
暖かくなると花園の蕾が綻び、
羽化した蝶が蜜と番を求めて庭を舞う。
エルテル先代領主、
エリクの娘のムネモスは、
夜の館の従業員達を指導し、
フランジを相手に勉強会を開いた。

わたしも勉強会に参加して、
いままで通り勉強を教える立場を続けた。
勉強会を終えればヤゴウの娘、
デーンが作ったお菓子が待っている。
鶏小屋を管理し、
お菓子に使う新鮮な卵を
自由に手に入れられるデーン。

彼女にお菓子作りも教えるムネモスは、
レナタに代わるフランジの規範になった。
「ちゃんと歯を磨きなさいよ。」
サンスァラ王女に代わって、
誰にも買うことのできないドレイプになった
わたしは、フランジにそれだけを言う。
ドレイプになってもお客さんは取らないし、
王女の使っていた5番部屋を引き継いで、
フランジと同じ立場でもない。
館の賓客のような扱いであっても、
オーナーのルービィからは、
給金を頂いている。
産後のメノーに代わって、
病院にも通うことになった。
メノーの助産を行ったわたしは、
夜の館のドレイプとフランジや従業員、
暮相の館で娼婦達の診療も定期的に行う。
見て、触れて、医学書を読み、
症状が治まらない場合には、
自分の考えを医師に伝えて教えを請う。
月経の周期を記録し、
風邪や食中毒などの原因を調べ、
秘め事の相談を受ける日も増えた。
王女からもっと診療を学べば良かったと
後悔が湧く。
夜の館では解剖学の本を怖がって、
いまも書室に近付く子は居ない。
ミニとアミが他の子を怖がらせて
愉しんでいるという。
ミニとアミが怖がらせているらしい。
入植暦365年。16歳の春。
冷たい風が、
仄かに甘い花の香りを館に運ぶ。
塀の外の敷地では、
ミュームの果樹の白い花が
枝を覆うほどに咲き乱れる。

去年と同じく、元老院議長の
エイワズによって酒宴が開かれ、
ハーフガン将軍の詩歌が聞こえる。
花はそこにあるだけで虫を引き寄せる。
新年の祝いの挨拶という口実で、
夜の館にお客さんが訪れる。
わたしは日陰の庭で熾火を足元にし、
生地の厚いキャシュクを着た。
チュール生地の頭巾に薄手の宝飾巾、
両腕にはアームカバーをして
右腕の傷を隠す。
ルービィの工場で作ったソックスを、
わたしはいまも履いている。
ソックス自体には物珍しさがあり、
冬に作った黒地は想定したほど
売れなかった。
そこでドレイプの意見を聞き入れ、
流行の色に変えて季節限定と宣伝した。
わたしも薄ピンク色のソックスと、
アームカバーを着けさせられると、
ドレイプのおかげで想定以上に売れた。
ドレイプや娼婦達の好む薄ピンク色が
わたしに似合っていないのは、
鏡を見なくても分かる。
ルービィはムネモスの母で、
エリクの妻のベリーと共に
こうした商品の開発に取り組んだ。
夏はチュール生地のソックスを
売ろうと企んでいる。
イオスがわたしとテーブルのあいだで
羽根ペンを玩具に狙いを定めるので、
その狭い額を押さえつける。

わたしがなにも書けていない羊皮紙に
目を細めて睨んでいると、
ハーフガンが館の庭に入ってきた。
日陰の庭で過ごすわたしにも、
『物好き』なお客さんが付いた。
「酒宴ばかり開いて、
議会に顔を出さなくてもいいの?
エイワズ議長。」
金色の義髪に口髭をした中老の肥満男。

垂れ下がった顎を手で撫で、
濁った碧色の目がわたしを見る。
「新年の元老院議会など、
退屈な挨拶しかせんからな。
ワシより若い年寄り連中が、
笑みを浮かべて近寄っては、
ワシの席を狙っておる。
行くだけで寿命が縮まるわ。」
エイワズは椅子を引かずとも座り、
ムネモスに彼の飲み物を用意させた。
「謙虚な姿勢ね。
後に続く者に意見を出させて、
失敗を学ばせる機会を与える。
その責任は責任者が負うべきだものね。」
「う、む…確かにな。」
エイワズは杯を呷り、喉を鳴らす。
杯の中身はスパイスティーで、
日陰の庭では酒は提供しない。
香辛料と山羊のお乳を混ぜたものなので、
泥水のような液体でも慣れると気にならず、
飲めば身体を芯から指先まで温めてくれる。
煮詰めたバターを入れると味が濃厚で、
香辛料の刺激も和らいで飲みやすい為、
ムネモスはそちらを手にしている。
彼女は姿勢良く座って、
わたしの言葉にも笑顔で頷いた。
「サンサに聞きたい話があって来た。」
以前、館に押しかけたエイワズは
あの日以来、わたしをサンサと信じている。
「管理者の話? それとも禁足地?」
わたしの問いに、
エイワズは弛んだ顎に深い皺を刻む。
「マルフのやつは箝口令を敷いておるが、
無産街出の紐無しに兵士の口など
どうあっても塞げはせん。」
「元老院の議長にもなられると、
言葉に鍵をかけられるものかしらね。」
わたしが言って捓うと、
今度は眉間に深く皺を刻んだ。
「管理者とは何者だ?」
牛の頭に羊の角が生え、
猫の頭に少女の身体を持つ、
理解のできない怪物が管理者だった。
わたしは一度、首を横に振る。
「夜の館は流言を好まないわ。」
「そんなもの分かっておる。
だからこんななにもない庭まで、
お前の知恵を借りに来たのだ。」
エイワズから手紙は来ていたけれど、
まだ読んでもいなければ、
招待札も送っていない。
ハーフガンからは苦言を呈されても、
彼を中に案内するように伝えてあった。
エイワズの手紙は読まなくても、
彼はこうして手札を自ら晒して
健気に協調を求めてくれる。
王女から禁足地に誘われなかったことが、
気に入らなかったのだと心情を察せた。
「ペタの次代領主を騙るヘッペに頼るのは
辞めたのかしら?」
「あんなやつ、元から信用に値せん。」
わたしは湧き出す笑いを堪え、
咳払いをした。
「言葉に鍵をかけられる
元老院議長という立場であれば、
言葉を捕まえることもできるのかしら?」
「言葉を…?
そんなもの捕まえるなど無理だろう。
なにを言っているんだ。
謎解きか?」
「問いというものに標準がなければ、
いくら待っても答えは出てこないわね。」
わたしはテーブルの上に置かれた
なにも書いていない羊皮紙を、
エイワズに1枚差し向けた。
「この紙に言葉を書けば、
紙の上の言葉という標準、
つまりは文字になるわね。」
「やはり詭弁ではないか。」
エイワズは当然、わたしを謗る。
相手が聞いて感じたことは否定できない。
「管理者は、
わたし達とは理の異なる存在なの。
男でも女でも
人間でもなければ、
獣でも植物でもないのかしらね。
生き物なのかも怪しいわ。
剣や弓、火を放っても通じないし、
物差しも天秤の錘も意味を成さない。」
ムネモスは頷くけれど
統治者達に話した現象にも似た管理者を、
言葉だけで相手に説明するのは難しい。
「天蓋山の雲を取り除く、
無理な話をしているわけだな。」
島の中央に聳える天蓋山の頂は、
常に雲に覆われている。
人間が遠くにある雲を
取り除けるはずはない。
分水街に住む人間は、
天蓋山を例に挙げる言い回しを好む。
「ただそこに浮かぶ雷雲を見て、
不安がっても仕方がないわね。」
管理者という雲を観測できても、
それだけで推論を立てるのは難しい。
雲の形はお魚の鱗や、
羊の群れに例えられる。
雲は飽和した空気から凝結した水が
可視化する自然現象に過ぎない。
巨大な雷雲の中の、
存在しない竜に怯えていては疲れてしまう。
「保険屋のあなたは民衆の不安を煽って、
新しい商材にするつもりかしら。
民衆が権利を求めて禁足地に向かえば、
賊がまたネルタを拠点にするだけね。」
「知恵者のお前でも難しいか。
離宮の絵を見せて、
猪だか蜥蜴だなどと言ったぞ。
マルフは竜だと言ってワシを捓った。
口を割った兵士達は、
管理者を蛇や犬だなどと言って
意見が一致せん。
尻を噛まれたという者もおる。」
「猪に蛇…?」
マルフが見たのは、
アイリアが入植十二画に描いた
竜のどちらか。
兵士の臀部を噛んだのは管理者ではない。
オーブの領主、メテオラの連れていた
サーブラスと勘違いしている。
エイワズが調べてくれたおかげで、
わたしは管理者の外見の、照らし合わせを
行っていない点に気付かされた。
わたしもあの牛や猫の頭をした管理者を、
マルフの言葉で竜と認識するところだった。
――識ることを畏れていたのね、わたしも。
自分が観測したものが、
他人と一致していたのか
疑わしくなってくる。
わたしの中での前提が崩れた。
ただの雲を見ているものと思っていたら、
その雲は星鳥の群れの可能性があった。
――『我々』と言っていた管理者は、
現象や光素が作った鏡像ではなくて、
群集の一部だったのかしら。
「確かに、ニースね…。」
イオスの額を撫でて呟けば、
ミャオと返事が返ってくる。
歴史に記された管理者の姿形が、
いずれも異なる理由が理解できた。
「ならば質問を変えよう。
むしろこっちが本題だ。」
「元老院はこれまで通り、
条約に従う方が良いわね。
この街はネルタの湖に近く、
水資源の恩恵を授かれる土地だもの。
欲をかけば東西の均衡を崩しかねない。」
エイワズは次の言葉を失った。
テーブルに置かれたお菓子を口にして、
咀嚼しながら首の皺を収縮させる。

根菜を揚げたお菓子は、
サンスァラ王女がマルフに与えたものを
デーンが作った。
彼女と共に作ったムネモスは、
食べる男の満足気な顔に口元を緩ませる。
「エイワズ議長は
酒やお菓子を控えた方がいいわよ。」
「好きなものを食えんのなら、
なんの為の人生か?」
診療を望んでいない貴族病の彼に、
自らの病を理解させるのは難しい。
「ネルタを占領したところで、
カヴァのみならずエルテルからも
恨まれる恐れがある、か。
だが――。」
男が杯を手にして喉の渇きを潤すので、
代わりにわたしが続きを述べた。
「また盗賊に占領されて、
ネルタとカヴァみたいに
喧嘩を繰り返されては困る。
というのが表向きの見解。
公に自分の――、自分達の
利益にできないのが気に入らない。
そう思うのも無理はないわね。」
エイワズは肯否もせずに深く息を吐いた。
呼気を嫌がったイオスが、
わたしの太腿に顔を埋める。
エイワズの考えは、
どんなに厚いパイル生地で覆っても
欲が透けて見える。
「戦争で山道を拓いたカヴァは、
あれから石碑を建てていたから、
近い内に占領されるでしょうね。」
「それは困るぞ!」
石碑にはカヴァの王と刻まれている。
「カヴァから山道を通って
物資を輸送するにしても、
移住して耕起をするにしても、
開拓と同じでやるべきことは多いわね。
財政の逼迫している彼の国では、
すぐに実行は出来ないでしょうね。
荒れ地を拓いても長らく採算が合わず、
ネルタみたいになるかもしれないわ。」
「捓ってくれるな。」
彼は長く浅い息を吐き、
安堵する姿を見せてくれた。
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