第11章 第5節 理外の柱(第2項)
管理者が不在になった禁足地。
サンスァラ王女という
案内人を失った統治者達は、
逃げた護衛や兵士達を責めはしない。
誰が言い始めたわけでもなく、
統治者達も無言で列柱に背を向ける。
理解を拒む状況を畏怖し、禁足地を去る。
それはまるで管理者やサンスァラ王女など
初めからこの場に居なかったかのように、
霧が見せた幻のように扱われる。
王女の父のあのオルデウスでさえ、
泡となって消えた娘の跡に背中を向け、
なにも言わずに禁足地を去っていった。
死体も無く、弔われることのない王女。
禁足地には、なにもなかった。
禁足地に着いた喜びも、期待も失望も、
悲しみの感情も失われている。
管理者によって蒸発した、
雪の跡だけが残った。
それも降り始めた雪に埋もれ、
春になれば溶けて消えてしまう。
わたしは去るひと達を見ながら、
一人で考えを巡らせていた。
誰も居なくなった頃に、
胸元で鳴いたイオスを見た。
――仮説が検証できるわ。
「待てっ! 早まるな!」
列柱に向かって踏み出すと、
わたしはまたこの男に肩を掴まれた。
「なに考えてんだっ!」
似合わない髭の男が白い息を吐く。
「…ちゃんと考えてるわよ。
痛いからこの手を放して。
帰るんでしょう?」
肩を動かしてハーフガンの手を避けさせた。
「戻るなら乗れ。
日が暮れる。」
ハーフガンは厳寒馬と橇を用意し、
わたしが禁足地から離れるのを待っていた。
「どうしたの? これ。」
「ゴミ屋が用意したんだよ。」
「彼にも心配をかけたのね。
あぁ、それにお腹が空いたわね。
一先ず、戻りましょうか。」
わたしのお腹に代わって、
胸元でイオスが太く鳴く。
左手には王女の短剣と右手には指輪。
握った手は冷たくなり、
感覚が無くなっていた。
王女から預かった金と銀の指輪には、
カヴァの蹄鉄が刻まれている。
「迷惑なやつだ。」
ハーフガンが苦情を吐いた。
わたしのことを
唾棄して言ったのかと思った。
長いあいだ禁足地に残って居たせいで、
エルテル領から来た騎士は寒さに震える。
わたしはネルタの生まれのせいか、
寒さに耐える経験は何度もしている。
橇には重たいだけの短剣を置き、
イオスを抱いたまま斜面に沿って歩いた。
橇の上でなにもしないのも同じく退屈で、
歩かなければ血の巡りが悪くて
身体も冷えてしまう。
厳寒馬が橇の重さと
傾斜に足を取られながら、
ハーフガンに連れられて慎重に進む。
「俺達を案内したと思えば放置して、
また勝手にどっかに行きやがった。」
彼の言葉から気になる単語があった。
「…また?」
「あぁ、まただ。
エルテルの時もだ。」
「あなたはエリク卿から、
サンサの監視を命じられてたのよね。」
王女とハーフガンの過去について、
わたしはなにも知らない。
彼女がエルテル領に入ったのは15年ほど前。
「あの頃の俺は酷いもんだが…、
あいつはそれ以上に酷かった。
俺に黙って領の内外問わず、
勝手にどっかに行きやがる。」
「あなたが飲み歩いて
酔っ払っていたのが原因よね。」
ハーフガンは厳寒馬の手綱を引きながら、
格好のつかない過去を思い返して
言葉を呑む。
「どうしたもんか…。」
しばらくしてまた彼は悩み呟く。
「あなたはエルテルに帰るつもり?」
「分からん。
タルヴォの考え次第だ。」
騎士のハーフガンはエリクに命じられ、
養子になったサンサの護衛を兼ねた
監視をしていた。
いまは彼には命じたエリクも、
護衛対象のサンサも居ない。
ハーフガンも普通を失っている。
「わたしはあなたが
どうしたいかを聞いてるのよ。」
「俺は、あいつに子供を守れと言われた。」
王女に何度か言われ、
ハーフガンはそれを忠実に守り、
彼女を止めずにわたしの肩を掴んだ。
「その子供って…、
フランジの護衛にでもなりたいの?」
「いや、ないが…。」
彼は言葉が足りず、会話が続かない。
果樹園でクァンを採っていたレナタが、
わたしに見つかった時の姿を思い出した。
橇が斜面を折り返し、
雪に滑ったハーフガンが倒れそうになる。
館の玄関で酔って寝ていたハーフガンが、
わたしを別の名前で呼んだ時があった。
「アースラとヒルドってあなたの子供?」
二人の名前を出すと、
彼は足を止めてわたしを睨む。
急に止められた厳寒馬は驚き嘶く。
「ここは日陰の庭ではないもの、
お客さん扱いはしないわよ。」
サンスァラ王女は、
彼のことはなにも喋りはしなかった。
わたしは二人のことを知らないので、
先を歩くハーフガンの説明を待つ。
「…いや、違う。
アースラは俺の婚姻者だ。
ヒルドは俺達の子供になる。」
それを聞かされたわたしは、
なにも問わずに黙った。
彼は沈黙に堪り兼ね、話を続ける。
「アースラは金赤色の美しい髪をした
良家の娘でな。
生まれたヒルドも赤い髪だ。
俺の父親は家名に縛られた古い男で、
女が生まれたことを残念がったが
俺には宝石にも見えた。」
「あなたにとっての、お姫様ね。」
「あぁ。確かに、そうだった。」
その一言で
わたしは再び口を閉ざした。
――もう死んでるのね。
それが彼の底知れない感情の正体だった。
「メルセ病でな。
二人が死んで2年後に
あいつが来て、しばらくするとエリク…
領主に二人の子供が出来た。
領主は石塔も建ててくれはしたが、
俺は受け入れられずに酒に逃げ続けた。」
『死を受け入れなさい。』
ハーフガンがウントと喧嘩をしていた時に、
王女は二人をこの言葉で叱責していた。
オーブ先々代の領主、グレイ老の言葉で、
王女の発明の共犯者。
「…お前を見た時、
悪い夢から目覚めた気分だった。」
「あなたが酔っ払ってたから、
汚い赤髪のわたしを見間違えたのね。
勝手に二人に重ねられて、
追われるわたしの身にもなりなさいよ。
わたしにとってはその方が悪夢よ。」
「…悪かったな。」
彼はあの日の自分を恥じて詫びる。
以前、彼は日陰の庭に呼び出されて、
わたしと四時の札遊びをさせられた。
サンスァラ王女はハーフガンに対し、
家族の風采のあるわたしを餌にして
彼を釣り上げた。
深い溜め息が白く、視界に広がって消える。
「そんな酔っ払いだったから、
ハーフガン将軍の名前を名乗ってるの?
ソーマは。」
「ソーマは親が勝手に付けた名前だ。
酔った俺を捓って、
あいつがハーフガンと歌った。」
「ハーフガンって名前で貶されても、
気に入ってるのね。」
「はっ? まさか…。」
口角を上げた彼は思わぬ感情が湧き出て、
口元を手で隠して困惑している。
指導者ソーマの登場より前の時代に、
歴史に語られるハーフガン将軍。
メーニェ島海戦で
ソーンの艦隊を沈めた将軍も、
大切な宝を失っている。
――偏屈で、意地悪ね。
禁足地へ向かって直線上に歩いた王女の、
小さな足跡は他の足跡に潰され、
粉砂糖のように降り頻る雪に隠されていく。
『あなたが求める足跡なんてものは、
いつかは必ず消えてしまうものよ。』
――エリクに言った王女の言葉の通りだわ。
「あいつはどうなった?」
彼の質問にはすぐには答えられなくても、
彼の問題であれば解決はできる。
「ハーフガンがエルテルに帰らず、
サンスァラ王女、サンサの言いつけを
守る為に――。」
彼は不満の表情を顕わにするので、
わたしは言い方をさらに改める。
「…彼女の帰りを待つ為に、
館にずっと居たいって言うのなら
館に残ることはできるわ。」
「別に、そんなわけじゃねえがぁ。」
彼は自分の感情を自覚できていない。
「エルテルの現領主のタルヴォ卿も、
なにを考えてるか分かり難いのよね。
ムネモスの、エリク卿の娘の動向は
探っておきたいでしょうし、
彼女が子供を作ったりすれば
なにかしらの対処が必要だものね。」
「まだ子供だぞ。
産める齢でもねえだろ。」
「そんな身体でもあるのよ。」
女のわたしに言われて彼は黙る。
「ハーフガンの名前が気に入ってるのなら、
騎士の肩書きは返上しないことね。」
「は? なんでだ?」
「あなたが騎士だからこそ、
ムネモスの動向を知るのに
エルテルにとって好ましいからよ。
逆もまた言えるわね。」
「騎士の身分を利用して、
領地の動向を探れというのか。」
「正当な権利を行使するだけよ。
負い目を感じる必要はないわ。
エリク卿の死後も
あなたの身分を剥奪したり、
護衛を解任しなかったでしょう。」
「遺言ではあった――。
エリクの死を尊重してのことだろ。」
厳寒馬を引きながら
騎士の矜持が妨げになり、
まだなにか踟っている。
「それだけで均衡が保たれるのよ。
あなたが騎士なんて肩書きを失ったら、
館に居る口実さえ無くなってしまうのよ。
それともエリク卿の娘だからって、
ムネモスを見捨てるつもり?
軽薄な騎士様ね。
望み通り騎士の身分を返上して
エルテルに帰ったら、
ベリー夫人や石塔のエリク卿、
アースラやヒルドにどんな言い訳を
並べるつもりかしら。」
「ぐっ…。お前っ…。」
ハーフガンがまたいつものように
わたしを睨む。
「子供を守りなさい、ね。」
王女が最後に残した言葉を
わたしは彼に繰り返した。
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