第11章 第6節 白金の鍍(第3項)
助産師は帰り、キーア達がベッドシーツを
新しいものに取り替えた。
「ニクス、来て。」
メノーがわたしを呼んだ。
メノーの腕と、タオルに包まれて眠る赤子。
椅子に座って背中を預けていたわたしは、
長旅と助産に疲れて眠りかけていた。
湯上がりで巻いただけのわたしの髪が
ムネモスに櫛で梳かれて、
頭は荒波に揺れる。
「なに? まだ身体はつらいでしょ?」
「それより、この子にミティスって
名付けてもいいかしらぁ。」
「ミティス?」レナタが訊ねる。
「知恵の女神ね。」とルービィ。
わたしは首を捻って答える。
「どうかしら。
この子が成長すれば、
この子の考えで名前を変えるわよ。
親の理想は、
子の理念にはならないもの。」
「いいのよ、それで。
それから、改めてお礼を言わせて。
ありがとう、ニクス。」
「わたしからもありがとう。
家族を助けて貰ったわ。」
「メノーが健康だったから、
この子が産まれたのよ。」
わたしは顔を拭いて、周囲を見た。
「…ルービィに話があるの。」
「カーミャ、ハーリャ、ボーシャ。
あなた達もありがとね。
落ち着いたら後日に祝宴を開くから、
今日はもういいわよ。」
三姉妹は顔を見合わせて頷き、
ルービィの指示に従い部屋を出ていった。
「サラシュもよ。
長いあいだ
よく付き合ってくれたわねぇ。
マルフの館にお礼を送るわ。」
「わたしを追い出したところで
意味はありませんよ。
お部屋の外で
三姉妹が耳を澄まして居ますからね。」
ルービィは立ち上がろうとしたものの、
寝ているミティスを気遣って、
背中を丸めて長い溜め息を吐いた。
サラシュは湿気を追い出す為に
窓に向かって扇をあおいで、
フランジや従業員の仕事を
真似して愉しんでいる。
「ルービィ。彼女はいいわよ。
サラシュはあのひとの
姪子に当たるもの。」
「サンサ…ァラ王女の話ですか?」
レナタの質問にわたしは踟い、
それから首を縦に振った。
「サンサは…、館を去ったわ。」
言って下の唇を噛み、
ルービィ達からの言葉を待った。
「あら、ようやく?」
「え?」
わたしも思わず訊ねてしまう。
「毎日のように言ってたものねぇ。」
「言ってましたね。」
メノーも、それにレナタも頷く。
「でしたらサンサお姉様は、
いま、どこに居るんですか?」
ムネモスの疑問に、
わたしは答えられない。
「『去るものは追わず。』
これが館の決まりですが、
お客さんに限らず彼女にも
適用されたのね。」
「どうされたんですかっ?」
サラシュがそれで納得しても、
ムネモスは納得しない。
彼女はわたしの伸びた髪を結び終えた。
「それでルービィ。
わたしに少し、お金を貸して欲しいの。」
「えぇ?
遠慮しなくていいわよ。
もちろん、今日のいまだけよ。
なにに使うつもり?」
「わたしはサンスァラ王女から
庇護を受けていただけの身で、
娼婦になるつもりはないわ。
もう成年になるから館を離れて、
外で仕事を見つけるつもりよ。」
わたしは娼館を脱走した。
いまも、娼婦の仕事を忌避している。
そのことでレナタには泣かれ、
サンスァラ王女に告げると
笑われてしまった。
「…言ってましたね。」
わたしの告白にレナタは寂しがった。
「わたしの病院で働くのよねぇ。」
「出し抜くのは許さないわよ。」
冗談を言うメノーに、
ルービィが彼女とわたしを叱る。
「それはまぁ、大変な道を選びますね。
なにかお手伝いできることがあれば、
わたしにもご相談ください。
わたしもこれで、
カヴァの庇護を受けて
抜け出した身ですけれどね。」
サラシュが言って笑う。
王女が部屋に居ない以上
この館を頼れないので、
これから方法を探っていく。
孤児院に行けば、
風雨を凌げる別館もある。
「まさか娼館でも開くつもり?」
「その予定は無いわ。」
「マルフが支援者なのね?」
「わたしには彼が欲しがる
劇場ほどの魅力はないわよ。」
ルービィから立て続けに、
妄想の質問責めに合う。
わたしのような出自の怪しい人間を信頼し、
投資するひとは居ない。
「この街で助産師をやるのなら、
出産の経験がない小娘では
相手にされないわよ。」
ルービィの言い分に首を縦に振る。
本の知識はあっても、
助産師の仕事で暮らせるほど
技術も経験も信頼も無い。
「猫に芸を仕込んでいるのは、
その為ですよね。ふふっ。」
サラシュが笑う。
「それであんな大きな犬を
増やしたのねぇ。」
「メノーまで、
勝手に話を進めないで。」
サーブラスは預けるつもりでいたけれど、
イオスのことまでは考えていなかった。
「館を出て、独りで暮らすんですか?」
「えぇ。そのつもりよ。」
疑問を浮かべたレナタが、ムネモスを見た。
隣に立つムネモスは、
わたしの顔を覗き見る。
「姉様って、
お料理はできました?」
「…味見ならできるわよ。」
スーが言っていた一番料理っぽいことは、
サラシュを余計に笑わせるだけだった。
厨房に立って料理をした覚えはない。
せいぜいパンを切り分けたり、
鶏の血抜きをやらされた程度。
「一人で身支度もしませんのに?」
「…これからやっていくわよ。」
ムネモスの質問に答えれば答えるほど、
わたしの手札が暴かれ、包囲される。
「ムネモスはこの館に居るんですよね?
…サンサと一緒に行くのかと
思いました。」
レナタの疑問にムネモスも頷く。
「サンサ姉様は、
怠け者のお姫様という
自覚がありませんねっ。」
「えっ…?」
ムネモスから、罵倒に近い叱責を受けた。
「サンサが館を出ていくのは、
館の仕事ができないのを、
気にされてのことですか?」
わたしはレナタほども働けない。
レナタがアイリアの工房に行く以前から、
わたしは館の仕事がなにもできなかった。
「『去るものは追わず。』
とは、いかないわねぇ。
借りたお金を返す当ても無い子に、
お金を貸すなんて愚かな真似は
わたしはしないわよ。」
ルービィから放たれた正論に、
わたしは首肯すらできない。
彼女はテーブルを指先で小突いた。
「この館の者は誰であっても賢く務め、
身分に関係なく働かなければいけない。
夜の館はあなたのお城ではないからね。」
ルービィの動きと言葉は、
サンスァラ王女と同じでわたしは驚いた。
「馬車でレナタから聞いたわよ。」
ルービィの責める視線はわたしではなく、
隣のムネモスとメノーに向かう。
「メノー、それにムネモス。
聞けば二人揃って、
独り善がりな勉強会を
開いていたようね。」
「違うわよ。
久しぶりにみんなの前に立つから、
ちょっと楽しくなったのよ。」
メノーの勉強会は話が逸れて、
わたしはよく話の方向を戻していた。
「私は本の通りに教えましたよ?」
メノーの弁解は無視され、
ムネモスは否定してみせた。
「あなたが教えた幾何の計算に、
一つでも答えられた子は居たかしら。」
「うぅ…。その通りですね…。
いつもの勉強会と違って、
反応が鈍いと思いましたけど…。」
「サンサが居ないので、
みんな首を捻っていましたね。」
レナタが言った。
サラシュは勉強会の光景を思い出すと、
声を抑えて笑い始めた。
「普段から頼みごとなんてしませんから。
期待に応えてやってみたんですよ。」
サラシュに連れられて館を出た時に、
ムネモスが発奮してえくぼを見せた理由。
「ありがと、ムネモス。」
わたしはエリクの娘の彼女を、
お客さんとして大切に扱ってきた。
「わたしは金貨の為にこの館を売るほど
愚かではないわ。」
――館を売って金貨を集める…。
ルービィが口にした言葉は、
ユイガス金貨の話だった。
孤児に勉強を教えて知識を備えさせ、
その仕事の対価に安全と報酬、
寝食が得られる場所が夜の館。
孤児を買う為に娼館を売って、
援助金を集めては軽重が逆転する。
ルービィはわたしを高く評価してくれた。
メノーの出産を手助けしただけのわたしは
首を振って否定する。
「鍍金のわたしに、
天秤の錘ほどの価値はないわ。」
「知ってますよ。
『金貨は価値を測る為の
天秤の錘に過ぎない。』
というやつですね、それ。」
ムネモスの言葉は、
彼女の父のエリクの言葉だった。
「拾った猫は金貨よりも価値があるって、
サンサ…ァラ王女は言ってましたよ。」
レナタから冴えない例えをされては、
わたしも素直に喜べはしない。
「あなたのことは、
排水溝に落ちた野猫みたい
って言ってたわよねぇ。」
メノーがルービィの腕の中で、
憤るミティスを撫でて宥める。
「まぁ、野猫だなんて…。
扱いが段々と悪くなっていますね。」
ムネモスが率直な感想を述べて
わたしを見たせいで、
サラシュが笑い転げてしまった。
「話が逸れたわねぇ。
この二人に勉強会を任せると、
フランジの教育が疎かになるのよ。
あなたが選んだ子を見捨てて
館を去るというのなら、
軽薄な人間を止めはしないわよ。
別れの言葉も必要無いわね。」
ハーフガンに放った言葉が
自分にも返ってきた。
「お金を貸して欲しければ給金を出すから、
フランジがドレイプになる為に
ここで1年は勉強を教えなさい。」
「信用は行動からと言ってたものねぇ。」
「ムネモスもお客さんではないのだから、
勉強会のやり方を学びなさい。
昔はサンサもお金を稼ぐのに、
家庭教師をやってたわよ。
勉強会はサンサから頼まれた
あなたの仕事でしょ。」
「でも、もうサンサは居ないわ。」
王女を止められなかったわたしには、
ルービィの提案を
軽々には受け入れられない。
「ふふっ。
サンサなら居ますよ。」
サラシュは沸き立つ感情を堪え、
震える手でわたしに指先を向ける。
「夜の館の、
誰にも買うことのできないドレイプ。
これはニクスのことでもありますね。
サンサという名のドレイプは、
サンスァラ叔母が作り上げた鏡像。
偽貨の表面装飾に過ぎませんもの。」
「サラシュ、あなたまで…。」
彼女はわたしからタオルを奪うと、
右手を取って顔を近付ける。
「わたしが断言するわ。
あなたが居なければ、
夜の館は輝きを失ってしまう。
それにあなたは、
この館以外での磨き方を
想像できていませんね。」
サラシュとのあいだにレナタが入って、
わたしの腕を組んできた。
「ニクスがサンサを名乗るのなら、
これからはわたしが
ニクスを名乗りますっ。
いいでしょ? ねっ?」
「なんで?」その発想にわたしは驚いた。
「だってニクスって、
夜の館に似合った名前なんですよ。」
「わたしも夜の女神の名前、
狙ってましたよ。」
「ムネモスはムネモスで良い名前よ。
それにエルテルの事情もあるのよ。
わたしも名前を騙るのなら
ニクスが良いわね。
ニースより似合っているもの。」
サラシュがムネモスを慰めてから
彼女は主張を始めた。
「ニクスを巡って、
名前の奪い合いが始まったわねぇ。」
「わたしはもう改名する前提なの?
わたしの意見は?」
「ちょっと静かにしなさい。
ミティスが起きるわよ。」
ルービィはわたし達を叱りつつも、
ミティスを抱いているせいで、
怒りの感情が湧かないらしい。
ミティスを見る度に、
ルービィの口元は緩んでいる。
「ルービィ、もう入ってもいい?」
言って扉から顔を覗かせたのは、
1番部屋のドレイプ、黒髪のセセラ。
「えぇ。どうしたの? セセラ。」
「ほら、早くなさいっ。」
呼ばれたのは、
ミニとアミに背中を押された
ファウナだった。
ファウナは眉間に力を入れて、
セセラとわたしを見ている。
彼女はわたしが館に来る以前は、
セセラから認証管理の仕事を学んだ。
知識量で推薦を得たファウナでも、
セセラの前では普段のように
自分を出せずに背を曲げる。
ファウナはわたしの鞄を
両手に持っていた。
「ニクス…ではなかったわね。ふふっ。
サンサのでしょ、これ。
あなたが戻ってきたから、
浴場でファウナが燥いでたのよ。」
セセラが捓って、
ファウナが不満を呟く。
「あのさぁ、私が風呂に入ろうとしたら、
浴場に置きっ放しだったから、
部屋に置こうとしただけでぇ…。」
「忘れてたわ。
ありがと、ファウナ、セセラ。
ミニとアミもね。」
「ほぁーい!」
お菓子を食べながらの
弛んだ返事は別にして、
双子の異なる声も揃うと心地良い。
わたしは鞄の中から
サンスァラ王女から預かった手紙と、護身用の短剣をテーブルに置く。
折り重ねた羊皮紙の手紙にはまだ、
指輪の封蝋がされたままになっている。
短剣は使えないので鞄に戻す。
「この手紙はサンスァラ王女から、
ルービィにって。
スーの忘れ物だそうよ。」
それと袋に入れていた
指輪を取り出した。
「マルフ総督の館で
書いていたものですね。
そちらの指輪も?」
「彼女から預かったのよ。
好きに使いなさいって。」
サラシュよりレナタが興味を示した。
二人に指輪を差し出しても、
顔を見合わせて受け取ってはくれない。
サラシュがルービィに
部屋にあったペーパーナイフを渡し、
メノーがミティスを抱いた。
短剣は必要なかったので鞄に戻す。
「なにが書いてありましたか?」
「これ、手紙ではなくて劇場の権利書ね。
あなたに全て押し付けたのよ、
あの子。」
ルービィは開いた1枚から、
権利書をわたしに向けた。
レナタがわたしの背中に触れる。
「あぁ…、
要らないって言ったのに。
…サンサってば、ダメね。」
権利書を見ても文字が歪み、霞み、
涙が零れて頬を流れる。
わたしはベッドに寄り掛かって跪いた。
「ダメね…。」
あのひとが居なくなった事実を
いまも受け入れられず、
わたしは堪えられなかった。
みんなの前でタオルで顔を覆うわたしに、
レナタが小さな身体で覆い抱きしめた。
細く柔らかな身体と、
温かく甘い香りに包まれると、
わたしは余計に涙してしまう。
呼応してミティスが泣き、
大切なものを失った深い悲しみを――、
小さな生命の、力強い叫びが包んでくれた。
◆ 第11章 『天秤の貨』 おわり




