第11章 第4節 足跡の差(第2項)
「エルテルの繍旗もあるわね。
タルヴォが来たのかしら。」
近くに犬の横顔を描いた繍旗を見つけて
王女が言った。
エリクの薨去により
エルテルの領主は彼の弟、
タルヴォがその地位を継いだ。
「わしなどの肩書きでも、
利用できるもんだな。」
無産街出身のマルフは満足気に頷いた。
弓矢を描いたオーブ領の他に、
3つの正六角形を組み合わせた
蜂の巣を示す、メルセ領の繍旗もある。
「あなたがサンサなんて名乗れば、
メテオラが訝しむでしょうね。」
「オーブのいまの領主? よね。
え? 出自を明かしてないの?」
「小心者の彼なんて
気にする必要はないわよ。
わたしの寝室に夜這いを企み、
襲おうとした男よ。」
王女が素直に襲われる性格とは思えない。
「彼を酔わせて
追い返したりでもしたの?」
ファウナが似たようなことを、
エイワズ議長に行って失敗していた。
「わたしがそんなことしたら大問題よ。
お酒の力を借りた彼は、
わたしの代わりに寝ていた彼の妻に、
股間の証人を蹴り潰されて夫としての…
男としての尊厳を失ったのよ。」
「もっと酷かった…。」
メテオラを陥れた、
王女の去勢計画が想像できた。
「名前はただの記号だもの、
勝手に名乗ればいいわよ。」
「責任はわたしだけのもの、でしょ?」
王女の言葉にわたしが続けると、
彼女は満足気に頷いた。
以前に同じ言葉をスーから聞かされていた。
「巣穴掘りの姿はないわね。
彼って貴族病らしくて、
来られないのでしょうね。」
「流言…。」
島の北端の洞窟港を示す錨の繍旗は
見当たらない。
「ドレンは来ておらんな。
それにメルセ家など、ほれ。」
「あら、放蕩息子だわ。」
王女は頭巾と宝飾巾を素早く着用し、
わたしも宝飾巾で顔を隠した。
「やぁやぁ紐無し総督。
古臭い傀儡は去ったか。」
ペタの次代領主を騙るヘッペが、
わたし達を見つけると
泥の道を小走りで寄ってきた。
胸元には飾緒を金の鎖に代えて輝かせ、
癖のある金髪を紐で縛った碧眼痩身の男。
信用ならない笑みをこちらに向けている。
「なんでお前が来とるんだ?
わしはお前なんぞ呼んではおらんぞ。」
「僕こそがペタの次代領主だからさ。
ペタの代表として、
ここに立っているわけさ。」
彼はマルフを無視する。
名前も知らないわたしと、
銀髪のサンスァラ王女を交互に見て、
どちらかと会話を求めていた。
「わしが手紙を送った相手は、
メルセ領主のペタリオ卿だ。」
「カヴァの国宝と名高いお姫様、
サンスァラ王女が僕に会いたくて
招待してくれたんだろう。
怠惰と肥満の老人共が、
寒くてなにもないこんな僻地に
重い身体を運ぶはずないさ。」
「騒がしい星鳥ね…。」
サンスァラ王女がわたしと腕を組むと
耳打ちする。
夏に日陰の庭に現れたヘッペに対し、
サンスァラ王女は同じように呼んで
田舎者扱いして侮辱した。
いのに過ぎない。
「あんな怪しい手紙の一つで
禁足地に来る人間なんて、
未来ある若者か、忠実な犬か、
酔狂と退屈を持て余した老人くらいだ。」
「お前は口を開く前に慎みを学べ。」
マルフから早々に不興を買うヘッペ。
この場に居ないオルデウスの悪口も並べる。
遠くで湖畔を走っているその老人は、
雪の降る中でなぜか上裸になると、
筋肉を見せつけて兵士達を激励している。
「それで、
どちらがサンスァラお姫様なので?」
いつまで経っても紹介されないヘッペは、
頭巾と宝飾巾をしたサンスァラ王女と
わたしを見比べて判断できずにいる。
ハーフガンが彼の後ろに音もなく近寄った。
わたしはハーフガンを見て言う。
「下がっていいわよ。」
普段より声を高めに意識し、
サンスァラ王女を真似して
険しい口調にする。
「ヘッペの記憶は鶏にも劣るのね。
わたしの顔も名前も忘れたの?」
「子供ではないんですから、
いつまでもその名前で…。
ん…美しいい金赤色の君が…?」
彼は目を細め、
宝飾巾だけしたわたしを見ては
記憶を混同している。
どんなに記憶を辿ったところで、
わたしの名前が出てくるはずがない。
近付いて踟いがちに握手を求める手に、
イオスが爪で引っ掻いて威嚇した。
「だぁっ! この汚らわしい獣めぇっ!」
「サンサお姉様。
この方は先程から、
どなたとお話しているのですか?」
「ふふっ。」
サンスァラ王女も声音と口調を変え、
似合わない演技をしたせいで、
堪えきれずに笑ってしまった。
――ムネモスの真似は狡いわっ。
「おい。目障りだ、扇持ち。」
ヘッペの後ろに立った男が、
彼を罵倒すると脹脛を踏み蹴った。
蹴られたヘッペは跪いて倒れ、
泥に両手を突く。
「なぁにするんだっ! マイダスッ。」
「あぁ、マイダスも来たのね。」
サンスァラ王女が男の名前を囁く。
長身で線が細く薄白い肌に、
清潔感のある黒髪の若い男。
マイダスと呼ばれた表情に乏しい彼は、
目を細めてわたしの赤い髪を見てくる。
白羊毛のコートの中には
黒のキャシュクとスラックス、
銀糸の飾緒を胸元に渡らせている。
彼の黒装束姿は、
一見するとオーブ領の人間と見間違える。
「…ドレイプか?」
「彼女は、日陰の庭のサンサよ。
名前は知ってるわよね。
あなたは会ったことないでしょう。」
頭巾と宝飾巾に顔を隠す
サンスァラ王女が紹介すると、
マイダスはわたしに顔を顰める。
マイダスはサンサの名前を知ってはいても、
彼はわたしを知らない。
「マイダスは狂気の女神じゃなくて、
贔屓の溝女が気になるのさ。」
「喧しいな。」
彼はヘッペを容赦なく踏みつけた。
「あなたの活躍は耳にしているわ、
オーネック・マイダス…よね。
分水街で銀行をやっている。」
わたしが右手で握手を求めると、
彼は一瞬迷ってもこれに応じてくれた。
握手は痛みを伴った。
寡黙に見えるマイダスは、
わたしになにかを求めて口を開く。
「銀行以外も土地と建物の管理や、
事業への出資もしている。」
「レデの件では世話になったみたいね。」
「資産の運用や融資の相談なら、
娼婦であっても歓迎してやる。」
取引相手に使う常套句に、
サンスァラ王女が隣で溜め息を吐いた。
「頭はお金のことばかりね。
もうメテオラとは会ったかしら。」
「あぁ。同郷だからな。
あいつ、おかしな髪型をしてたぞ。」
「あなたが流行に疎いだけよ。
それでよく銀行屋が務まるわね。
今日はヘッペを連れて、
禁足地まで散歩に来たのかしら。」
「首輪をしてくれないと困るわね。」
わたしの言葉にマルフが哄笑する。
「僕ぁ、赤土の丘に行くと騙して、
ミカでも連れてこようと思ったのさ。」
「寝言が言いたけりゃずっとそこで寝てろ。
そのうち野犬が掘り起こしにくるだろ。」
マイダスは何度も踏みつけた。
「ミカ?」
「オレの銀行の後継だ。」
マイダスに説明されて周囲を見渡しても、
それらしい人物はこの場に居ない。
「アレは生意気盛りのガキさ。
カヴァとの協定にも
口出ししてきやがった。」
「反抗的なら、
あなたに良く似て将来有望ね。」
王女が言うので疑問が浮かぶ。
「親子であってもオレは上役だ。
上意下達も理解してないやつを
表に出せるか。」
「礼儀を知らない相手なんて、
それだけで迷惑だものね。」
わたしが言って、
地面と肌を重ねる迷惑客に視線を落とすと、
マイダスも鼻で笑う。
泥に汚れた絨毯がなにか喚く。
マイダスはヘッペに比べて察しが良く、
王女から紹介されただけで状況を理解し、
わたしを受け入れている。
マイダスには別の狙いがあった。
「夜の館といえば、
1番部屋のドレイプが
変わったようだな。」
いまの1番部屋はセセラが入っていて、
メノーは冬を前に引退した。
彼の知るサンサではないわたしに、
その理由を求めている。
「本人の居ない場所で、
すべきでない話ならしないわよ。
夜の館は、流言は好まないわ。」
「浅ましいわね。」
わたしの言葉に王女も同調する。
「…ここは館ではないし、
辞めたのならばもう
娼館の人間ではないだろう。」
こんな場所で彼は執着して不満を見せる。
ドレイプを辞めたメノーでも、
初対面の相手に他人の話をする必要はない。
こちらを受け入れてくれたからといっても、
わたしは手札を晒す愚かな小娘ではない。
「風まで出てきたな。
出発は明日の天気次第だ。
降雪が長引くようならば、
わしらも引き返すぞ。」
「その心配はいらないわ。」
「それで会えるのか?」
「えぇ、会えるわよ。」
マルフに代わってマイダスが訊ねると、
王女は自信を持って答えた。
「…まぁだ未練たらしく
あの溝女の話かい?」
マイダスの絨毯になって踏まれたヘッペが、
首を絞められた雄鶏の鳴き真似をした。
「ヘッペは目も悪ければ、
察しも悪いのね。」
彼に吐き捨てるように言う王女を見た。
この旅の理由を考えているわたしも、
集められた統治者達の本当の目的を、
まだ知らされていない。
「あなたの知りたがっていた、
この島の管理者に会いに行くのよ。」
王女が耳元でわたしに囁いた。
◆
日が落ちる頃、サンスァラ王女と共に
わたしはカヴァの天幕に招き入れられた。
王女の父、オルデウスは
大変な大酒飲みだった。
ネルタとの争いに勝利した彼は、
ネルタの地に石碑を建てた。
食材を持ち込んでくれたことや、
料理をしてくれた娼婦団に対し、
わたしは感謝して頭を下げた。
「遠慮せずに食べなさい。」
サンスァラ王女が促す。
オーブ領の兵士達が近くで狩った兎や鹿、
ネルタに自生していた白ネイプが並んだ。
「オーブの兵は猟師だけあって
処理が丁寧だ。
街で食う下手な肉より旨い。」
マルフはカヴァの料理の辛さに、
汗を流しながら喜んでいた。
オーブの兵士も遠征の最中に、
統治者達に生肉を提供せず、
節度を弁えている。
わたしは家畜の餌と呼ばれた白ネイプを
懐かしみながら噛む。
「ん…?」
分水街の赤ネイプに慣れたわたしは、
口や鼻を通る青臭い味に首を捻った。
離宮でアイリアに提供された、
野菜の飲み物を思い出させる。
「白ネイプなんて溝女と家畜の餌ですよ。」
ヘッペがネイプを掬って地面に捨てた。
料理を用意した娼婦団の女が
ヘッペの隣に座らせられると、
彼の口に直接料理を捻り込んだ。
ヘッペは口の中に無理やり入れられた
ネイプを熱がり、騒いでいる。
塩気のある肉や辛い料理も、
スープに浸すなど調整する王女の食べ方で、
わたしの舌も慣れてきた。
硬く味気のないパンも噛み続けると、
その食感や音が癖になる。
気を良くしたオルデウスは飲み比べを行い
ヘッペを酔い潰し、次はオーブの領主、
肉付きの良いメテオラを負かした。
メテオラの連れてきた
黒・白・褐色の体毛を持つ大型の犬が、
仰向けで寝る彼の隣に佇む。
南部の宴にマルフは馴染めず、
エルテル領主のタルヴォや、
マイダスも迷惑がって口を閉ざした。
サンスァラ王女は酒も飲まずに、
オルデウスの様子を懐かしんで
静かに笑っていた。
犬が苦手な王女は、
宴の料理をあまり口にはしなかった。
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