第11章 第6節 白金の鍍(第1項)
旅の帰路はわたしにとって、
無味乾燥な時間になった。
単調な食事を胃に流し込み、
世話係のマリオンから濡らした布で
髪や身体を軽く拭かれた。
肌着を変えて、変わらない景色を眺め、
目的地に着くまで馬車に揺られる。
考えることは多くあっても、
窓から外の景色を眺める以外に
なにもできることはなかった。
馬車の中では推論と仮説ばかりで、
なに一つ検証結果が得られない。
時間が経つほど、
ヘッペを禁足地に投げ入れておけば
という後悔が残る。
荒涼が続く雪景色に飽きれば、
紙の束を眺める。
スーのベッドに積まれていた羊皮紙は、
大陸語で書かれた文字や詩歌の断片。
エンカーンの独特の言い回しや、
他の大陸語もいまでは読めるようになった。
それを伝えられる相手は居ない。
紙の上にはスーの赤黒い血の跡があって、
わたしは紙の端を強く摘んだ。
この馬車に彼女達は乗って居ない。
統治者達と別れてネルタを発ち、
3日目の朝に浄水場の宿舎を出る。
昼過ぎには分水街に着き、長旅を終えた。
「赤土の丘まで送ろう。」
欠伸を堪えるハーフガンを見て、
わたしはマルフの提案を受け入れた。
「お前が夜の館に来た時、
わしがサンサ、あの王女からの手紙で
館に呼び出されたのは覚えとるか。」
「えぇ。
昨日のことみたいにね。
指導していただいたわ。」
「指導ではないぞ。
年寄りが一方的に責めたに過ぎん。」
彼は過去を恥じて丸い頭を掻いた。
「興味深い子供が館に来たから
見に来いと手紙にあった。」
「劇場の権利欲しさに?」
「それもある…が。
なんとも冴えない娘を拾って来たと
思ったものだ。」
王女やスーに比べれば、
彼からの率直な評価に不満はない。
「排水溝に落ちた野猫、
なんて言われたわ。」
マルフは笑いを堪えて袖で口を覆った。
ハーフガンまで壁に向かって笑っている。
「ぐふっ。
そんな娘が、領主達に囲われても
臆すことなく意見を述べるとはな。」
「総督がくれたコートを着てたから、
あなたが背中を押してくれたのよ。」
「ぶははっ。
巧言は王女から習ったのか。」
マルフが笑ってくれたので、
わたしも口元を隠して笑う。
「返さなくて良いのか。こいつ。」
マルフの隣のハーフガンが足元を見て言う。
オーブ領主のメテオラが連れていた犬、
サーブラスが床で寝ている。
おかげで隙間風も気にならないほど
足元は温かい。
「しばらくのあいだ預かるだけよ。
わたしから離れたがらないのよ。」
サーブラスのお腹に居るイオスが、
前足で何度も身体を踏んで按摩をしている。
帰路の車内で、
2匹はずっとこの状態だった。
サーブラスは天幕での会談以来
わたしから離れようとはせず、
逆にメテオラに牙を剥ようになった。
命令に従わないサーブラスに
メテオラは恥じて苛立ち、
蹴りつけようとするので止め、
わたしがこの犬を預かることになった。
犬の図柄の繍旗を掲げる
エルテル領主のタルヴォが、
メテオラを説得して場を収めてくれた。
「でもこれで、彼がわたしに
手紙を送ってくる口実になるわ。」
「あいつが館に来るようになるぞ。」
「小心者のヤツにできるか怪しいな。」
「オーブもカヴァもこの街を通じて
交流が増えるのは良いことだわ。
館にお金を積んでくれたのなら、
サーブラスに餌も与えられるかしら。」
名前を呼ばれたサーブラスが顔を上げると、
急な動きに驚いたイオスが
前足で頭を軽く叩いた。
若い猫相手に叱られて、
犬は口吻から短い悲鳴を漏らした。
「しかし…だ。
あの管理者は
禁足地から本当に出てこないのか?」
分水街の川沿いの道を北へと下り、
まだ不安を抱くマルフが訊ねてくる。
「歴史の書に記された通り、
入植以前から存在するのなら、
相手はなにもしてこないわ。
管理者が檻を破る可能性もあるから、
絶対や永遠とは言えないけれどね。」
「なぜなにもしない。」
マルフが疑問に思うのも無理はない。
――言われる前に行動しろ。かしら?
以前、日陰の庭で立っていたわたしは、
マルフからこのような指導の叱責を受けた。
「人間と同じく財を求めてたり、
地位や名誉って欲がないのね。」
「ふぅん。人間らしさはないな。
外見からして、動物だとしても。」
わたしは首を縦に振る。
「繁殖が目的でもないわね。
それになにかできるのなら、
既に行動しているはずだわ。
管理者は闘争を肯定して、否定したの。
管理者であれば島の権利を主張して、
力を示すだけで混乱と欲望を与え、
戦争を起こさせることもできるわね。」
「あれを想像しただけで畏ろしいわい。」
管理者は短い毛に覆われ、
筋肉質の巨体に牛の頭と
羊の角を持っていた。
かと思えば、次には
線の細い少女の身体で
黒猫頭の異形に変わり、
わたし達と会話をした。
この不可解な存在を
目の当たりにした統治者達は、
理解を拒否してしまう。
――獣の頭…。
わたしの中にある人物の顔が思い浮かんだ。
「マルフ総督は、
ラッガという男を存知かしら?」
「ラッガ?」マルフが眉根を寄せる。
「略称で正式な名前ではないと思うわ。
赤い髪をした黒装束姿の男よ。
王女と親しい人物なら、
今回の件でなにか知ってるかも。」
「そいつならガキの頃から
あいつの周りを動き回っているな。
拾い子らしいが出自は知らん。」
ハーフガンのその言葉で、
わたしは一つの繋がりが見えてきた。
「名前の知らん黒装束ならば、
わしの従業員でも無いな。
市場に居るオーブの道化かもしれん。
銀行屋に聞いて調べさせてみるか。」
「オーブ領主の、息女の知り合いにも
同じ名前の若い男も居たわ。
別人かもしれないけれど、
マイダスには秘密で
そちらも調べられる?」
「奇妙な話だ。
多少、金は掛かるが
できないことはない。
ラッガという男は何人居るんだ?」
「分からないわ。
オーブの鷹とも
信奉者とも言われてたみたい。」
わたしの見たラッガは二人。
一人はわたしを館に連れてきた獣の男。
もう一人はフルリーンに従った、
髪を刈り揃えた若い男の姿。
信奉者と呼んでいた人物にも
心当たりはない。
「昔、年の離れた弟が居ると聞いたが。」
「弟はオランゼオルというひとで、
ラッガとは別人と言ってたわ。
分水街に居るらしくて道楽者――
って、良い呼び方ではないわね。
彼を知ってるひとって誰かしら?
オルドラスは知らないみたいだし。」
オルドラスとは協定を共謀しただけで、
わたしとは身分も地位も異なるので
手紙が届くはずもない。
マルフが手のひらで膝を叩く。
「知ってるかどうかは分からんが、
ルービィに聞いてみるのが早い。」
ハーフガンも頷いていた。
「あっ、ルービィが居たわね。」
夜の館のオーナー、ルービィは
王女が分水街に来た10年も前から、
共に娼館などの事業を営んでいる。
孤児院の選考会で挨拶したきりで、
ユヴィルの娼館、暮相の館の件でも
権利の手続きに多忙な彼女と
話をする機会には恵まれなかった。
事件続きでわたしの意識から
完全に抜け落ちていた。
赤土の丘に着いた馬車が止まる。
「やっと着いたか。」
「なにからなにまでありがと。
マルフ総督。」
わたしはイオスを抱えたまま、
深く頭を下げる。
イオスも鳴いて礼を言う。
サーブラスが
顔を上げて吠えようとするので、
鼻先に触れてそれを止めた。
手のひらが舐められる。
御者台で疲れているマリオンには
握手を交わそうとして嫌がられた。
「貰ってばかりのわしが
してやれることはせいぜいこの程度だ。
わしなんぞの器で、
お前を助けられるか分からんがな。
困ったことがあれば、
誰でもいいから頼ればよい。
前のサンサも
同じようにしてきたのだろう。」
マルフは顔に皺を作って笑う。
彼には玄関に入るまで見送られ、
わたしは足を止めて深く頭を下げた。
◆
久しぶりになる夜の館に
踟いがちに玄関に入ると、
レナタが薄白い顔で
わたしの胸に体当たりした。
「ひぅっ!」
手が臍の上の、心窩部に当たって声が出た。
胸元のイオスが肩に跳び乗ると、
蹲るわたしの背中を蹴って床に降りた。
サーブラスが吠える。
「あっ! 大変! ニクス!
メノーがっ、産まれるって!」
「早かったわね。
もう破水はしたのかしら?」
「え? 分かりません…。
でもずっとお腹痛いから
産まれるかもって…。
厨房にはヤゴウも
ミョーン達も居なくて――。」
「ハーフガンッ!」
わたしは外に顔を出し、
喉を開いて彼を呼ぶ。
「ミョーン達が市場に居る場合、
日没前には戻ってくるはずよ。
先にルービィの邸宅に行って。
馬車を使うのなら、
玄関よりも出口の方が厩舎は近いわ。
暮相の館や病院まで行って探すのは、
手隙の護衛に任せましょう。」
レナタを説得しながら、
ハーフガンに説明する。
二人は同時に頷く。
「ルービィが邸宅に居なくても、
銀行に行ってるのなら迎えに行かず、
戻ってくるのを待った方が良いわ。
入れ違いになるものね。
先に赤土の丘に戻るのなら、
伝言を残しておくのもいいわね。
初産の場合は
すぐには産まれないと思うから、
レナもルービィに会った時には
そう伝えて彼女を落ち着かせてね。」
レナタの肩を寄せ、
彼女の身体を強く抱いた。
「ぁ、分か、りました。」
レナタの石鹸の香りに混じった、
わたしの体臭が気になった。
扉を開けて荒れた館の混乱を想像する。
館に入ると出掛ける前に放置されていた
カミーリャの花首も無く、
細長く伸びた北部草も抜かれていた。
玄関に続くコンクリートの床は、
ブラシで綺麗に掃除されている。
庭では落ち着きのない従業員の
キーア、ナディ、メグに加えて、
ヤゴウの娘のデーンが
なにか相談していた。
「あれ、ニクス…
じゃなかったサンサだっ!
…久しぶりに見た気がする。」
「あ、本当だ。
おかえりなさい…?
こんな時まで、どこ行ってたのよ?」
「さっきメノーが?
レナタがっ――。犬っ?」
わたしの隣に立つ
レナタとサーブラスを見て、
メグは混乱している。
「レナから話は聞いたわ。」
レナタは皆に頭を下げてから、
馬車の待つ出口に向かう。
「それよりお風呂の用意はあるかしら。
まず身体を綺麗にしたいのよ。」
「え? ええ。今日は休養日だもの、
浴場ならお湯を張り替えたばかりよ。」
「犬をお風呂に入れるの?」
「ここでデーンを詰め寄っても
なにも解決しないわよ。」
厨房のミョーンやラッタマ達は
ヤゴウと市場へ買い出しをしており、
館には出産の経験者が不在となっている。
それでヤゴウの娘のデーンが、
孤児院出身のキーア達に詰められていた。
「手が空いている子は
タオルを集めて用意して。
煮沸済みの清潔なものね。
猫や犬はメノーの部屋に
入れてはダメよ。」
3人は顔を見合わせて頷く。
イオスが鳴くとサーブラスも鳴いた。
「デーンはお鍋に小分けした
お湯を大量に作って。
熾火を入れてお湯を沸かして、
湯気で部屋を温めてね。
厨房でも作って火傷には気をつけて、
火から離れられないわよね。
運ぶのはフランジに頼めばいいわ。
関わりたがるものだから。
慌てる必要はないわ。
お湯は煮沸の為だから、
清潔なタオルを漬けたり、
人肌くらいに冷まして後で使うの。
勉強会でも教えた通り、
扇を使って換気も忘れないでね。
厨房長が居ないのなら、火元の責任は
わたしに擦り付けて良いわよ。
ヤゴウやミョーン達が居なくても、
あなたにできる範囲の仕事を
真摯にやればいいわ。」
「待ってよ。
なんでサンサはこんな時に、
犬をお風呂に入れるの?」
混乱しているデーンがわたしに訊ねる。
「だって臭いもの。」と、キーア。
「汚いのよ。」ナディが続く。
メグもなにか言いかけている。
わたしに言っているのか、
サーブラスに言っているのか。
雪で汚れたイオスを見ると
全員かもしれない。
「お風呂に入るのは
わたしがこれから出産を手伝うからよ。
この犬はオーブ領主から預かっているの。
名前はサーブラスよ。
こんな名前でも雌だけれど、
いまはイオスに任せるわね。」
イオスが短く鳴いて返事をした。
それに続いてサーブラスが鳴く前に、
わたしは鼻先を手で抑えた。
空気が長い口吻から漏れ出る。
「メグはデーンの仕事を手伝って。
それから浴場に清潔な服を用意して。
長く出掛けていたから、
清潔な肌着がもう無いのよ。」
理由を省いたせいで、同じ説明をしていた。
「出産の手伝いって…。
助産師のお仕事でしょ?
ニクスって、そんなのできるの?」
メグが疑問を投げかける。
彼女達は未だにわたしを
お姫様と勘違いしている。
「わたしは何度も、
赤子を取り上げたことがあるのよ。」
不安がる彼女達を前に、
わたしは強く首を縦に振って見せた。
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