
ネルタでは一連の事件を靄で覆う為に、
湖から溢れ出た水と呼んだ。
塔で水車を見なかったのは、
ネルタの技術不足という単純な理由だった。
「ネルタの歴史も浅いのよね。」
「革命でほとんどが断絶してるわ。
最後はソーマ・ハス・ラクガン
ってあるわね。」
――大陸の言い難い名前だわ。
「東に住んでいたのソーマ族って
ソーマの子孫なのかしら?」
「ソーマの子孫を名乗ってるひとは、
島には多く居るものねぇ。
過去にエルテルやメルセ、
オーブまで同じように言ってたわ。
誰も証明できないわよ。」
「子孫は多いのよね。
書室にソーマの裁判の記録もあったわ。」
劇でも燭台を持ったメルセ領のソーマは、
不貞を働いて客席を笑わせていた。
「ここにはナルキック族も、
入ってるわねぇ。
ナルキア族の分家ね。」
「ナルキック・ゴレム…。
司書の彼も?」
塔に独りで暮らしていたわたしに、
勉強を教えてくれた司書官ゴレム。
「司書をしてたのねぇ。
それならこれを書いたのは彼かしら。
ニクスの名前もここにあるわ。
ゴレムの娘が、あなたの母なのねぇ。
ナルキック・カティア。」
「カティア…。」
わたしは初めて、
自分の母の名前を知った。
塔で15年近くを過ごしたわたしは、
母の顔も名前も知らされずに生きてきた。
わたしを育てた乳母達の中に、
カティアという名前の女の記憶は無かった。
母のカティアは、王のケイロウが
父になることを認めなかった。
それでもカティアの父のゴレムは
落胤のわたしを政略の道具に利用し、
ナルキック族の手札として塔に隔離した。
ゴレムはケイロウと対立の末に殺され、
カヴァに滅ぼされたネルタ王族の中で
わたしだけが生き残った。
「ゴレムの子供がカティアと息子のカパネ、
カパネの娘にトリンってあるわ。
あの子ってナルキック族なのねぇ。」
「トリンはこの本を探していたのね…。」
この正統記を持って盗賊に身を窶した貴族、
トリンの父、カパネはわたしの伯父だった。
裁判記録を読んでも、
家系まではわからなかった。
自分の出自を知って、
わたしの頭の中に残った
灰色の靄が晴れていくのを感じた。
食料貯蔵室で過ごした下女達の、
噂の記憶が蘇る。
下女達が先代総督のハミウスによって
ネルタに売られていたことを、
トリンは知らなかった。
分水街から連れてこられた孤児達は、
ネルタの貴族達に孕まされ、
地下の食料貯蔵室に入れられた。
カヴァの軍の勝利で地上に連れ出された
ネルタの王、ケイロウの肥え太った姿に
わたしは最悪の想像を避けた。
『鍍金の悪食共の食事に比べれば、
粗餐ではあるな。』
わたしは識ることを畏れた。
若くして妊娠した正統な王女のラミーが、
地下での暮らしを強いられて怒り、
泣き続けていたその胸中は複雑だった。
「この本があれば、
あなたは自分の出自を証明できるわね。」
ルービィは本を閉じ、わたしに差し出した。
「ニクス、これはあなたが持つべき本ね。」
「ルービィが探してたんでしょう?」
「わたし達が去った後の教義という本が、
どんなものか知りたかったのよ。
祖母達が土地を捨ててでも
逃げる程の浅い歴史なんだから、
わたしにとっても必要ないわねぇ。」
「それなら、この本は燃やしましょう。」
「あら? いいの?」
ルービィの顔を見て、
わたしはその理由を告げる。
「ネルタ族の末裔を騙る人間が出てきて、
偽者だと証明できる本があっては
ルービィも困るでしょう?」
出自を示す本が原因で戦争が起きると、
好物のダギラも価格が高騰してしまい、
入手が困難になる。
「…未練は無いのね?」
わたしはルービィの問いに、
本の装丁を指先で小突いて言ってみせる。
「夜の館がわたしのお城だもの。」
「それ、わたしの真似かしら。」
「わたしのいまの名前はサンサよ。」
王女はよくルービィの真似をしていた。
彼女は呆れて溜め息を吐くので、
わたしは笑って本を暖炉の中に置いた。
手燭を握って燭台の火を
暖炉脇のコットンから薪に移した。
しばらく薪の火に当てると、
羊皮紙は炎の熱で収縮して燃え上がる。
サーブラスが起きて暖炉に近付き、
わたしの太腿に前足を乗せる。
胸元で妬いたイオスが、
前足で叩いてサーブラスを叱った。
「獣は火を畏れ、愚者は炎を崇める。
この街ではこう言うのよね。」
「南部では賢者は炎を操るとも言うわよ。」
「ネルタだけではなくて?」
「銅細工で盛んなカヴァから
伝わった言葉なのよ。
硬貨を偽造してたオーブでも、
銀行屋なんかが使ってたわねぇ。」
「なんか焼いてるの?」
起きたメノーが寝惚けて呟くと、
ミティスが目覚めて憤り始た。
「サンサが火を操ったのよ。」
「サンサぁ?
あぁ、サンサね。
はい。次はサンサの番よ。」
「わたし?」
イオスを再び床に降ろし、
ミティスを抱き上げて顔を見ても、
言葉も発せず、言葉も理解できない相手。
断続的に細かな泣き声を出されると、
わたしは困ることしかできない。
「頭を痒がってるのよ。」
ミティスの背中と臀部を支え、
メノーの助言に従って赤い髪の頭を撫でた。
「ねぇ、見て。」と、メノー。
頭を撫でられてミティスは喜ぶ。
「分かってきたわねぇ。」と、ルービィ。
「わたしなんて、
ミティスが憤る前から気付いていたわ。」
二人のやり取りを無視して、
わたしはミティスの黒色の目を見つめる。
「あぁ。分かったわ。
これが王女の言ってた
思考の起源なのね。」
言葉でも文字でもない考えが、
異なる生物達のあいだに存在していた。
「源流?」
ルービィがわたしの言葉に首を捻る。
「命は生まれ育って、変化して死ぬ。
生命も言葉も同じ源流にあるって。
イオス。ここにおいで。」
片膝を前に出すと、
イオスがわたしに乗ってくる。
左腕にミティスを抱き、
右腕のイオスと向かい合わせた。
「分かるかしら?」
イオスは淡青色の目でミティスを見つめる。
ミティスも朧気にイオスを見つめた。
言葉も文字も持たない二人。
ミティスが口を縦や横に開けて、
イオスになにかを呼び掛けている。
イオスも瞳孔を開いて、読み取ろうとした。
「ぇーぉー…。」ミティスが口を開く。
意識された発音を耳にした
ルービィとメノーも口を開け、
同じ顔をして驚いている。
「重たいわ…。」
わたしの腕が震えて耐えられず、
ミティスをルービィに預けた。
「ありがと…。助かったわ。」
「イオスを上手に操るわねぇ。」
「わたしが足を前に出した時に、
登って良いことにしてるのよ。」
「それが思考の起源?
でも本当にサンサみたいな考えねぇ。」
「サンサなのよ。」
彼女達は言って笑った。
するとルービィの腕の中で、
ミティスが笑う真似をしたので
また二人を驚かせた。
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