第11章 第3節 抱擁の刑(第4項)
馬車が急に奇妙な止まり方をした。
車外が騒がしくなり、
わたしはガラス窓に額をつけて
外の様子を眺める。
周囲は薄暗い泥の沼地で、霧が出ている。
どこかで犬が遠吠えし、
呼応しあっていた。
吠えて仲間を呼び、互いの位置を確認する。
ハーフガンが窓際のわたしを見て驚き、
わたしも彼と目が合って驚いた。
「ひぇっ…。
…馬車はどうしたの?
ハーフガン。」
「野犬が出て馬が怯えてる。
俺は前に出るから警戒しておけ。」
「分かったわ。」
背中を見送ってから扉を閉めると、
サンスァラ王女は震え、
クッションを手にしたまま硬直している。
「犬が居るって。」
「聞こえてたわよ…。
もうネルタに入ったのね。」
「ここがネルタ?」
わたしは窓の外を見た。
周囲にはなにもなく、荒れた泥の沼地。
「ここが湖の北端、
ナルキア族の跡地よ。」
王女は声を震わせて言った。
馬車は動き出したものの日没が近く、
マルフの兵士達は野営の準備に入った。
マリオンもお湯を沸かし、
わたし達に食事の用意をしてくれる。
東西を山脈で囲まれたネルタは、
分水街に比べて日照時間が短い。
野犬やそれを従える盗賊を警戒して、
ハーフガンが護衛達と見張りに立った。
夜になると建物の無い土地では、
水鳥の鳴き声や羽音がよく響く。
気温が下がって、風がテントを揺らした。
カヴァが定義する天幕とは違い、
テントは立って歩けるほど広くはない。
中には地面に床材になる木と絨毯を敷き、
毛皮と毛布を重ねてクッションの上に座る。
カヴァの軍で使われていた
組み立てられる寝椅子が欲しくなる。
わたしとイオスとサンスァラ王女は、
風に揺れるテントの中、
早めに保存食だけの夕食を終えた。
イオスの食事は食材を水に浸して、
塩分を抜いてから用意する。
わたし達は塩漬け肉に炒った豆と、
硬いパンを薄く切って焼く。
温めた山羊のお乳に肉や豆、
パンと香草を入れて完成する。
わたし達の肉は塩抜きが忘れられて塩味が強く、
焦げた豆のせいで咥内は苦味に支配される。
食欲を唆らない粥は、
食感が単調で胃に流し込むだけ。
目もお腹も満たされかった。
ランタンの灯火の中で歯を磨きながら、
旅の在り方を考えさせられた。
王女は体調が優れないらしく、
座ってイオスを撫でて静かにしている。
天蓋山の麓に近付くにつれ、
空気は薄くなって体調を崩しやすくなる。
マリオンは狭いテントよりも
馬車で眠るのを望んだので、
マルフもそれを許可した。
彼女には囮の役割もあった。
「わたしを連れてきたのは
ネルタを見せたかったから?」
「あなたが知りたがっていたのよ。
ニクス王女。」
「わたしは王女様ではないよ。」
「あなたは分水街に来てから、
ずっと防壁の向こうを見ていたでしょ?」
たしかにわたしは天蓋山をよく見ていた。
「…ありがとう。」
わたしは歯木を口から出して
頭を下げてから、改めて礼を言った。
――去るものは追わず。
それを言ったのは王女なのにね。
「お礼を言うのは間違ってるわ。
戦争でこの結末を望んだのはわたしよ。
分水街との断絶から20年掛かって、
国とも街とも呼べるものも
無くなったわね。
雪がもっと降り積もれば良かったけれど、
あなたには隠しきれないものね。」
サンスァラ王女は冷たく言い放つ。
「あなたの父、ケイロウに追われて
オーブに身を隠した。」
わたしは黙ったまま、
首を縦に振ってみせる。
20年前も昔、複数の民族によって
建国されたネルタで対立が起きた。
サンスァラ王女はその件に関わり、
100人もの賊を殺した女傑と
オーブ領で噂されていた。
王女の失踪はネルタとカヴァの戦争を招き、
戦争の末期にはわたしは塔を追い出されて
地下での暮らしを強いられた。
「ルービィの娼館は、
わたしにとって良い避難所になったわ。」
「その時にはもう
ネルタの行く末が見えてたのね。」
「言ったでしょう?
他人の考え、群集の行動は
誰にも分かるはずはないわ。
ケイロウは、わたしの想定から外れて、
手札を失って最も悪い選択を取ったわ。」
「島の支配ね。」
サンスァラ王女が頷き、なおも続ける。
「山に囲われた蹄鉄のカヴァと同じね。
この島の禁足地に位置するネルタに、
できることは無いでしょう。
弱さを理解して武力を行使する。
湖という水源を奪って権利を乞う。
生存権を得る為に命を奪い合うのは、
全て相反しているわよね。
民衆の命を代償にして、
かれらは学習するはずだった。」
『侵攻は交渉の最終手段。』
スーが言っていたことに繋がる
「略奪と難民に偽装した襲撃で、
民衆にまで被害を出したわ。
オーブに隠れて復讐を望んだわたしは、
広く、深くなんて考えてはいなかった。
ケイロウが死に、
ネルタという国が滅んだ。
湖周辺に暮らしていた民衆は住処を失い、
わたしはあなたから平穏を奪ったのよ。」
サンスァラ王女は、
革製の帯紐に佩いた短剣を鞘から抜く。
――彼女は嘘をついている。
あの日の朝のように
サンスァラ王女は刃先を摘み、
わたしには剣の柄を向けて差し出した。
「あなたは間違ってる。」
わたしが放った否定の言葉を受け止めて、
王女は黙って頷く。
ランタンの灯火に照らされた銀の瞳が
わたしを見る。
「サンスァラ王女はまだわたしのことを、
ネルタのお嬢様と思ってるのかしら?」
自虐の言葉に、込み上げる笑いを堪えた。
「人質の代わりでしかないカヴァの小娘が
分水街で生き延びてたからって、
鍍金の王は講和に応じたりしないわ。
お姫様は右腕を失っても
力が無いって自覚してないのよ。
戦争を終わらせられるなんて
思い上がりも甚だしいわね。
群集の行動は誰にも分からない、
って自分で言ってたのにね。
それともまだ犬を嗾ける
牧者様のつもりで居るのかしら。
結論ありきの話は、
願望の創作と言うのよ。」
腕を組んで右腕の痛みに耐えながら、
顎を突き出して王女に言い放った。
わたしの言動に彼女は頭を下げると、
細い肩を小刻みに揺らして笑い出す。
銀の髪が顔の半分を隠してしまう。
「ふふっ…。
あなたの言う通りだわ。
わたしは自分が思っているほど
賢くはないし、片手でできることは
限られてるわ。
代償に、自分の手も洗えないものね。」
サンスァラ王女は欠陥した自分を自嘲する。
「もう。
やっぱり分かってない。
できないことなら
できるひとに頼れば良いのよ。
他人を頼るのは得意なのよね?
あなたは自分が思ってるほど
大人ではないのね。
外見相応と言えるのかしら。」
ここまで好き放題に言われても、
なにも言い返さない王女にわたしは続けた。
「国が滅ぼされた結果、
住んでた土地を追い出され、
王女は檻の中で死んだわ。
平穏を奪ったって言ってたけれど、
見張り塔で独りだった落胤のわたしに、
普通なんてものは最初から無かったのよ。
ふふっ。
これがいまのわたし。
笑ってしまうくらい普通よね。
わたし達は両手に収まらないくらい、
色々なものをあなたから貰ったのよ。」
傷む右手でも構わず両手を広げ、
目の前で示指を立てて見せる。
「誰にも買うことのできないドレイプが、
わたしに押し付けてくれたからね。
これはあなたから、
わたしが貰った普通よ。
謝って損したでしょ。」
「それって…
否定されてばかりだわ。」
王女は困り顔を見せた。
「カヴァにはこんな諺があるのよね。」
わたしは低い声で、咳払いを真似してみる。
「他人は前髪を気にしない、ってね。」
わたしは彼女の顔に掛かる、
長い銀の前髪を掻き分ける。
サンスァラ王女は下唇を噛み、
それから声を震わせて言った。
「…ごめんなさい。」
――これが償いだったのね。
償い、許しを求めた王女に、
わたしは首を横に振って拒む。
「違うわ。
誰かに頼った時は、
ありがとうって言うのよ。
スーが言ってたでしょ?」
「スーってば…。
ありがとう、ニクス。」
涙で濡らした銀の目を細めて、
柔らかく微笑する。
「あははっ、イオスッ!
イオス? 聞いてた?
王女がありがとうだって!」
わたしは沸き立つ感情を堪えられず、
王女の膝で寝ているイオスに
跳び込んで起こした。
当然、これにも抗議の唸り声を放った。
寒く狭いテントの中、
わたし達は同じ毛布に包まれながら、
ランタンの灯火が消えても眠たくなるまで、
旅の食事や館の料理やお菓子の話をした。
彼女の甘い香りと、
温かく柔らかな腕に包まれて
わたしは眠った。
◆ 第11章 『天秤の貨』 つづく




