第12章 第1節 手掌の札(第2項)
「エイワズ議長は、
ネルタの湖を見たことはあるかしら?」
「いや。
防壁の向こうは禁足地だ。
浄水場の視察くらいしかないな。
煩わしいことにマルフなんぞの
許可が必要になる。」
無産街出身のマルフを相手に、
貴族のエイワズが頭を下げられず、
彼の矜持が妨げになっていた。
「ネルタの湖が最初に書かれた
大陸語の北部入植記録に、
こんな詩があるのよ。
『緑に覆われ、土豊かで、水清く、
鳥魚群れなすオルタの対。
この地において
ひとであることは、
神より賜りし罰である。
我が魂が訴える。』
自罰的な詩よね。
メーニェにある窪地の
オルタとは真逆の湖を見て、
ここからネルタと呼んだの。
禁足地と拡大解釈されたのは、
島で書かれた訳本の方ね。」
「その詩に残されるネルタの湖は、
実際に美しい場所でしたか?
見て来たのですよね。」
ムネモスの問いにわたしは
雪に覆われた曖昧な記憶を頼りにして、
疑問を抱きながら首を縦に振る。
「詩に書かれているような名所には
程遠いわね。
長年の戦争で木々を失って、
湖は流入した土で酷く濁っていたわ。
特に湖の北側は、
周辺が沼地になったままよ。
野生生物なら見かけたわね。
盗賊どころか野犬も多いから、
旅行にはお勧めしないわね。」
「報告には目を通した。
長きに亘る戦争の末に、
得るものがないとは嘆かわしい。
結果、カヴァは石臼を回したに過ぎん。」
資産家のエイワズは、
わたしとは別の所で憤っている。
テーブルの中心に埋められた青色のタイル、
分水街の中央を流れる川に沿い、
エイワズの座る南側に指を向ける。
「知っての通り、
この街に流れる生活水は
南の浄水場を経由しているわ。」
ムネモスにもわかるように説明を続ける。
「その水もほとんどは、
湖から溢れ出た水になるわね。
この街は水の確保を理由にして、
水源環境の保全活動という名目で
拠点を築くのが良いわね。」
「それは検討したが、条約に反する。」
「条約で不可侵が記されたのは
雷霆の起きた場所だもの。
禁足地とは、天蓋山の麓を示すの。
詩で表現していたネルタの湖は、
正確には禁足地ではないのよ。」
エイワズはマルフの報告で理解していても、
納得いかない様子でわたしの指を睨む。
「曖昧な条約は古くて形骸化していたから、
ネルタは長いあいだ占有できたのよ。
史料の記述を理由に
この街が権利を主張すれば、
カヴァや他領も抗議してくるでしょうね。
だからこそ他領他国からの協力を得て、
かれらの代理として拠点を築けば
なにも問題にはならないのよ。
禁足地を直接見てきた統治者達と、
新たな条約の協議も可能になるわね。
分水街の川は東西に分かれて、
カヴァやエルテルにも流れるのだから。」
――エイワズはもう
ヘッペの要望に従わないつもりかしら?
メルセ領と利害が一致しているのなら、
エイワズはわたしに意見を求めはしない。
「カヴァがその権利を主張するやもしれん。
ネルタに斃したのはやつらだ。」
「荒れ地に石碑を立てただけよ。
ネルタ復興を大義に掲げてはいないから、
その程度は些末な問題よね。
好きにさせてあげたらいいわよ。」
「なんだとっ?」
わたしの軽薄な意見に、
エイワズはまた眉間に皺を刻んだ。
「権利を主張しても、孤立しては
ネルタと同じ歴史を繰り返すだけだわ。
戦争は交渉の最終手段よ。
『勝つことだけが勝負ではない。』
という話ね。
カヴァもそんなことは
戦争で学習してるはずだわ。
石臼を回し続けるつもりがなければね。」
「ならばただ環境保全なんぞして、
我々のどこに利がある。」
彼の言い分も理解でき、
首を縦に振ってわたしの意見を述べた。
「湖の環境が戻れば、
おいしいお魚がまた食べられるわ。」
呆気に取られたエイワズは
しばらくの間を置き、吹き出して笑った。
この街では、
お魚を食べる習慣がほとんどない。
全てはネルタの妄動が端を発した
戦争が影響している。
海魚の塩辛い干物などは
洞窟港からエルテル領を経由するけれど、
この街に届く量は僅かしかない。
新鮮な海魚は流通量が少なく、
メルセ領やエルテル領の貴族が独占し、
日時計島の市場にはまず出回らない。
当然とても高価だった。
ネルタの塔で過ごした時のわたしは、
狩猟肉と共に湖のお魚も多く食べてきた。
「この街が主導して環境保全活動を行えば、
好きなだけお魚が食べられるわね。
魚油の料理も楽しめるのだから――。」
そんな考えがエイワズを笑わせた。
「どんなに高い地位や広大な農地、
多くの権利を持っていても、
退屈や欲求までは自分の力では
満たされないのよ。」
続けて言ってみても
エイワズの笑いは止まらず、
まるで耳に届いていない。
ムネモスも困惑している。
「女は夜とはよく言ったものだ。」
エイワズはわたしに告げて、また笑う。
――男は昼、女は夜。
男は真昼の太陽のように尊く、
女は夜暗に隠すべき卑しい存在。
「政治は女の遊び道具ではないから、
あなたにも笑われるのかしら?」
「いや、嘲笑したわけではないぞ。
確かにワシはサンサの言う通り、
権利や自分の利益に固執し過ぎておった。
男という生き物は名誉を求め、
日の当たる場所しか考えん。
明暗の差ばかり気にするのだ。」
エイワズの説明を理解して
わたしは首を縦に振った。
「だがお前のような女は、
夜であっても煌々と輝く。
女を抱くのは決まって夜だからな。」
エイワズは脂肪に埋もれた顎を突き出し、
撫でてわたしを見る。
「マルフの相手ばかりしおって腹立たしい。
どうだサンサよ。
ワシと寝てみる気はないか?」
エイワズが椅子を倒して立ち上がると、
膨れ上がった下腹部を揉む。
「わっ!」
ムネモスが驚いてわたしの方を向いた。
そんな生娘の反応もエイワズは喜んでいる。
太腿の上のイオスが
耳を倒して威嚇を始るので、
左手で頭を押さえつけた。
わたしは右手の示指の爪で、
庭に響くように天板を小突く。
「ワシの子を産んでくれ。
孕んだ子をワシの子と認めれば、
遺産も考えてやらんでもない。」
「あら、下品は禁止よ。
エイワズ議長は別室で
折檻されるのがお望みなのかしら?」
「別室ぅ? 館の隠語か。
そりゃ楽しみだ。」
ハーフガンがエイワズの肩を軽く叩いた。
「おぉんっ?」
わたしが日陰の庭で会談をする時は、
彼が後方の貯蔵室近くの階段で控えている。
「あなたは男だものね。
男同士なら孕むことはないから、
別室で安心して楽しみなさい。」
恐怖に縮む巨体が
北側の出口に連れて行かれて、
わたしは背中で見送った。
「別室というのは
ただの脅し文句よ。
ムネモスが想像するような
浅ましい真似はしないわよ。」
「ちょっと…驚いてしまいました。
あれで議長なんですよね?」
「身分や地位、階級に関係無く、
欲によって思考を止めてしまう
お客さんが来てしまうのよ。」
ムネモスが顔を覆い、深い溜め息を吐いた。
「慣れなさいとは言わないわ。
反応を見せれば
相手を喜ばせるだけよ。
動物と同じね。」
「動物…でも…お客さんですよね?
それも元老院議長って…。」
「そんな時は深く呼吸をして目を細めて、
見る振りで焦点を移動させるのよ。
他には鼻で笑い、冗談と受け止めるか、
欠伸して見せたらいいわね。」
「欠伸…禁止ではありませんか?」
相手の話に欠伸をすることは
失礼にあたることを、
ムネモスも理解している。
「あなたの行動や
趣向には興味がなくて退屈、
と言葉ではなく態度で示すの。
無理に相手に合わせる必要はないのよ。
来るものは選ぶ。
それも館の決まりだものね。」
「分かりました。姉様。」
ムネモスは頷く。
「それで別室とは
なにをなさる場所なのですか?」
言って首を捻る。
「知らないことを知るのは
必要な行為だとは思うわよ。
識ることを畏れては
なにも得られないもの。
でも知ってみると、
浅く狭い水溜りみたいな場所もあってね。
それとも沼のように深く濁って、
光が届かないほど暗いのかしら?
世の中には知らなくても支障のない知識、
というのもあるのが分かるわよ。」
「よく分かりません。」
比喩表現で説明をしたところで、
ムネモスには伝わらない。
具体的に伝えるものでもない。
「簡単に口にするものでもなかったわね。
好奇心で石の裏の虫を暴くつもりなら、
ムネモスも虫になる覚悟が必要ね。
ファウナが持ってる趣味の本でも借りて
読んでみたらいいわよ。」
「はぁ…い。」
ムネモスは分かっていないまま、
目を細めて拒否的な返事をしてくれた。
「新しいお客さんも
見つけないといけないわね。」
「追い出してしまいましたものね。」
状況しか見ていないムネモスに、
わたしは首を横に振る。
エイワズはいくつかの資産を売却していて、
夜の館の銀行口座に、100万ルースもの
多大な金額を送金していた。
誰にも買うことのできないドレイプを、
買う為だけに積める額ではなかった。
「彼はあのままでは長くないのよ。」
エイワズからの手紙を読まなくとも、
彼の遺産に関するものとわかる。
「それは…寿命が近い、
病気ということでしょうか?」
「ムネモスも病院で、
あの臭気を嗅いだ記憶があるでしょう?」
熱を帯びたように
鼻腔に甘く張り付く腐敗臭。
病から生じる体臭や口臭は、
香料で濁せても治せはしない。
腫れ上がった手足は細い血管が壊れ、
滞留した体液が痣のように広がり、
赤紫や黒に変色していた。
「お菓子の食べ過ぎや
食事の偏りには注意が必要よ。
デーンやフランジにも言っておいて。
特にファウナにね。」
「心得ました。」
エイワズが押し付けた100万ルースを
そのまま受け取る気はないし、
彼と肌を重ねるつもりもない。
闇の館を経営していた
ユヴィルに倣うつもりもないので、
日陰の庭で会談に招くお客さんは
長期的に得る必要がある。
「マルフに頼り切りでもいけないし、
カヴァのオルデウスやオルドラスは、
向こうの元老院と対立していて
余裕もないのよね。
クロノに頼んであのオランドルを
連れて来るのはどうかしら。」
「それはダメです。いけませんっ。
クロノに娼館は早いですよっ。」
摘み上げた羊皮紙に息を吹きかけると、
イオスがわたしの太腿の上で立ち上がり、
テーブルに前足を掛けて遊び始る。
太腿を引っ掻かれ、
またソックスが破れた。
わたしは執筆も進まず、
余計なことを考えている。
「でしたら代わりに、タルヴォ叔父様でも
呼びつけましょうか。」
「彼はちょっと難しいわね。
表情から考えが読み難いもの。
撒いた餌で釣られるお魚を
気長に待つしかないわね。」
イオスを両手で捕まえて、
耳に息を吹きかける。
「ごきげんよう。サンサ。ムネモス。」
「サラ。あなた、いつも突然現れるわね。」
オルドラスの娘、サラシュ王女は
カヴァの遠征で娼婦団に紛れてから、
この館を拠点に分水街を遊び歩いている。
透き通る銀色の長い髪を後頭部にまとめ、
銀の目を細めて含みのある笑みを浮かべた。
サラシュの父のオルドラスが
呼称にしていたスァラには、
大陸語で白馬という意味を持つけれど、
それではサンスァラ王女と同じになる。
サンスァラ王女は
彼女のことをサラと呼んでいたので、
それでわたしも同じ略称で呼び始た。
わたしが使っているサンサの名前は、
奔放な叔母によく似た彼女の方が
似合う気もする。
ムネモスはサラシュ略称を羨ましがる。
ムネモスの名前は誰からも略されず、
由来となった女神の名前から既に省略され、
これ以上略す必要もなかった。
「進捗はいかがかしら?」
この街に馴染んだサラシュは
両腿を隠す服の前側を摘んで広げ、
半歩下がって腰を落とし
頭を深く下げて挨拶をする。
この挨拶は館の主にする作法であって、
雇われのドレイプ相手には行わない。
白く裾の長いキャシュクの、
膝の上にまで伸びた切れ目から、
淡いピンク色のソックスが覗く。
わたしと同じソックスなのに、
品位のあるサラシュが履くとよく似合う。
「見ての通り、よろしくないわよ。」
「分かってますよ。
ねえ、イオス。」
なにも書いていない羊皮紙を
爪で引っ掻くイオスに呼び掛けた。
「サラは朝から出掛けてましたけど、
どちらに行ってましたか?」
ムネモスの問いにサラシュは顎を突き出し、
胸を張って腕を組んで深く頷いて見せる。
サラシュのこうした所作は親に似ている。
「なにをするにも、先立つもの、
つまりお金が必要でしょう?
サンサに見合うお客さんを、
わたしが見つけて連れて来たのよ。」
玄関に向かって手を挙げたサラシュが、
一人の子供を日陰の庭に招いた。
「ハンドベルを鳴らし忘れてるわよ。
サラ。」
「あら、よろしくないわね。」
サラシュは玄関に戻って、
来客を知らせるハンドベルを、
軽快に振り鳴らした。
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