
分水街を囲う防壁は元々は検問所だった。
ネルタの湖で起きたダムの崩壊で、
禁足地から住処を追われた難民を
拒む為に建てられた防壁が南門になった。
馬車が1台通れるだけの狭い扉が開かれた。
分厚い防壁を通り抜け、
太い柱の横を馬車が走る。
わたしはお菓子のネージを食べながら
車窓を眺めた。
外から見た街は防壁に阻まれ、
火葬場の高い煙突も見えない。

口の周りについた砂糖を舐め取る。
ネイプとブレズの粉で作られたネージは、
アイリアが使用人のマーリャに
作らせてたものらしい。
中に包んで溶けたバターが生地を柔くし、
封じられていた香りが車内に広がる。
サンスァラ王女は自らのネージは、
馭者台に座ってわたし達の世話係をする
マーリャの孫のマリオンに与えていた。

――本当にネルタに行くつもりなのね…。
頬の塗料を剥ぎ取るサンスァラ王女と共に、
禁足地へと向かうことになった。
わたし達の乗る4頭立ての箱型馬車を、
2頭立ての荷馬車2台が挟んで
川沿いの道に列を作って走る。
「分水街はこの水道のおかげで
安定した暮らしできるのよ。
設計したカヴァの氏族が、
自分の国に持って行けなかった
大きな忘れ物ね。」
王女は箱型馬車の中で、
道の上を通る柱の先に視線を向ける。
陸に架かる長大な橋、水の道。
曲線構造が連なり、
街に清潔な水を行き渡らせる為の橋が
陸上から空に伸びる。
分水街では治水工事以外に
粘土や石材が豊富にあり、
水道の建築が発展していった。
「今日は浄水場まで行って、
予定通りならだいたい3日で
ネルタに着くはずよ。」
「思ったよりすぐに着くのね。」
「戦争が終わってから、
使われなくなっていた道を
マルフが補修しているのよ。」
「盗賊を掃討するついでに
整地したまでだがな。」
同じ車内で、
クッションに身を沈めるマルフが言う。
「あなたもお休みなっていいわよ。」
隣の王女が膝の上を叩いて、
姪と同じ方法でわたしを捓う。
この旅についてきたハーフガンが、
わたしを睨んで目を逸らした。
「エルテルやカヴァほど遠くないわね。
すぐに着くといっても、
なにもすることがなくて、
サラの言う通り退屈になるわよ。」
「たったの3日だよね。」
わたしはガラス窓から外を眺める。
防壁に囲われていない街の外側の、
褪せた木々の似たような景色が続く。
東西二つの山脈に挟まれ、
行き先には天蓋山が聳える。
わたしはネルタの森の緑、
塔から眺めた湖の青を思い出せずにいた。
日没を前に着いたのは湖ではなく、
広大な畑のように四角に区分けされた
浄水場と呼ばれる人工の池だった。
夕日に照らされた赤が眩しい。
ネルタの湖と分水街を結ぶ川の曲がり角に、
水の氾濫を抑える目的で作られた
広大な面積の貯水池がある。
夜の館の土地の何倍にもなる広さ。
池はいくつもの槽に別れ、
川から入るゴミを除去して泥を沈め、
石や布で濾過されてから水道に流れる。
本で読んだ知識があっても初めて見る場所、
自然の力に抗う為に、長い年月を掛けて
築き上げた人類の叡智の結晶だった。
『本が世の全てではないわよ。』
隣で白い息を吐くひとを見た。
「この浄水場に毒を流せば
ネルタは勝てたのよ。」
「恐ろしいことを口にするでない!」
サンスァラ王女が戯れに放った言葉に、
マルフが彼女を叱責する。
「ここから東に行けば、
マルフの農場があるわね。」
「農場? ってあの?」
二人はなにも言わずに頷く。
総督のマルフほどの資産家であれば、
郊外に農場を持っていてもおかしくはない。
ただの不要物と朽葉を集めて、
肥料にする場所だと思っていた。
それだけの理由であれば、
街から川を遡った僻地には作らない。
本でよく見かけるオレームの搾油所や染料、
魚油の工場などは原料の製造工程が原因で
酷い悪臭を放つとある。
過酷な労働とされていても需要は高く、
大抵は郊外に場所が用意されている。
下流のエルテル領へ肥料を輸送するのに、
不要物を街の上流へ運ぶのも
合理的ではない。
二人共、その事情を知ってはいても、
農場の作物までは説明してくれない。
分水街を共犯にした、二人の秘め事だった。
わたし達は浄水場の近くに建てられた
宿舎に通されて、静かな興奮の中で
1日目の夜を過ごした。
◆
2日目。
王女達の言う通り、旅は退屈になった。
本を持っていなければ、
話し相手もサンスァラ王女しかいない。
レデとジールに相談されたこと、
メノーの病院で別館を見学したこと、
館を訪れたエイワズとの会談など、
サンスァラ王女に夜の館での近況を話した。
彼女はわたしの話を聞いても、
笑って頷くばかりで
興味を示さなかった。
浄水場を越えると、退屈な景色が続く。
川沿いの道の東西は
大小様々な山に囲まれ、
枯れた野原に焼け朽ちた家の残骸が見える。
ひとが居なくて放置された
荒畑にも見えるけれど、
雪で判別できない。
道中にいくつか立っている杭は
なにかの道標か、土地を区切った形跡か、
または誰かの墓かもしれない。
それらは川沿いを進むだけの
わたし達には用を成さない。
南に進むほど道は荒れていく。
残雪の中に新しい轍があり、
寒さの中でも植物は花を咲かせる。
水辺草や南部草は誰も採らないので、
伸びきると枯れて雪の重さに倒されていた。
日中の食事は4回行って馬を休ませる。
水と干し草と根菜を与え、
わたし達も軽食を摂る。
世話係のマリオンが
寒冷な南部の土地と慣れない旅により、
少し体調を崩している様子だったので、
暖かい食事を与えて車内で寝させた。
手で解したパンと、
飲み水を沸騰させたお湯を少し。
乾燥させたバイテスの粒から得られる、
濃い甘味が口に広がる。

サンスァラ王女は中の種を吐き飛ばし、
わたしを見て挑発する。
「浅ましいよ。」
「ここは館ではないのよ。
こんなこと出来るのは、
ここだけなんだから。ほら。」
わたしも真似してみたけれど
種は飛ばず、実ごと足元に落ちた。
サンスァラ王女や兵士達にも笑われ、
浅ましさと恥ずかしさで耳が熱くなった。
天蓋山の麓の土地は空気が薄くなり、
時間を掛けて身体を馴染ませる必要がある。
マルフは鼻や頬を赤くし、
わたしの口から出た白い息が風に流される。
冷えた空気が鼻腔を突くと、
その懐かしさと痛さに目が濡れた。
道中は想像を超えて退屈だった。
今になって思い返せば、
ヒュルゲン邸から分水街への道程も
寝て過ごすだけでやることもなかった。
同乗していたマルフとハーフガンは、
長時間の箱型馬車を窮屈に感じて
兵士達と荷馬車の方に移った。
長く休んでいたマリオンの体調も整い、
車内で二人きりになったわたし達に
サラシュの助言は役に立った。
▶