第12章 第2節 意思の源(第2項)
ハーフガンを囮にして毛玉達とは庭で別れ、
ドロシアに奥の応接室へと案内された。
子犬達の細い遠吠えと、
それを躾ける男の太い声が微かに聞こえる。
煉瓦暖炉の上の燭台が灯り、
反対側の壁には姿見が備え付けられている。
館の書室には無い経済や金融の専門書が
棚から溢れていた。
テーブルの上の、
ガラスの器に積まれている
薄黄色のダギラを見つけた。
拳よりも大きく丸いその実は、
淡白な味と変わった食感が特徴で、
わたしだけでなくイオスも好物にしている。
イオスはテーブルに飛び乗って
果実に頬を擦り付けると、
わたしに向かって普段使わない
高い声で鳴いて媚びてみせる。
「浅ましいわよ、イオス。サーブラスも。」
サーブラスが前足を踏み鳴らし、
尻尾を振って落ち着きなく見上げている。
わたしがイオスから目を離したせいで、
器から零れてテーブルを落ちたダギラが
サーブラスの頭に当たった。
床に落ちた果実にサーブラスが囓り付くと、
イオスはテーブルを飛び降り、怒り、叩き、
鳴き続けるので抱いて引き離す。
「こら。」
サーブラスは、その太い牙で果肉を割り、
荒々しい音で咀嚼し、瑞々しい果汁と
唾液を床に散らす。
「サーブラスまで…。
ドロシア、ごめんなさい。」
「いいわよ。それくらい。
ニクスも食べたければ、
そこのナイフを使って。
ルービィッ! メノー。
お客さんが来たわよぉ。
ニクス、大変だから後は頼むわね。」
「えぇ…?」
ドロシアは二人を呼び出し、
わたしを置いて厨房に行った。
呼ばれて応接室のさらに奥から、
寝惚け眼のメノーとルービィ、
赤子のミティスが母に抱かれてやってきた。
二人は寝起きのせいか
肩や膝に力が無く、
虚ろな目でわたしを見る。
「…二人共、大丈夫?」
「ミティスがあなたに似て
勝手気ままなせいよ。」
「おばあに似て頑固なのよ。ねぇ。」
「それならドロシアのせいにしなさいよ。」
互いの欠点を論うも、
言い争う気力も枯渇していて、
二人はそれぞれ革のソファで横臥する。
「ニクス。ちょっとお願い。」
「待って。」
鞄とイオスを床に置き、
薄手のチュニックを着たミティスを
横抱きにする。
イオスはサーブラスの口吻を叩くと、
唸り声を放ってダギラに噛みつきはじめた。
ダギラを奪われたサーブラスが、
不満を目で訴えてきた。
――わたしはいま、それどころではないの。
腕の中のミティスの重さや大きさは、
もうイオスを越えていた。
頭には赤い髪が繁茂し、
黒い目でわたしを見てくる。
首は据わっていて、
背を立てて抱いても
取り上げた時ほどの危うさは感じない。
背中を支える手を一瞬だけ緩めると、
ミティスは後ろに倒れかける。
すると反射的に両手を広げ、
身体が自分の危険を感知して目を開いた。
唇を弾ませ、手足を擬かしく動かす。
まだ視力の弱いミティスが、
わたしの胸を叩いたり蹴ることで、
感触や反応から相手を確かめている。
身体を抱き寄せれば、落ち着きを見せた。
ミティスから柔らかな匂いに、
汗と花の香りが混ざる。
ミティスの胸に耳を当て、
呼吸と心音を聴く。
力強い拍動で気になる問題も無く、
わたしの髪に触れて戯れている。
「久しぶり。元気そうね。ミティス。」
ミティスに向かい、
単語を区切って話し掛ける。
「わたしのこと、覚えてるかしら。」
わたしが声を掛けると、目を見開き、
メノー達家族との差を認識する。
「抱いてあげないと憤るのよ。」
「昔使ってた揺り籠を出したのにねぇ。」
「わたしちょっと寝るねぇ。」
「いまはメノーの番でしょ?」
「わたしが先にニクスを呼んだんでしょ。」
「勝手気ままよねぇ。」
ソファで横臥したままのルービィが、
ミティスに呼び掛けるみたいに
声を高くして言う。
赤子の居ない揺り籠が、
ルービィの手で虚しく揺らされる。
「病院はどう?」と、メノーが訊ねる。
「風邪はもう落ち着いてるわ。
でも食中毒が増えているの。
暑くなってきたから。」
メノーが所有している病院の施設は、
彼女が育児に取り組むあいだ
わたしが代理を任されていた。
「食材が腐りやすい時期だもの。
口布、洗浄、隔離は忘れずにねぇ。」
「徹底しているわよ。
病院を見て、
館の仕事の大変さを改めて実感したわ。
洗浄と乾燥が重要になるから、
フルリーンの居た工房に
機械を相談してみようかと思うの。」
わたしは劇場で行う戯曲を練る傍ら、
頭の中で扇風機の改良を繰り返している。
――空気を循環させるだけの
回転運動だけなら、
研削盤でも良いかもしれない。
「館を工房にする気?
あなたまであの子みたいに、
おかしなことに傾倒しないでよ。」
「改善できる箇所は、
すぐに取り組んでいいわよ。
お金が必要なら、
わたしの口座を使って。」
「わたしを頼りなさいよ。」
「えぇ~? だってぇ出資者って、
絶対に口を挟んでくるんだもの。」
メノー達がそんな話をしていると
ミティスが一瞬、動きを止めて
囀りもせずに天井を見つめる。
わたしも天井を見て鼻を上げると、
ミティスから仄かな臭気が放たれる。
「あっ、ミティスが粗相してるわ。」
「あら? さっき換えたばかりよ?」
ルービィが声を放ち、
抱えるミティスの臀部に
鼻を近付けてそれを認めた。
「よく気付いたわねぇ。メノーの番よ。」
ルービィが意地悪な笑顔を見せる。
「またわたしぃ?
知恵の神ではなくて、
豊穣の神かもしれないわ。
ニクス、おむつ変えてぇ。」
「浅ましいこと言ってないで、
早く変えてきなさい。」
「館でも見たことないくらい
疲れてるわね。」
メノーがミティスを抱えて
奥の部屋に行った。
ミティスがベッドに降ろされた為、
大声で泣きだした。
サーブラスが対抗して鳴こうとしたので、
わたしは口吻を抑えた。
ダギラに夢中のイオスは
耳を倒して唸っている。
◆
「元気ねぇ。」
部屋に入ってきたドロシアが、
トレイにジュースとお菓子を載せて言った。
わたしはナイフでダギラの皮を剥き、
イオスとサーブラスの順に与える。
イオスは序列さえ守れば、
サーブラスを妬いて叩いたりはしない。
「騒がしいでしょう?」
「小鳥達が囀らない分、
館に比べたら静かで心地良いくらいよ。」
「それなら子守りでもしてみる?
ルービィ、
ミティスを館に預けてみたら?」
「学びの機会になるわね。」
わたしも喜んでみせた。
「ミティスは教材ではないわっ。
レナタの頃でもないのだから
そんなことさせないわよ。」
テーブルに変わったお菓子が置かれた。
白色とやや赤黒く艶のある、
質素な二つの立方体。
「ゼラチンかしら。
見たことのないお菓子だわ。」
「ゼラチンを熱湯で溶かして、
豆と砂糖を一緒に熾火で煮てから、
濾して固めたお菓子よ。
地下水で冷やせば完成。
昔は南部で、冬の保存食として
作られてたものみたいよ。」
「これって南部のお菓子なのね。
冷た…甘い。」
一口大の赤黒いゼラチン塊を、
さらにスプーンで割って口に入れる。
冷たさと滑らかさの後に、
噛めば舌の上で溶けて
粘性のある濃厚な甘さが頬に広がった。
前にアイリアの用意してくれた、
ダギラをゼラチンで包んだお菓子とは違い、
砂糖の甘味が口の中にしばらく残る。
イオスがピンクの鼻を近付けて狙いを定め、
わたしはそれを手のひらで押し戻した。
好物のダギラのお菓子と勘違いしている。
白いゼラチン塊の方は粘性が気持ち少なく、
甘さも控えめで違いが楽しめる。
「夏は地下水で冷やすと、
不思議とおいしいのよねぇ。
暑くて食欲がなくても、
これだけは喉を通るわ。」
「サンサが来るからって、
ルービィが頼んできたのよ。
これ作るの大変なのよぉ。」
「ありがと、ドロシア。ルービィ。」
わたしは二人に感謝し、頭を下げた。
「とても深みがあっておいしいわ。
後でレシピを教えて欲しいくらいよ。
お菓子大全には載ってないから、
ムネモスとデーンも作りたがるわね。」
「ええ。いいわよ。
おいしく食べてくれたなら、
わたしの苦労も報われるわねぇ。
でもこれは
館の子には与えてはいけないのよ。
ねぇ、ルービィ。」
ドロシアの言葉に頷くルービィ。
「砂糖が口に残って、
歯磨きしないといけないものね。」
「メノーにもあげてくるわねぇ。」
「ミティスには食べさせないでよ。」
「分かってるわよ。」
ドロシアは手を振り、
奥の部屋に入っていった。
「わたしの館は、
また荒れたりしていないかしら?」
「問題ないわよ。
悪い虫も寄り付かなくなったもの。」
「悪い虫?」
ルービィの復唱にわたしは首を縦に振る。
メルセの領主、ペタリオが春に急逝し、
洞窟港では港長のドレンが病死するなど、
島の北部では悪い虫が蠢いていた。
「夜の館はムネモスが
厳しく目を向けてるわ。
エリク卿の娘は
フランジの規範になって、
館をまとめてくれているわ。」
わたしを館に居させてくれたルービィには
いくつも礼がある。
「例の、わたしが提案した件、
許可してくれてありがと。
画工のニクスはもう取り組んでるのよ。」
レナタはいま、
夜の館に飾る壁画を作っている。
わたしはレナタに名前を譲り、
彼女は銘をニクスにして
画工としての活動を始めた。
「前のサンサもねぇ、
同じ提案をしてきたのよ。」
「えぇ。
あれは元はスーが冗談で言ったのよ。」
「懐かしいわねぇ、スー。
いまごろなにをしているのかしら。
ノーラと同じで高かったのよ、
あの子も。」
収穫祭の日に観劇をして、
月明かりの眩しかった夜に
スーは館を去った。
わたしは一度瞬きをし、
ルービィへの報告を続けた。
「暮相の館も、レデとジールの姉妹が
指導してくれてるから安心よ。
戒めのミュパは別にして。」
そんな報告にルービィが笑った。
「あははっ。違うわよ。
あの姉妹二人は、
他人に厳しいからミュパが居るのよ。」
「…そんな狙いがあったの?」
ルービィは深く頷く。
「昔の…わたしとサンサみたいにねぇ。」
「サンサはあれで、怠け者なのよね。」
倉庫と化した頃の書室の前例があっても、
わたしの言葉にルービィは首を横に振った。
「逆よ、逆。
わたしはとても怠け者だったのよねぇ。
サンサがミュパに『戒め』
なんて二つ名を付けたのは、
わたしへの当てつけなのよ。
サンサはとても厳しくドレイプ、
その頃は娼婦ねぇ。
彼女達を教育してたわ。
そのおかげか、館で働く子達はみんな
わたしを支えてくれたのかもねぇ。
わたしはいつも
あの子に叱られてたのよ。」
「それは、想像がつかないわ。」
ルービィは苦笑いを浮かべた。
王女についてのルービィの認識が、
ムネモスとサラシュの時と同じく
わたしとはまるで違った。
「わたしも言われ放題だったから、
サンサには厨房への立ち入りを
禁止したのよ。
あの子は朝から妙なものを
食べられないくらい作らせて、
ドレイプを太らせてしまうもの。」
「その犠牲者がヤゴウなのね。
他には、なにをやらかしたの?」
「当時の総督に取り入って、
娼婦ではなくドレイプを名乗り始めたわ。
あの子は街に多額の税を納めたのよ。
娼婦達に身分証と
特別な階級を与える為だけに。
街娼との差別化ができて、
結果としてはそれが良かったのねぇ。
ゴミ屋…あぁ、マルフのような
無産街の紐無しも懐柔したわね。
エルテルのベリー夫人に頼んで、
娼婦なんかが生涯着られるはずのない、
質の良い服まで用意していたわね。
娼婦に服なんてとは思ったけれど、
みんなとても喜んでいたわ。
サンサはそれをいつも静かに見てるの。
狭い娼館での暮らしなんて、
あの子にとっては退屈だったんでしょう。
孤児院でも勉強会を開いていたわ。
暮相の館の頃ね。」
「赤土の丘に、この館が建つ前の娼館ね。」
孤児院の勉強会の話で、
さらに一つ礼を言わなければいけない。
「学校の件も、ありがとう。」
「そんなに大したことではないわよ。
いまの暮相の館や、
本の収益の税金対策になったもの。
おかげで篤志家なんて
呼ばれてしまったわねぇ。」
「でも、わたしのお給金から、
学校の費用に充てる予定だったわよね?」
「お客さんの取れないあなたで賄えるほど、
学校の設立は安い費用でもないわよ。」
建設費用や運営の維持費を考えれば
わたしはもっと元老院議員達との
会談の機会を増やさなければいけない。
「不満があるのなら
銀行屋でも議長でもいいから、
絞れるだけ搾り取ってから言いなさい。」
オーナーだけあって手厳しい。
銀行屋のミカはまだ子供なので、
わたしのお客さんに加えることもできない。
「前の議長のエイワズは難しいわね。
顧客の開拓は
またサラにでも頼もうかしら。」
「サラシュ王女がソックスを
流行させたから工場は大忙しよ。」
街を歩く若い女達は、
サラシュを真似してソックスを履き始めた。
裾の長いキャシュクは
貴族のあいだで広まっていたもので、
ソフィやサラシュはこれで脚線を見せる。
いまは中流階級にも定着していても、
素肌のままの膝や太腿を
露出するのは抵抗があった。
すると大胆な若い女達は
年長者達から差別化を図る為、
裾の短いキャシュクを着始めた。
自分の脚線の美しさを披露して
他人との差別化を図り、男を魅了する為に。
足を出しつつ露出を控えられる、
ソックスが注目を浴び、
需要が急速に高まった。
新奇性が受け入れられ、
生産が追いつかないほどだった。
娼婦のような格好でも気にしない、
若い女達の考えと行動は理解できない。
サンスァラ王女の言った通り、
群集の行動は誰にも分からなかった。
「孤児に借金を背負わせて、
学校に通わせるなんて悪賢いこと
よく考えついたものね。」
「借金はものの例えよ。
孤児院への援助金と考えは同じ。
出資したお金の分が、
彼女達に価値を与えるのよ。」
わたしはそれに付け加える。
「彼女達に出資した金額は、
明確な指標にもなるわ。
文字の読み書きや計算くらいは
身に付けて欲しいから。
これからは身分や階級に関係なく、
個人や集団の能力が評価される時代に
なってくるわ。」
ルービィが何度も頷く。
なにも持たず、知らずに生きてきたひとは、
この街では力と欲だけが評価の標準になり、
ユヴィルのような連中に利用されてしまう。
男と異なって体力や地位すら持てない女は、
知識が無ければ選べる手札は限定される。
「銀行屋よりも先に仕掛けられるものねぇ。
サンサが昔、女の学校を作る
なんて言ってたわ。
当時はサンサ以外に誰も教えられなくて、
お金も場所も無いから諦めたのよねぇ。」
「王女は難しい言葉を選ぶものね。」
「サンサの勉強会なんて、
いつも本を読んで終わりよ。」
ミティスを抱いたメノーが
部屋に戻ってきた。
小さな背中を腰から肩へと撫で、
げっぷを促している。
ドロシアは深く頭を下げ、
使用人を真似て静かに応接室を出る。
彼女が指示した足元では、
ダギラを食べ終えたサーブラスが、
暖炉の前で丸くなって寝る体勢を取る。
イオスがその上に座り、
前足で何度もお腹を踏んで揉み始た。
わたしはサンスァラ王女の勉強会を、
見たことがないので不思議に思った。
「王女の勉強会って、そんなに適当なの?」
「勉強は個人の精励次第だもの。
身に付く子も居れば、
勉強しない子も居たわねぇ。
不得意を自覚しているミュパはあれで、
レデやジールに負けないくらいに
勉強熱心なのよ。
分からない部分があれば、
あのひとは昼夜を問わず教えてくれたわ。
それで皆、自分から
勉強するようになったのよねぇ。」
ルービィもまた深く頷く。
「当時の総督がその評判を聞きつけたから、
あれでスーの家庭教師もやってたのよ。」
「あぁ、言ってたわね。
でも――。」
「せっかくの書室を、
ガラクタばかりの倉庫にする
物好きだものねぇ。」
メノーもソファに仰向けの状態で寝て、
浅い眠りに入るミティスを抱いている。
「レデやジールより、もっと前の…
ノーラの頃からあんな感じねぇ。
ノーラは買った時から優秀で、
他の子の模範になったわ。
ひとを見る目はあるのよねぇ。」
ルービィはわたしを見て言う。
「あなたを拾ってきた時は、
サンサは困ってたわねぇ。
あなたの扱いに悩んでいたのよ。
そしたら館を抜け出して、
そこの角でユヴィルの傭兵と
騒動を起こしてるのだもの。」
「ふふっ。」目を閉じたままメノーも笑う。
「スーより危うい子と思ったら、
彼女の比ではないわねぇ。」
「えぇ?
スーほどではないわよ?
…ないわよね?」
謙遜してみたものの、
比べられて嬉しいものでもなかった。
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