
「あら、起きたわね。」
わたしは寝惚け眼でテントを這い出ると、
湖を眺めるサンスァラ王女が言った。
分水街の鐘楼の音は聞こえず、
寝床の硬さと冷たさで目が覚めた。
オーブの山脈から日が昇る前のネルタの朝。
南には雲と雪を被り、
銀色に輝く天蓋山が聳える。
「カヴァも分水街も冬は寒い方だけれど、
ネルタはまた違う寒さよね。」
「カヴァは海からの風が
山から降りて来るんだよね。
ネルタの今日は
雲があるからまだ暖かい方だよ。
晴れの日の朝なんて
寒くて霧が濃くなるもの。」
「これからまた雪が降るわね。」
サンスァラ王女は震え、
胸元に向かって呟くと
イオスの鳴き声がした。
薄白い肌をした王女が、
雪と同じ色のイオスを抱えている。

「気分はどう?」わたしは訊ねた。
「土地と旅の食事に慣れないだけよ。」
「夜に話してて思ったの。
旅行用の携行食に、
テマッサを作れないかな。」
「あなたも料理を学んだら良いわよ。
館の厨房に立てるのは
男だけではないのだから。」
厨房への立ち入りを禁止された王女が言う。
「料理大全ははムネモスが
デーンに読ませていて、
まだ読んでないのよね。」
「知らないことがあるのは羨ましいわね。
見て。
あそこにおいしそうなのが居るわよ。
どんな味か知ってるかしら?」
「鴨だね。
鶏に比べると味が濃くて、
お肉にちょっと癖があるよ。
この時期は越冬で脂肪を貯めてるから、
脂身が多くておいしいのよ。」
湖畔に緑色の派手な頭を持つ雄と、
褐色の地味な羽毛の雌が砂礫を啄む。

鴨に狙いを定めるイオスは
王女に熾火の代わりにされ、
腕の中から抜け出せない。
「あそこの白いのはどうかしら。」
「鷺はどうかな。
食べられるのかしら?
悪食の鳥獣はおいしくないそうよ。
今朝は静かね。
鳴くと賑やか鳥だよ。」
白い羽根を持つ鷺は、
分水街でも浚渫している川で見かけた。

湖畔には一回り小さな鷺と、
さらに小さな鷺まで揃っている。
「あ、見て、雪烏よ。
雪烏は南部の鳥なのよね。
分水街でも見ないから。」
梢に止まる雪烏は烏よりも小柄で、
黒地に白い羽根を持つ。

真黒な烏が雪を被ったような柄なので
このように呼ばれていた。
「南部は遙遠代の種が多いのよね。
わたしの招待札にしていても、
館の子は孤児院育ちだから
雪烏を知らない子ばかりなのよ。」
彼女の招待札の絵柄に雪烏が入っている。
従業員のキーアも以前、
サンサの札を見てただの烏と呼んでいた。
「ファウナなんて
『知らん』って言ってたわ。」
洞窟港からやってきた
博識なファウナでさえも、
実際の雪烏は見たことが無いという。
「あなたはファウナの喋り方が
似合うわね。」
王女に意地悪な言い方をされ、
わたしは首肯して言った。
「あの鳥を招待札にしたのは、
老人や子供を襲って捓う
悪賢い性格の鳥だからよね。」
「違うわよ。
札の柄はルービィが適当に決めたのよ。
…違うわよね?」
館の札の事情までは知らないので、
わたしは肯否もせずに雪烏を観察した。
「集まって様子を窺ってるみたい。」
いつもの癖で2進法を使い、
無意識に立てた右手の指が痛む。
細い枯れ木の枝に留まる群れが囀る。
「あなたを警戒してるのよ。
あなたは目立つもの。」
「お姫様って鳥の言葉も分かるの?
言葉の源流は音、だよね。確か。」
頷く王女はよく猫と
一方 的な会話をしている。
「群れる鳥達はお喋りよね。」
王女の腕の中でイオスが口を叩きながら、
連続で細かく鳴いて警戒を示す。
「人間は発話や文字で
相手に考えを伝えるわね。
言葉や文字がなくても、
身振り手振りや表情だけでも
感情を伝え合えたりもするわ。
大陸のエンカーンから
島の言葉や文字に変わっても、
思考の起源は同じ。
大陸の物差しや天秤の錘を使っても、
本質は変わらないものね。」
「標準になってる物差しや錘が変わったら、
単位に置き換える手間があるわ。」
サンスァラ王女は頷いて、
わたしの意見を聞き流す。
「獣には文字という文化が
形成されていないから、
語彙が少なくて分かりやすいわね。
人間も鳥獣も同じ動物よ。
表現と手法が異なるだけで、
伝えている内容は単純なのよ。」
「単純っていうけれど、
それをどうやって身に付けるの?」
わたしの意見に王女は頷いたのに、
否定もせずにまた聞き流した。
「さぁ、朝食の前にテントを片付けて。」
「それなら王女様も手伝ってよ。」
「孅いわたしはいま、
イオスのせいで手が塞がっているから
難しいのよ。
頼むわね。」
右腕を失った孅い身体の王女は、
毛布を肩に掛けたままイオスを抱き、
わたしを見て微笑する。
「イオスぅ。」
イオスは目を細めて小声でミャオと鳴いた。
テントの中身を荷馬車に詰んでいると、
マリオンが朝食の準備を始めてしまう。

手際の悪いわたしの姿を見兼ねて
マルフが兵士に命じたらしく、
テントは男達の手ですぐに片付けられた。
精励する若い兵士でも
息の吐き方に疲れが見える。
わたしの右手は
相変わらず思い通りに動かない。
寒さで動かす度に痛みを感じて、
動かす前に身体が硬直する。
慎重にアームカバーを掛け、
わたしは無力さに深く溜め息を吐いた。
箱型馬車の中での狭い景色に飽き、
わたし達は荷馬車に移って周囲を眺めた。
代わりに、朝まで警戒していたハーフガンや、
マルフの連れた兵士達の休息に馬車を譲る。

これにはマルフも『甘やかすな。』
と、怒って見せた。

まだ3日目とはいえ長い旅なので、
王女が休息の必要性を説き、彼を諭した。
マルフには総督という立場があり、
兵士達も身分に縛られる。
一部の兵士にのみ休息を与えると、
不平不満を募らせてしまう。
指名役にさせられたわたしは、
疲れの見える若い兵士から順に休ませた。
どんなに身体を鍛えていても、
空気の薄い土地への順応には
体質の問題が出てしまう。
マルフが出せない提案を、
王女が口実として与えた形になる。
わたしが兵士達の休憩時間を、
曇り空の太陽の位置から割り出して
指示しなければならなかった。
書字板にスタイラスを立て、
簡易的な日時計を作り、
方角と時刻を爪で蜜蝋に刻んでいく。
言い出したはずの王女様は
毛布の上に毛皮を被せると、
イオスを抱いて中に入ったまま出てこない。
「こうすると暖かいわよ。ほら。」
冷たい風に晒される荷馬車の上で、
わたしもサンスァラ王女の
毛布に引き摺り込まれる。
毛皮に毛布とケープの頭巾で守られて、
風で耳も痛くならずに済む。
なにもしていない王女でも
方角や休憩時間の割り出しが精確で、
薄い影の長さと角度から導き出す。
泥の沼地にしか見えない湖を南へ進めば、
広大な水溜りへと変化する。
碧色の美しいかったネルタの湖は、
灰色がかった泥水のまま
木々も疎らで緑も褪せていた。
昼には湖の、
『括れ』と呼ばれる土地を抜けた。
――ダムが崩壊したのよね。
ネルタが湖の権利を主張し始めた昔、
ダムの建造に失敗した当時の話を
司書官のゴレムに教えて貰ったことがある。
湖の北側が沼地と化していたのは、
およそこの計画の失敗が影響している。
建材が多く流れて北側が被害に遭ったのは、
戦争が始まる前の20年以上昔になる。
イオスを抱いてサンスァラ王女が言う。
「周囲に木が無いでしょう。」
「うん…。」
泥に濁った水質はどこも同じで、
周辺にひとの住める建物もない。
焚き火の跡があり、
ひとが居た形跡が残っている。
ネルタはひとが住むには土地が狭く、
資源の乏しい中で家を建て、
農地を拓く為に木々を伐採した。
土中で腐った根は水を吸い上げず、
土と水が雨水に押し流されてしまう。
さらに乾季で水が失われると、
土中に空洞が出来てしまい、
地面の処々方々に穴が空いていた。
雪に埋もれた穴からは、
赤い目をした白毛の兎が顔を覗かせる。

ここはひとの住む土地ではなくなっていた。
「あなたの住んでいた見張り塔は、
対岸からでも見えるかしら。」
今日は湖との気温差のせいで
西の対岸さえ見えない。
「もう焼き落とされてるよ。
古い建物だったもの。」
王女は黙って蒸気で霞む湖を見渡した。
ネルタという国は、
元は複数の民族でできた国家だった。
湖の東側を治めていたソーマ族は、
20年も昔にあった第1次革命で
西のネルタ族に粛清された。
東のソーマ族と庇護下の民衆は、
殺され、土地を追われ、売られ、
北へと逃げて盗賊になるか、
分水街に移って無産街で難民になった。
ネルタ族はソーマ族の土地から奪えるものを
全て奪い、土地を死滅させた。
「湖底に差し込むはずの光が
泥に遮断されて、熱も届かなくなると
小さな生物が生きられなくなるのよ。」
「まだお魚がいるのね。」
濁った水の中でも、
湖面近くは光素が通るので魚影が見えた。
末期のネルタでの過剰な網漁が原因で、
湖にはお魚が減ってしまった。
「小魚は見えないでしょ?
卵を産んで孵化したところで、
水草も生えない泥の中では餌が無いから、
自分達で卵や稚魚を食べてしまうのよ。」」
「子殺しみたいな状況ね。」
「魚に人間の法律や倫理は通じないわよ。
再度この地で人間が活動するには、
生物が循環できる環境を作って
維持しないといけない。」
建物も全て破壊され、燃やされている。
「誰も住んでないんだよね。」
「建材や燃料に再利用ができても、
運ぶだけでお金が掛かるのよ。
マルフが肥料をエルテルに運ぶのとは
話が違ってくる。需給だけではないわ。
艀がもし転覆したら、
川が建材に破壊されたり川が詰まれば
途中で氾濫するかもしれない。
利点と欠点の他にも危険性を理解して、
対策を講じなければいけないわね。」
「放置せずに燃やすのは、
盗賊の拠点を潰す為?」
「それもあるのかしらね。
ここには不可侵の条約があるのよ。」
「条約? 法律の?」
「東部3領と洞窟港、いまの分水街、
当時は中央領が取り決めた古い名称ね。
カヴァみたいに誰かが勝手に開拓して、
土地を支配したり権利の主張を禁じたの。
条約がいまでは禁足地と
解釈されてるわね。」
「ネルタで定められてた禁足地って、
深い森のことだった。
天蓋山の麓の。
条約なんて記録は書室にはなかったよ。」
「マルフの…
旧メリエ邸に保管されてるわよ。」
「スーの?」
サンスァラ王女は頷いた。
「水の豊かな土地を捨て、
かれらは識ることを畏れたのよ。」
「識ることって、なにを?」
わたしの疑問に、
王女からの答えは返ってこなかった。
◆
「雪が降って来たわね。
頭巾をした方が良いわよ。」
サンスァラ王女は分かりきったことを
わたしに敢えて告げた。
王女の懐にいるイオスが、
舞う雪を虫と勘違いして
前足を振って爪を伸ばす。
湖の奥、馬車の行き先に
繍旗を掲げた天幕がいくつもあった。
金の装飾品を配した豪奢な馬が、
簡易な厩舎の近くで前足を上げて嘶く。
飼料や袋を積んだ荷馬車が西から来た。
炊煙が上がり、
銀髪の女達が忙しく動き回る。
「おい、旗を揚げぇ!」
箱型馬車から顔を出したマルフが、
先頭の馬車に向かって言った。
護衛が馬車の上で分水街の繍旗を掲げる。

夜の館でも掲げている
分水街の川を示す図柄は、
甲虫の背中に見えてしまう。
止めた馬車の向く先は、
蹄鉄が描かれた繍旗を掲げる天幕。

王女の腕の中で
舞う雪に燥いで暴れていたイオスは、
降車と同時に雪の上に解放された。
イオスは雪に埋まったことで、
初めて知ったその冷たさに震えて
わたしを見上げると、孅く鳴いて抗議した。
わたしがイオスを拾い上げると
雪の塊が白く長い体毛に絡み付き、
取り払わなければいけなかった。
雪と土の下の霜柱を踏めば、
軽快な音が身体に伝わる。
革の紐で編まれたサンダルでは
足先は雪ですぐに冷たくなる。
カヴァの天幕から老人が姿を現した。
髪の根元は色を失い、
銀髪をさらに白くしている。

赤色のコートに銀糸の長い飾緒、
彼がサンスァラとオルドラスの父、
オルデウスだとすぐに分かった。
――サンスァラ王女に似てるわね。
オルデウスはわたし達に近付き、
隣の王女の顔を見て震える。
「まさか、真にスァラか!」
「オルデウス王自らお出迎えご苦労さま。
手紙が届いて良かったわ。」
オルデウスはサンスァラ王女の前に立ち、
雪と泥の中でも周囲に構わず
カヴァの王が地面に片膝を突いた。
サンスァラ王女は左手を差し出す。
「血の気の多い王のことだから、
ドラスみたいに怒って物を投げて脅し、
剣先を向けて来ると思ったわ。」
「あの荒馬と一緒にするでないわ。
どんな王でも、老いの病には敵わんよ。
酷い別れ方をしたもんだ。
あのドラスが認めたのだから、
偽りの娘でも構いはせん。」
「あれから20年も経っているものね。
人質になった兄と交換に出して、
後悔してくれたならそれでいいわ。」
オルデウスはサンスァラ王女の左手を取り、
皺の刻まれた指で彼女の指輪に触れる。
「彼は分水街の総督のマルフよ。
会ったことはないはずよね。
この10年、
惜しみない支援をしてくれたわ。」
「いや、わしが支援を受けた側だ。
いまの地位にあるのも王女のおかげだ。」
マルフ達が握手を交わす。
「それでこちらはわたしの右の手。」
「おれの孫か?」
「親子揃っていつからそんな、
笑えない冗談を嗜むように
なったのかしら。ねえ。」
「…サンサよ。
はじめましてオルデウス王。」
わたしは深く頭を下げた。
滅ぼした国の娘と知らず、
彼は握手を求めてきた。
わたしはそれに応じる。
握手した右手は傷のせいでまた痛む。
オルデウスは老いているとはいえ、
力加減を知らない。
一瞬で背中に嫌な汗が湧き出て、
身体が寒さ以外で震えた。
「森の賢女、恒星の名のサンサか。
オルドラスから報告は受けている。」
「娼婦好きのドラスは
どんな評価をしたのかしら。」
思ったままを言って捓う王女に、
オルデウスは憤ることもなく、
笑いながら涙を零していた。
ネルタの城も別館も破壊され、
黒く燃えた残骸の上に、
白い雪が積もっている。
ネルタにあったものは
王女が望んだ通りに雪が覆い隠す。
そこにカヴァの工兵達が
肉体労働者を遣い、石の柱を運び入れた。
「あれはなにかしら?」
「碑を建てさせている。
ここに来たのは、
元々あれを建てる予定だったのでな。」
黒色の大理石で作られた太い六角柱が、
岩にある穴に挿して立てられる。
近くで練られていたモルタルを、
穴の隙間に埋めて柱を固定する。
「石碑…か?」
目を凝らしてマルフが言った。
「この地で死んだ者達に、
おれにはこんな手向けしかできん。」
「親子揃って不器用ねぇ。」
わたしの背よりも高い石碑。
――入植暦364年。
カヴァの王は、ネルタの湖にて、
死者の魂が星に還ることを願う。
黙読して握り締めた右手が痛む。
――あ、これは船乗りの弔いの言葉だわ。
火葬場でウラに向けた弔詞に似ているのは、
カヴァの氏族も大陸から来た船乗りの
末裔が起源だからかもしれない。
石碑に刻まれた流れる美しいい書体、
弔詞に残されたのは湖の名前のみ。
――ネルタの国はもう無いのね。
イオスが腕の中でわたしを見上げて鳴いた。
「王も詩を読むのね。
昔はあんなに嫌っていたのに。」
「お前が居なくなって20年。
城で詩を読む姿を見なくなって、
色々と変わったのだ。」
「娼婦を口説く為でしょう。」
「それもあるがな。がははっ。
スァラはその口振りも、
変わっておらんな。」
「ふふっ。
オルデウス王はこの地で、
忘れ物を見つけられたのかしらね?」
「…なんのことだ?」
わたしにしたサンスァラ王女の呟きに、
隣で聞いていたマルフが訊ねる。
わたしも発言の意味が分からず首を捻った。
「雪が降ってきたから、
中で休んだ方が良いわ。
ネルタの冬は老体に堪えるわよ。」
「お前と再会したせいで、
興奮して休んでられんわ。
ちょっと走ってくる!
よし! お前らぁついて来いっ!」
オルデウスは哨兵達を引き連れて、
コートを靡かせて走り去ってしまった。
「老いの病はどこ行ったのかしら。」
「お前に似ておるなぁ。」
「マルフも老いて目が悪くなってるのよ。」
否定するサンスァラ王女だけれども、
わたしは彼の意見に同意する。
――忘れ物って、なんのことかしら…。
わたしは隣の王女を見て、
そんなことを考えていた。
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