針葉や鱗片葉が雪に隠れた森の中、
靴は雪を蹴っても冷たくはない。
カヴァの軍で使われる靴は、
わたしの足には大きかった。

脛まで覆うこの長靴は、
安定感はあっても重さがある。
雪と落ち葉と露出した木の根によって、
不安定で滑りやすい傾斜は
歩くだけでも重労働だった。
身体を足趾で把持する力も必要で、
慣れずに足全体が疲れる。
朝から先行者が蹴って
露出した地面の直線を、
登るだけの過酷な退屈が続く。
本にも描かれなかった景色。
花も果実もない冬の森の中では
虫は眠り、鳥獣もひとを恐れて
姿を見せない。
建物や道もなければ
鮮やかな色もなく、
森の景色は変わらない。
大人達に遅れないように膝を上げて歩く。
わたしのケープの頭巾の中で、
イオスが左肩に抱きついて楽をしている。
暇を持て余してわたしの髪で遊んだり、
飾り布を噛むなどして戯れるので、
息を吹きかけて諫むと余計に疲れる。
「傾斜に向かって真直に歩くより、
斜面に沿って歩いた方が、
足が疲れ難いのよ…。」
わたしの後ろで、
サンスァラ王女が不満を口にした。
「『後続の橇組が遭難するから、
先行する徒歩組は、
真直歩いた方が良い。』
ってオルデウスの意見に
賛同したのはお姫様よ…。」
わたしは彼女に向かって、
聞こえるか聞こえないかの声量で言った。
雪と泥の混ざるひとの道。
不安定で歩き慣れない退屈な山道は、
わたし達の体力を消耗させて思考を奪う。
「ねぇ! 大丈夫ぅ?」
ネルタに着いてからというもの、
王女は土地に順応できずにいた。
「平気よ…。このくらい。」
強がりを見せても声は弱々しい。
王女はカヴァ軍の長靴ではなく、
足首までしかないオーブ製の
軽量な冬靴を用意していても、
わたしよりずっと遅かった。
世話係のマリオンは体調が万全ではない為、
今日は娼婦団と共に待機させられている。
昨夜に酒を浴びるように飲んでいた
オルデウスの後ろ姿は遠く小さい。
オーブ領主のメテオラ、
分水街の総督マルフの背中は
まだ見える距離にある。
二人の背中から蒸気が見える。
メテオラが連れ歩く大きな犬が振り向いて、
わたし達を警戒する。

護衛のハーフガンも
わたし達を追い抜いて、
前を歩いては振り向き、
暇があればわたしを睨んでくる。
サンスァラ王女は木の前で屈み、
休んでいる。
枯れた南部草を抜き取って、
根に付いた土を雪で揉み洗っていた。
二つの白い塊茎。

「ほら、見て。
これがセリーニの塊茎。
覚えておくといいわよ。」
臭気を思い出したわたしが顔を顰めると、
王女は弱々しく笑う。
「ただの草の根を採れるものなの?」
「これは北部草よね。
名前の通り島の北側なら、
どこにでも生える草ね。」

「ネルタでは南部草って呼んでたわ。
南部にしか生えない植物と伝えられて。」
「それは山間のカヴァでも同じね。
貧しい南部の民衆は
木羊草さえ知らないのよ。
南部が主産地と欺いて、
繊維のペヌンを生産させるには
良い名前でしょう。」
「発想の転換ね…。」
木羊草はエルテル領やメルセ領などの、
温暖な土地にしか生えない夏の植物で、
南部のネルタでは育たない。

「ここに生えているのは同じ北部草でも、
他にはセリーニの塊茎はないのよね。」
「見分けがつかない。
植物の病気ではないのよね?」
雪の中でも同じ細長い草の葉が伸びる。
「そのうち分かるようになるわよ。
これは遥遠代に作られた、
周囲の草に擬態する植物なのよ。」
「遥遠代の植物?
植物の本に載ってるのも
見たことがないわ。」
トリンに右腕を傷つけられたわたしは、
乾燥させたセリーニの塊茎を
痛み止めとして噛んだ。
この塊茎は医学書にも、
薬草学の本にさえも載っていない。
「いまでは麓にしか自生しないわね。
この塊茎も乾燥させなければ、
内部の水分で朽ちて土の栄養になるの。
臭気が酷くて病気に見えるし、
毒もあるから動物も食べない。
口にしたことがあれば
分かってるわね。」
「毒だったの?」
「一概に毒と呼んでも、
症状や効果は一つではないもの。
これは感覚を遮断する効果があるのよ。
血圧が低下して起こる眩暈と同じ効果ね。
強い刺激は脳に損傷を与えるの。
刺激というのは腕の痛み、
痛覚や触覚だけではないわよ。
食べ物の甘さ辛さ、暑さや寒さ、
馬車の揺れ、苦しみや喜び、
雷なんかの激しい光や音、
臭気や快楽の記憶に纏わるものね。
感情や行動によって、
脳と身体は循環が起きている。」
「もう塊茎は口にしたくないって思うのも、
体内に循環が起きているからなんだ。」
医学書には反射と書かれていた。
「急な刺激に脳が受け入れられずに、
認識を遮断して防衛するわ。
身体の反射も起きなくなる。
脳からの循環が妨げられると、
記憶が混乱したり欠落が起きるわね。」
分水街に来る前の
記憶が薄れていたわたしは、
王女の説明に納得がいく。
「摂取量を誤れば
起きられなくなるだけよ。」
「それで神殿と同じ
月の女神の名前なのね…。」
わたしは深く溜め息を吐いてから気付いた。
「あれ、臭気がしないわ。」
「乾燥させたり割って中身を出すと、
ほら、臭いでしょ?」
塊茎を幹に叩きつけて白い塊を割ると、
半透明な液体から臭気が一気に広がった。
「嗅覚の鋭い犬が嫌がる優れものよ。」
「わっ! うわぁ…。」
イオスがわたしの頭巾から跳び出て、
雪の中に全身を埋めてしまった。
王女は残った一つの塊茎を、
わたしに押し付けた。
「王女様って犬が嫌いなの?」
わたしの質問に、
サンスァラ王女は立ち上がって
遠く後ろを眺めた。
ネルタの燃え朽ちた城は、
木々に隠れてもう見えない。
「…あなたは猟犬に追われた経験はある?」
王女はその冷たい瞳で、
わたしを突き刺すように見る。
「…なにかつらい話をさせてしまって
ごめんなさい…。」
「わたしがいまのレナより
幼かった頃の話よ。
オルデウス王とドラスは
犬を連れて猟に行くのに、
わたしが女だからという理由で
お城に置いて行くのだもの。」
王女の説明に、
わたしは感情の整理がつかずに
口を開けたまま言葉を探した。
「狩り場に先回りしたら、
猟犬に追われたのよ。
犬から逃げた先で馬に蹴られて、
その日は散々よ。」
彼女の腹部には傷跡が残っている。
「過ぎてみれば
愉しい思い出かもしれない。
それでも倒れた子の
膝に付いた砂を払っても、
痛がるし傷も残るのよね。」
「誰の話?」
微笑する王女を見て、
レナタのことにも聞こえた。
「他人からすれば些細なことでも、
つらい記憶も苦い思いも全て
本人だけのものだわ。
子供や家族であっても、
感情を他人に委ねたりはできない。
自分の物差しや天秤で、
他人の感情を比べるものではないのよ。」
言われてわたしは言葉を呑んだ。
王女は雪の中のイオスを掬い上げ、
わたしに押し付ける。
「あら、サンサお嬢様。」
「あなたに呼ばれると
奇妙な感じがする。」
わたしは背筋を震えさせてみせた。
「背が伸びたわね。」
「わたしの方が
上に立ってるからでしょ?」
斜面に足を滑らせて、
王女の隣に並んでみる。
サンスァラ王女の目の位置は、
僅かに下に見えた。
「縮んだ?」
「わたしは変わってないわよ。
メノーくらい急に成長したわね。」
「彼女ほど大きくはならないよ。」
「あんなに大きくなっても
肩が疲れるだけよ。」
サンスァラ王女はメノーの胸に言及した。
「持たない者の僻みね、それ。
見て。
足跡も小さく見えるわ。」
「靴が違うもの当然よ。」
カヴァの長靴を履いたわたしの冗談に、
王女が当然のことを指摘したから笑った。
「あなたも自分の姿を鏡で見るべきね。」
王女はわたしの前髪を撫でた。
「それ、もしかしてカヴァの前髪の話?」
「ニクスは館に来た時、
排水溝に落ちた野猫みたいだったのよ。」
「えぇ…? 酷い…。」
王女がわたしを評した内容が、
受け入れられずに言葉を失った。
◆
「先を行かせてもらうぞ。」
斜面に向かって進んでも遅いわたし達に、
斜面に沿って歩くエルテル領の現領主、
タルヴォが横を通り過ぎていった。

「あれが女神のお尻を追い求める男の
後ろ姿よ。」
サンスァラ王女はわたしの耳元で囁く。
「知り合い、なのよね…?」
わたしはイオスを抱え上げたまま、
王女を引っ張るようにして腕を組んで歩く。
「以前は毎年冬に来る、
夜の館のお客さんだったわね。」
タルヴォは色濃い肌で、
明瞭な黒い目を爛々とさせていて
彼の兄、エリクには似ていない。
わたしはサンスァラ王女の耳元で囁く。
「彼ってムネモスの弟の、
クロノによく似てるのよね。」
「サンサお嬢様は
流言を好むようになったのかしら。」
「えっ? あぁ…。
失言だったわ。」
サンスァラ王女の指摘で後から気付いて、
わたしは自分の浅はかな考えに気落ちする。
――わたしは自分の母の、
顔も名前さえも知らないのに。
サラシュと話した娼婦団の娼婦の話を、
わたしはムクドリの托卵に例えた。
「エリクとベリーが
ムネモス達の親なのは
間違いないのよね?」
「肌を重ねるのは夜の秘め事なのだから、
二人を取り上げたわたしでも
真相は分からないわね。」
「分からなくても
せめて否定するべきところだよね。
でもそれって、
どうやっても分からないものなの?」
「生物の細胞には、
設計図のようなものがあるのは
知ってるわよね。」
わたしは首を縦に振る。
レンズによる光素の屈折を利用して
像を映し出すことで、人間の細胞や
黄金の祝福に隠れた毒の原因を
探ることはできる。
メノーの病院でもそこまでしかできず、
設計図になるものは観察できない。
「親に似て成長するのも、
設計図が近いからよね。
一卵性双生児は、
同じ設計図を持ってるとも言うわね。
生物は傷を負っても設計図があるから、
細胞がある程度の傷は治したりできるの。
破損して細胞を失った時は、
設計図があったとしても
復元は無理よね。」
サンスァラ王女は、
アームカバーをした義腕を見せる。
「その設計図をもし見ることができたら、
設計図同士を比較していくことで
親や祖先が分かるわよ。
混ざった偽貨も見つけられるわね。」
「より確かな出自を問えば、
夜の秘め事を暴く行為に繋がるのね。」
王女は力無く笑う。
書室には多胚妊娠を獣の証と決めつけて、
当主が母子を殺した裁判記録も残っていた。
「生物の設計図は何世代も引き継がれる。
一人の精子、
一人の卵子からしか引き継げないのが、
人間の不完全なところよね。
親より前の祖先の設計図が、
間歇して顕れる場合もある。
寡産な人間にとっては効率が悪いわね。」
「周囲から必ず優れた設計図が、
手に入れられるわけでもないのね。
完全なものを得る目的で、
人間は不貞を働くのかしら。」
「婚姻は人間が作り出した
秩序の仕組みでしかないからよ。
わたし達の出自は要するに、
動物的な欲に過ぎないのよ。」
王女様の自虐的な教えに、
わたしは笑ってしまった。
「設計図は時と共に崩れ、
生物には寿命が存在する。
生まれ、育ち、変化して、死ぬ。」
「四時の星札だね。」
「この不完全な仕組みを、
ひとは自然というわ。
完全になった設計図はどうかしら?」
「死も変化も、成長もなければ、
不老不死?」
「寿命の存在しないその生物は、
自然な生物と呼べるのかしら。」
話の逸れたサンスァラ王女の謎解きに、
わたしはしばらく考えてから言った。
「目に見えないものを
観察できるほどの技術が発達すれば、
思想の中の魂か、近いものを理論付けて、
物差しや天秤の錘が作れると思う。
他には単位が問題になるね。」
――わたし達はそれを科学と呼ぶ。
想像の答えでしかないわたしに、
サンスァラ王女は目を見開いて感じ取る。
「それ、愉しみにしてるわ。」
彼女は柔らかい表情を見せ、
わたしの腕を固く組んできた。
◆
「先に行ったはずなのに、
女共は厳寒馬より遅く
劣ってるじゃあないか。」
ヘッペが声を掛けてきた。

わたし達より後方から遅れて来たのは、
カヴァが用意した厳寒馬の橇の部隊。

厳寒馬はカヴァが固有する背の低い馬で、
短足馬やカヴァ馬などの蔑称もある。
毛深く厳しい寒さに耐えるとされ、
カヴァの王は厳寒馬と共に過ごし、
冬越えをして後世の創作にも語り継がれ、
いまも蹄鉄の図柄の繍旗を掲げている。
ひと慣れした性格で、走ることより
ひとの荷物を運ぶ仕事を好む輓獣。
ネルタとの戦争でも、
カヴァが山に道を築く際に重用された。
橇の部隊は麓の斜面を滑り落ちないように、
樹林のあいだを蛇行して進むので遅い。
カヴァの工兵が作った橇は
興味深い作りをしている。
摩擦抵抗の低い雪の上で、
逆方向に下がらないようにする為、
橇の板の裏側には鹿の毛皮が
貼り付けられていた。
水と食料、燃料と非常用のテントなど、
降雪時の備えを積んでいる。
その橇に積まれる形で、
ヘッペとマイダスが別々に乗っている。
橇に乗るには
カヴァに相応のお金を
支払わなければいけない。
「僕に乗っていくかい?」
ヘッペには品という概念が存在しない。
「あなた達、徒歩組のはずでしょ?」
斜面に沿って歩いていたタルヴォと同じく、
彼らは徒歩で移動しているはずだった。
ヘッペは橇の上で腕を組んで立ち、
マイダスは毛皮と毛布に包まり、
わたし達を見て歩く様子もない。

「提案した人間が最後を歩くのか。」
「僕がマイダスの橇の
お金を出したんだぞっ。」
「それは親のお金よね。」と、わたし。
騒ぐヘッペに気付いて、
彼を警戒したハーフガンが
斜面を滑り降りてきた。
橇には有輪犂ほどではなくても、
カヴァの労力と技術が詰まっている。
その為、オルデウスは統治者達が相手でも、
王女以外に無償で貸すことはしなかった。
「あいつ、蹴落としていいわよ。」
サンスァラ王女がハーフガンに指示した。
「わっ!」
ヘッペの橇は木の根か石に引っ掛かり、
重心を崩した彼が台から落ちると、
斜面を滑ってそのまま木に衝突した。
「酷いじゃないかぁ!
待ってくれよぉ!」
「そのまま帰っても良いからねぇー。」
痛めた脇腹を擦っている彼に向かって、
呼び掛けたわたしの声は森林に響いた。
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