第11章 第2節 偽貨の質(第1項)
朝から書室に新たなレシピを探しにきた
ムネモスを余所に、わたしは書字板に
左手で文字を書く練習をする。
戯曲や協定書を書く予定はない。
書室は足元に熾火を用意しても朝は寒くて、
パイル生地の頭巾の付いたケープと
喉の乾燥防止に宝飾巾をして過ごす。
勉強会で勉強を教えるには、
文字を書かなければ覚えが悪い。
見て、書き、声に出し、耳にして、考える。
本の内容を諳誦できるほど賢くはないので、
塔に住んでいた頃からやっていた
自分なりの地道な勉強方法を繰り返す。
書室にあった助産学の専門書を読み上げ、
ネルタの地下で過ごした頃に
足りなかった知識を補う。
わたしの太腿の上で退屈しているイオスは、
手にしたスタイラスの動きに
瞳孔を広げて首を動かす。
戯れに動かせばそれを見抜いて、
前足を突き出して遊び始めた。
「姉様はマルフ総督の館まで、
サンスァラ王女のお迎えに
上がらないのでしょうか?」
カヴァのオルドラスとの会談以降、
ムネモスはわたしをサンサと呼びはじめた。
ムネモスを真似して陰でわたしを
サンサと呼ぶドレイプやフランジまで居る。
それは主にファウナと、ミニとアミだった。
「わたし達は誰かの下女ではないし、
あのお姫様も子供ではないのよ。
そのうち帰ってくるわよ。」
「お互い同じことを思っていましたら、
永遠に会えなくなりますよ。」
サンスァラ王女が戻ってこなければ
仕事のないわたしは、いつまで経っても
この部屋から出ることはないかもしれない。
ムネモスが察している通り、
わたしは猶予を得ていると同時に、
ドレイプになることへの焦りを感じていた。
王女がマルフの館に居るとなると、
そこは画工のアイリアの工房があり、
生徒のレナタが居るはずだった。
「カヴァに帰ったのかもしれないわよ。
『去るものは追わず。』
それが館の決まりだもの。
彼女を犬のように
縛り付けることなんて出来ないのよ。」
「お母様は『猫に飾緒を与えた。』
なんて言ってましたよ。
首輪を与えたところで、
勝手にどこかへ行ってしまうんです。」
ムネモスは母のベリーとの思い出話をして
勝手に納得する。
――わたしもいつか去らないといけない。
『あんたはこんな館に
居るべき人間ではないのよ。』
トリンの言葉がいまも耳に残る。
左手で文字が上手に書けずに、
スタイラスで書字板の蝋を勢い良く削ると
板の底を引っ掻いた。
焦燥していると書室の扉が叩かれ、
従業員のキーアが長い黒髪を覗かせた。
「ねぇ、ニクス――ではなくて、サンサ。
赤い髪のサンサってひとに
お客さんなの…。」
わたしとムネモスは顔を見合わせた。
総督のマルフが来館したとしても、
サンサことサンスァラ王女は不在で、
対応できないので玄関で断っている。
「なにかあったの?」
キーアも困り顔を見せる。
「それが…ミニかアミのどっちかが、
また中に入れたのよ。
烏の招待札が掛けてあって。」
「まぁ。鼠みたいなお客様ですね。」
「本人が居ないからといって、
他の動物に例えるのは失礼よ。」
わたしは自身は客を持ってはいないし、
手紙で誰かと約束をしていなければ、
サンサの雪烏の招待札も送っていない。
サンサが予定している来客には、
招待札を扉に掛けはしないし、
普段はハーフガンを呼んで
日陰の庭へ案内させる。
そんな得体の知れないお客さんの入館は
認証管理の補佐のミニとアミがまず断る。
赤髪のサンサなんて指名する相手は、
オルドラスとの会談を知る人物に限られる。
それにキーアは気になることを言っていた。
「『また?』 …分かったわ。
お客さんには
わたしから断っておくわ。」
わたしが椅子を立つと、
その人物がすでに待ち構えていた。
気付いたキーアが驚き、身体を硬直させた。
銀の髪に明るい青と緑の混ざった碧色の瞳。
鈍色のキャシュクは裾が踝まで伸び、
長く深い皺が作られていて美しい。
帯紐には濃いピンクが差し色に入っている。
黒羊毛のコートの隙間には、
銀糸の長い飾緒を胸元に渡らせていた。
褐色の靴の踵を揃えて背筋を伸ばし、
顎を引いた姿勢でわたしを見つめる。
「あなた…。」
この顔はいまも鮮明に覚えている。
日中に見ると化粧も薄く、所感が異なった。
――やっぱり、ニースだわ。
あの日の夜は娼婦団に紛れ、
頭巾と宝飾巾に顔を包んでいた娼婦。
「あなた、ニースね。」
「はい。お久しぶりですね。」
あの夜と同じ柔らかな声で、
建物の日陰の中から顔を見せて言う。
「手紙も寄越さず
こんな館に来るなんて。」
「その程度の決まり事は存じているわ。
娼婦団のニースですからね。」
それでも女はわたしの目を見て言う。
「驚きましたか?」
「こうしたやり方は
娼婦から教わるのかしら。」
「えぇ――。」
侮辱されても笑みを浮かべる女は、
わたしから目線を逸らして背後を示す。
「あの子達なにか忙しくしてて、
いつもと様子がおかしかったわ。」
キーアがムネモスに呟いた。
「お二人でしたら、
朝食の時刻は普段通り
賑やかで変わりありませんよ?」
「でも、さっきもね。
ファウナがお客さんを――。」
「後はわたしが対応するから、
キーアは仕事に戻っていいわよ。
忙しいところ
報告してくれてありがと。
ミニとアミにも後で言っておくわ。
ムネモスも本は見つかったのよね。
立ち聞きなんて館の品格を疑われるわ。」
お客さんの前にも関わらず
お喋りを続けていた二人を、
わたしは書室から追い払った。
「無作法を見せてしまったわね。」
「賑やかで良い館ですね。
ここではサンサと、
お呼びしても良いのかしら?」
わたしはサンサではない。
「…できれば控えて欲しいわね。
でも名乗り出したのはわたしだから、
言葉に鍵はかけられないのも困るわね。」
書室の扉を開けたまま、
サラシュを中に案内した。
「ここがあなたのお城?」
「ただの書室よ。
倉庫になっていた部屋を片付けたのよ。
あなたの住んでいた所ほど
立派なものではないわね。」
「確かに、牢檻のような場所ですものね。」
彼女は館に来たばかりのムネモスと
同じことを忌憚なく言う。
「こんな場所でお仕事をされるの?」
「いまは館が繁忙期で
ドレイプの予定も埋まってるから、
誰もサラシュ王女に紹介できないわよ。
わたしもドレイプではないから
あなたの相手はしないし、
歓迎もしてないから扉も閉めないわ。」
「最初から望んでいないわ。
今日は天幕に、
誘いに来たわけでもないもの。」
――カヴァ・ハス・サラシュ…。
オルドラスの娘。
――親の遣いで火葬場の焼却者記録や、
わたしの出自を調べに来たのかしら。
サラシュが分水街に滞在し、
夜の館に居る偽りのサンサに会う理由は
それ以外にない。
サラシュは本棚を見回しながら、
一つ手にして中身を捲り、
本を閉じてわたしの顔を見た。
「あら?
ねえ。おかしいわ。
紹介していないはずなのに、
どうしてわたしの名前を知ってるの?」
「見ての通りよ。」
サラシュは自分の胸元に触れて首を捻る。
「わたし、娼婦団のニースだったのよ?」
「王女様が娼婦団に紛れて
頭巾や宝飾巾をしたところで、
大した変装にはならないのよ。
名前を偽り、肩書きを変えて、
どんな服で自分を装っても、
あなたの本質、輝きは変わらないわ。
サンスァラ王女で見慣れてるもの。」
サラシュは肩で笑う。
「ふふっ。
でしたらわたしは
試すお相手を見誤ったのね。
どこで判断なされたの?」
「あなたの立ち姿とその服の着熟しは、
教育を受けていなければできないわね。
その銀糸の飾緒は
南部の貴族が身に着けるものだし、
黒羊毛のコートが似合う若い女なんて、
サンスァラ王女か銀髪のあなた
くらいなものだわ。」
「他には?」
彼女はさらに要求してきた。
「あなたの父、オルドラスに似てない、
その奇抜で大胆な行動かしら。」
少々失礼なことを言ったつもりでも、
サラシュは声を出して笑い、膝を曲げた。
「ふふふっ。
不敬の罪に問いますよ。
本当に、あなたはおかしな子なのね。」
――あなたはサンスァラ王女に似てるのよ。
最も不敬な発言は控えておいた。
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