第11章 第2節 偽貨の質(第3項)
「長旅なのだから、
肌着は多めにご用意なさって。
冬は汗で濡れた肌着が原因で、
病気や凍傷になる危険があるのよ。」
サンサの部屋でコートを着て
出掛ける準備をしていると、
サラシュが奇妙な助言をした。
彼女は、カヴァの軍に追従する
娼婦団の娼婦に扮して、
この街までやってきた。
わたしに会いに来たのかと思えば、
どこか遠くに連れ出そうとする。
「…サンスァラ王女はカヴァに居るのね?」
「いいえ?
いまは分水街の総督の館ですよ。」
「…まだ居るの?
マルフの邸宅はすぐ近所よ。
旅の用意なんて必要ないわよね?」
「わたしも滞在してますよ。
あ、こちらの箱は四時の札ですか?
わたしも分水街で、
孤児が作った札を見たわ。
カヴァの技術に劣らない出来でしたね。」
棚の上に置かれた箱を指示する。
目的地を説明するつもりのないサラシュに、
わたしは広く深く考える必要があった。
「サラシュ王女の戯れに
付き合わされてるのかしら?」
「そんな他人行儀な呼び方しないで。
友好を築きたいだけですよ。」
和睦の証にオルドラスから貰った銀杯は、
棚に飾ったまま使っていない。
「王女様はまだわたしを
試しているのかしら?」
「もう、意地悪ね。
旅の道中はお暇なのだから、
遊び道具があっても困りはしないわ。
退屈は死を与えるの。」
「目的地へは何日くらい掛かるの?」
サラシュは片手で指を母指から順に立て、
全て開いてわたしに見せた。
「ここにあるの服を
全て持って行きましょう。」
「そんなに遠くへ連れて行くつもりなの?」
わたしは疑問を抱きながら
棚から肌着と股布を有るだけ鞄に入れて、
言われるまま四時の札箱を詰めた。
――この股布は
外では売ってないのよね。
この館に来るまで知らなかった股布は、
いまでは欠かすことのできない服に
なっていた。
「こちらの紙の束は?
大陸語ですね。」
「それは前に居た子の忘れ物。
緩衝材に使われるゴミの羊皮紙ね。
持っていかないわよ。」
スーの忘れ物は彼女の血で汚れ、
黒くなったものもある。
「イオス。足を乗せないで。」
羊皮紙に座ったイオスが、
抗議して低い声で唸る。
「あら、この子も
一緒に行きたがってますわ。」
「イオスも行くつもり?」
イオスは返事をせず、
目を細めてわたしを見つめてくる。
「普段から連れていますよね?」
「なにも言わなくても
この子が勝手に来るのよ。」
仕方がなく片足を前に出すと、
イオスはわたしの太腿を蹴って
胸へと抱きついた。
スーに貰ったソックスは、
爪で傷ついて破れている。
「お利口ね。
考えを理解しているみたい。
芸でも仕込みました?」
「そんなの教えてないわよ。
イオスは言葉を理解できなくても、
考えは理解してくれるのよ。」
「賢いのね、あなた。」
サラシュに額を撫でられると、
イオスはミャオと太い声で鳴いた。
アルとスーが居なくなって、
あれからずいぶん経っている。
新しいソックスを取り出しているあいだ、
サラシュは部屋の奥に行ってしまう。
「そちらはサンスァラ王女の部屋よ。
同じ王女様でも勝手に入ってはダメよ。」
わたしが諫むと
彼女は素直に立ち止まって部屋を見渡す。
「何年も居たにしては、
本当に物がありませんね。」
サンスァラ王女は
10年以上もこの街に住んでいる。
スーとは違って物を部屋に持ち込まない。
サンスァラ王女がオーブ領に依頼して
書庫を埋めていた残骸については、
彼女の名誉の為に黙っておいた。
「…彼女は物を持たないわね。」
「あちらのレリーフも叔母の物?」
サンサの部屋にはわたしが来た時から
古い鏡が裏返された状態で飾られている。
「いつの時代に作られた銅鏡かしらね。
裏にソーンの蜥蜴があるから、
大陸の意匠よね。」
緑青に覆われた鏡の裏面には、
大陸北方のソーンが繍旗の図柄にする
蜥蜴の姿が描かれている。
「大陸の?
そんな土地との繋がりも
持っていましたの?」
「詮索も浅ましいわ。
もう用意したから行くわよ、わたし。」
「あぁっ、わたしも一緒に行きますから。」
わたし達が部屋を出ると、
様子を気にした従業員のキーアとナディが
慌てて仕事に戻っていく。
メグは扇をあおぎながら
二人とは反対側の外廊下を歩き出した。
「小綺麗で賑やかな館ね。」
「後でよく言っておくわ…。」
従業員の浅ましい行動を目の当たりにして
サラシュは厳しい評価をする。
本に書かれる説明とは違い、
彼女の言葉は意味の通りに
受け止めて良いものではない。
冬に入れば庭園に敷かれた緑は褪せて、
所々に南部草が伸びている。
冬には止められる噴水も、
落ち葉と砂埃で詰まり、
雨水が溜まったままになっていた。
花首ごと落ちたカミーリャの赤い花も、
放置されて日が経ち褐色に変わる。
――入ってきたフランジに、
労働体験をさせてないのね…。
事件が立て続けに起きて、
館の繁忙期と重なってしまった。
――わたしが原因でもあるのよね。
ドレイプのレデとジールの姉妹や
フランジをまとめたレナタが居なくなり、
サンスァラ王女が不在の館は
綻びを見せはじめた。
ドレイプ棟の階段を下りて、
マルフの館に近い北の出口へと向かう。
背負う鞄も抱えるイオスも重たい。
「…サンサ姉様、お出掛けですか?
もうすぐケーキが焼けますよ。」
食堂から出てきたムネモスが、
わたし達に呼び掛けた。
ムネモスは身体から香ばしく、
果実の爽やかな甘い匂いを漂わせている。
「急だけれど、
いまからマルフの邸宅に
行くことになったのよ。」
「えぇー。
出掛けるのでしたら、
私も帯同しますのに。
一緒に食べないのですか?」
「それは楽しみだわ。
ケーキが焼けましたら、
マルフの館に届けてください。
二人で一緒に食べましょう。」
サラシュは言ってわたしの腕を掴む。
左腕までも重たい。
「はい?」
「無理を言ってはダメよ、サラシュ。
運ばなくていいわよ。」
サラシュをまだ紹介していないので、
彼女がカヴァの王女であることに
ムネモスは気付いていない。
無言でわたしの顔を見るサラシュは
それを愉しんでいる。
「ムネモス、後を頼むわね。」
「…分かりました!」
わたしの発した言葉で
なぜかムネモスは発奮してえくぼを見せた。
奇妙な不安を抱きながら、
わたしは館を去った。
◆
護衛のハーフガンが、
黙ってわたし達の後ろをついて歩く。
サラシュに付き従うのは
娼婦団にいた年長の娼婦らしき女。
今日は深い褐色をした
羊毛のコートを着た彼女が歩くと、
服の下から金属の擦れる音が聞こえる。
彼女はサラシュの護衛を務める女騎士で、
コートの中で剣を握ってわたし達に
近付く不審者を甲手で容赦なく殴りつける。
出遅れたハーフガンも呆気に取られていた。
酔っ払いだった以前の彼なら、
同じ目に合っていたのかもしれない。
サラシュのように目立つお姫様では、
護衛の苦労が偲ばれる。
「サラシュの望みは
わたしを館から追い出すこと?」
「歩きながらでよろしいかしら。」
サラシュは後ろを気にしながら囁く。
未だに彼女の行動の目的が掴めずにいる。
「…構わないわよ。」
身分でいえばサラシュの方が上で、
わたしが拒む理由もない。
それでもカヴァの王家に諂う理由もない。
彼女は頷いてから言った。
「サンサは恨んでいませんか?
わたしや父、祖父のことを。」
サラシュはやはり奇妙な質問をした。
サンスァラ王女は捕まった兄、
オルドラスの代わりにネルタに行った。
ネルタで右腕を失った王女はオーブに行き、
そこではサンサと名前を変えて
『森の賢女』と敬われた。
彼女自身の境遇については
話を聞かされてはいない。
わたしが彼女を哀れに思うこともないし、
彼女はわたしに共感を求めたりもしない。
以前、サンサはわたしに
復讐について訊ねてきたことがある。
カヴァに追い出されたサンサは
国に恨みを募らせる様子もなく、
オルドラスとの再会を喜んでいた。
「恨む? サンサが、サラシュを?」
「…ニースな話ね。
サンサはあなたよ?」
勘違いを指摘してサラシュは頷く。
わたし達は似た会話を
宴の中の寝椅子で交わした。
その時とは立場が逆転していたので
わたしは笑ったけれど、
サラシュは笑みを見せない。
「あなたからしてみれば、
わたし達は敵ですよ。」
サラシュがわたしに接触したのは、
ネルタの落胤だったわたしの
真意を探るのが目的かもしれない。
サンスァラ王女は、わたしの出自を
姪に言い伝えるひととも思えない。
サラシュは経験から来る鋭い感覚で
行動している可能性もある。
どちらであったとしても、
こちらの手札を見せる意味はない。
わたしは彼女の民族に対する考えとは、
別のことを思い浮かべて言う。
「復讐に怒りという感情は必要ないそうね。
怒ってばかりでは
お腹が空いてしまうもの。
逆かしら?
貧しさからくる差別を憎んで、
みんな怒ってるのかもしれないわね。」
「差別…。」
サラシュはこの言葉の意図を考えていた。
飢えた相手に与えるパンを、
二つに切り分けるのとでは意味が異なる。
サラシュは王家の娘として生まれた。
王位継承権はオランドルにのみ与えられ、
民衆に対しては格差が存在する。
国家や王家への忠誠や出世目的の貴族以外、
遠征に駆り出された兵士や娼婦達は
困窮した民衆が大部分を占める。
そんな遠征でもサラシュは娼婦団に紛れ、
この街にまでやってきた。
考えて深く頷く彼女を見て
わたしは続けた。
「あなたの言う通り、
この街には戦災孤児は多いわね。
赤い髪だからと言ってカヴァに復讐心を
抱いているとは限らないわよ。
復讐は生きる活力になったとしても、
お腹を満たしてはくれないもの。」
「ネルタの王女でしたら会談で父を欺き、
カヴァを陥れることもできたはずです。」
――思慮深く、聡明な子なのね。
お腹の奥底から笑いが込み上げてくる。
「サラシュが想像する運命の女は、
ネルタ復興を大義にして民衆を煽動して、
湖の次はこの街を占領するのかしら。」
――トリンのように。
「前提が間違ってるのよ。
わたしはネルタのお姫様ではないわ。」
「父を籠絡して
軍司令官まで抱き入れたのでしょう?」
「人聞きが悪いわね。
言ったのは誰かしら。」
その人物がすぐに思い浮かび、
堪えきれずに笑ってしまった。
「ふふっ…。
わたしがオルドラスやあなたから
直接なにかされたわけでも無いのに。
でも、恨まれてるのなら分かるわ。」
「え?」
――あの日。
――別館の地下から外に出され、
硬いパンと藍藻のスープを貰った
王の処刑の日。
「わたしにとっては驕奢な食事を頂いて、
彼らに感謝の言葉の一つも
用意していなかったもの。」
「あれは軍の粗末な食事です。
侮辱と捉えても構いませんよ。」
わたしの言葉を
東部風の冗談と受け止め笑いもせず、
彼女は考えを表せずに複雑な表情を見せる。
サラシュが吐いた白い息の一つさえも、
魂のようなものを感じる時がある。
「あの日のわたしにとっては
貴重な食事だったのは確かよ。」
ネルタとカヴァは20年以上も対立し、
命の奪い合をしていた。
ネルタの王族で生き残りのわたしを、
かれらが恨んでいても不思議ではない。
――オルドラスやカヴァは
軍を使って強い復讐心と、
怒りの感情に見返りを|求めていた。
「ネルタの王女を騙ったところで、
良いことなんてなにも無いわよ。」
わたしはイオスを彼女に預けて、
右腕のアームカバーを捲って見せた。
肌に浮かび上がる長い傷跡。
これを見てサラシュは息を吐く。
「犬の尻尾を踏んだ結果ね。」
トリンに斬られた腕は、
右の指を動かせば痛みが右腕全体に走る。
昔のひとは治療できない症状に対して、
呪いと呼んで原因を突き止めなかった。
フランジが恐れる解剖学の本を読み解くと、
身体の仕組みを知ることができる。
腕を動かす糸状の器官が切られると、
糸を断たれた操り人形も同然に
手の指は動かせなくなった。
サンスァラ王女がこの糸を繋げ直すと、
傷が治る過程で痛みが発生する。
筋肉痛とは比べものにならない痛みだった。
彼女の行った腕の修復技法は、
医師やメノーも知らなかったようで、
わたしの腕は病院でも珍しがられた。
「だからあなたはサンサを名乗るの?」
「名乗ってもなれるはずがないわ。
本質、構成する要素が違うもの。」
勉強会でのメノーの教えは
改名する分水街独自の文化があってこそで、
カヴァから来たサラシュには通じなかった。
ガラスのような碧色の瞳がわたしを見る。
サラシュが見せる表情はどれも、
ひとを惹きつける魅力がある。
「サラシュは劇場で演劇は観たかしら。」
「演劇? えぇ…。なに?」
「カヴァには検閲法があって、
演劇が規制されているのよね。
王家でも観劇は禁止なのかしら?
でもあなたは観劇するより
舞台に立つ方が似合っているわよね。」
「なんのお話なのかしら?」
困惑を続けるサラシュに満足したわたしは、
首を縦に振って逸れた話を戻した。
「あなたがスァラと呼ばれても、
サンスァラ王女にならないのと同じよ。」
サラシュは頷き、表情を明るくして笑う。
「ふふっ。
そんなお話でしたら、
偽貨も鋳直せば良いと言いますね。」
「それは偽貨を使う側の言い回しね。」
オル銅貨を持つカヴァでは、
サンスァラ王女達が市場に紛れ込ませた
偽造硬貨を融かし、彼女の像を作っていた。
「孅いわたしには、
死を受け入れられなかったのよ。」
わたしはラミーの死から目を背け、
スーを死なせた責任から逃げている。
それを聞いたサラシュは興味深く話す。
「カヴァには昔から、
こんな諺もありますよ。
大陸より以前からある言葉です。」
アームカバーを戻して
イオスを受け取ろうとしても、
彼女はイオスの額を撫でて話を続けた。
「他人は前髪を気にしません。」
「えっ? 前髪?」
イオスの顔を覗き込んで、
サラシュは微笑する。
「カヴァに伝わる気休めの言葉です。
大きな失敗や強い挫折、
屈辱を和らげてくれます。」
「それが、前髪なの?」
わたしは由来に首を捻る。
「鏡に映って見える自分の姿は、
前後を入れ替えただけの鏡像だからです。
鏡を見た本人には、
前髪や鼻が最も近くに見えるものです。
自分しか見ない鏡を覗いたところで、
鏡は自分を正しくは評価しません。
他人の目に映し出された姿勢、行い、
言葉こそが自分の評価になります。」
サラシュの考え方はカヴァの王家らしく、
他人に諂わらないことで成立する
経験の積み重ねと自信によるものだった。
イオスが見計らって鳴くので、
喜んだ彼女は碧色の瞳を細め、
その場で一回りした。
コートの長い裾が遠心力で広がり、
サラシュはわたしに笑顔を向ける。
わたしは目の前の役者に
痛む手を打ち拍手で称えた。
振り回されたイオスが今度は抗議で唸った。
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