第11章 第1節 暮相の姿(第2項)
右腕に傷を負ったわたしに
夜の館でできる仕事はない。
寒さの厳しい日は塞がった傷が疼き、
書字板のスタイラスも触れるだけで
冷たさに痛みが激しく出る。
館に居場所もないわたしは、
街の西側にある暮相の館に行った。
外出着はソックスやアームカバー以外にも
ムネモスから寒さ対策を言いつけられ、
頭巾の付いたケープと宝飾巾をする。
ケープの留め具は壊れたまま
帯紐で代用していたので、
またドレイプと勘違いされる格好になった。
暮相の館に着けば
出迎えてくれるレデとジールの姉妹から、
指導役のミュパの愚痴を聞かされる。
経営者がユヴィルからルービィに替わって
不安を抱いていた娼婦達も、
いまの環境に慣れてきて表情は柔らかい。
レデとジールと、
それからミュパのおかげだった。
傭兵や客からの暴力は止み、
娼婦達にはまともな食べ物と
充分な休息が与えられた。
わたしの右腕の傷を心配して、
代わりにマリセスの皮を
剥いてくれる子まで居た。
以前よりは血色は良く笑顔も増え、
化粧を学んで美しさに磨きを掛ける。
レデとジールの要望で
館には姿見が備え付けられ、
各個の美意識が高められていた。
最初の給金で手鏡を買った子が、
わたしに嬉しそうに報告してくれる。
彼女達には労働の対価と共に
身分証も与えられ、飾緒を胸元に垂らして
税金の支払いに苦情が噴出していた。
右腕の傷の原因やサンサに関する噂など、
娼婦達から質問攻めにもあった。
暮相の館であっても流言は好まず。
レデとジールが娼婦達への見せしめに、
率先して規範を破るミュパを厳しく叱った。
自分達の軽率な流言によって、
ミュパが叱られることに堪えられずに
娼婦達が涙ながらに謝り出した。
姉妹の日々の厳しい指導も
ミュパの緩さがあってこそで、
彼女はこちらの館でも慕われていた。
レデとミュパが離席した時を見計らい、
妹のジールがわたしを自室に招き
相談を持ちかけた。
同じ赤い髪の姉妹であっても
瞳や肌の色、目鼻立ちは違い、
性格も似ていない。
「それで、レデから話は聞いた?」
「本人の居ない場所で、
すべきでない話なら聞かないわよ。」
「違うわよぉ。
前に相談してたレデの婚姻の話。」
わたしに対して
レデは相談主を偽っていた。
ミュパが同席していたのが原因で。
「経過は聞かされてないわね。」
経過も結果もわたしには興味がない。
姉妹からの相談を受けて
無視するわけにもいかなかったけれど、
護衛のディーゴに頼み密かに動いていた。
ディーゴは騎士のハーフガンとも仲が良く、
仕事に退屈していた彼は西側を調査した。
結果としては、あまり良くはなかった。
「結局、相手の方が
『自分で独立資金を稼ぐまで
婚姻は待ってくれ。』だってさ。
これでまたダメになるわね。」
姉の破綻した婚姻話を、
彼女は声を弾ませて言う。
わたしもその報告をすでに耳にしている。
「それならジールの望み通り、
これからも一緒に働けるわね。」
「えぇ。嬉しいわ。
ニクスのおかげよ。」
「わたしはサンサの代わりで、
レデの相談に応じただけよ。
でもジール達は姉妹仲良くて
羨ましく思うわ。」
「ニクスにも姉妹は居たの?
あぁ。違うわね…。
これは出自を問う話に
なってしまうわね。」
ジールに気を使わせてしまう。
「いまのわたしは
そんなことを忘れさせるくらい、
賑やかな姉妹に囲まれてるわよ。
これがミュパって姉の時だと
いまごろ質問攻めにあってたわね。」
「あなたと妹としての苦労を
共有できて嬉しいわ。」
ジールは笑って頷いて、
わたしの話は途切れた。
「それで考えたの。
わたしが先に引退したら
レデは驚くかしら。」
「でもその予定は無いんでしょ。」
いたずらっぽく笑う彼女は首を横に振った。
「西側には、
わたしに平衡する良い男が居ないわね。」
ジールには婚姻予定の相手が居ない。
これも護衛のディーゴが
勝手に調査していた。
館の信用を損ねる行為だった為、
彼には厳しく注意した。
「でもその分、育てがいがあるわよ。」
ジールはレデによく似た笑顔を作った。
◆
トリンに斬られた右腕。
太い血管と並んで傷跡が浮かび上がり、
縫い合わせていた穴の跡も見える。
上着を脱いだり浴場で素肌を晒せば、
無駄に視線を集めてしまう。
わたしは傷跡を隠すのに、
衣装室にあったサンサの使っていた
黒色のアームカバーを常に着用した。
手触りの良いアームカバーは若干細く、
腕を入れる際に動かした指のせいで、
肘にまで激しい痛みを与えて涙を堪えた。
右手がまだよく動かせないわたしは、
館の繁忙期にも関わらず仕事もない。
冬の寒空の下にある日陰の庭に、
サンサのお客さんが来ることもない。
なにもできないわたしは書室に入り浸る。
夜にはサンサもスーもいない部屋で、
ムネモスと二人で帰りを待つ。
寝ているとまた
イオスがわたしの顔の上に乗ってくる。
オルドラスとの会談の後、
ムネモスはわたしの介助に
付きっきりでもなくなった。
弟のクロノと再会したことで、
彼女の気持ちは前向きになっていた。
従業員のキーア達や、新たに入ってきた
フランジのココとカナールと一緒に、
日時計島の市場まで外出するようになった。
わたしが本ばかり読んで、
ムネモスの遊び相手をしないせいも
多少あるかもしれない。
四時の札遊びで手加減をしないから、
それが一番の理由かもしれない。
ムネモスはお菓子大全の本を見て、
ヤゴウの娘、デーンと共に
お菓子作りもしていた。
ムネモスがレシピにある分量の比から、
重さと容量を割り出して材料を出し、
デーンが調理と火の調整などを行う。
デーンは鼻歌で時間を計り、
ムネモスは彼女に大陸の詩歌を教えていた。
食事に出される料理と異なり、
お菓子作りは材料の分量と温度、
加熱時間に正確さが求められる。
好みで砂糖の量を増やせば焦げ、
火力を弱めた為に生焼けになったお菓子を
何度か食べさせられた。
失敗を繰り返しても
挫けずに挑むデーンの姿に影響されて、
ムネモスも根気よく彼女を手伝った。
わたしはメノーやヤゴウらと一緒になって、
試作品を食べる仕事をさせられた。
胃腸が頑丈と自評する護衛のディーゴは
失敗作でも喜んで受け取り、
ハーフガンにも押し付ける。
暮相の館に居るはずのミュパが
お菓子作りを嗅ぎつけてやって来て、
いつもフランジの誰かを捕まえると
焼き時間を計る為に一緒に歌い始める。
わたしやファウナのみならず、
部屋を抜けたミニとアミまで来て、
ヤゴウも歌って大合唱となった。
試食が増えるとムネモスは
ヤゴウの娘のデーンが、
彼みたいなお腹になって
しまわないか心配する。
想像で心配され、
デーンから叱られるムネモスがいた。
完成したお菓子は館のドレイプやフランジ、
従業員と、護衛や外の業者にまで配られる。
忙しい中で喜んで食べる彼ら彼女らを見て、
デーンは仕事に手応えを覚えていた。
それを見てわたしは羨ましくなった。
◆
わたしに一つ、仕事が与えられた。
臨月に入ったメノーの運動を兼ねて、
彼女の所有する病院に付き添った。
夜の館からそれほど遠くない、
川沿いの白亜の建物。
「どう? 気分悪くしてなぁい?」
「平気よ。」
メノーと共に別館と呼ばれる
病院の隣の建物から出てきて、
口布を外して新鮮な空気を吸う。
別館の中の湿った空気は肺に悪い。
後ろで護衛役をしたハーフガンが、
背伸びしながら欠伸をしていた。
「最初は耳を疑ったけれど、
理由が分かると興味深い施設ね。」
「勉強になったかしら。」
「お客さんには見せられないわね。」
メノーは笑って頷く。
「もしわたしの身になにかあれば、
この施設の所有権を
ニクスに譲ろうと思ってるの。」
「東部風の冗談ね。
権利だって受け取れないわ。」
「まだ館を出ていくの、
諦めてないのかしら。」
「…否定できないわ。」
――わたしの居場所はここではないもの。
「ニクスなら
やってくれると思ったのにねぇ。」
ネルタの落胤という存在は、
この街ではトリンのような孤児に
混乱と欲望を与えかねない。
「でも目標があるのなら
わたし応援するわよ。
お金に困ったらいつでも相談してねぇ。」
「ありがと。」
――わたしの目標…。
廊下を通り、本館の方へと移動する。
メノーは紫黒色の
緩やかなチュニックを着て、
病院内を見て回る。
「患者から費用を受け取らずに、
病院が運営できるのはどうして?」
全ての患者はメノーを知っており、
かれらの医療費を全て負担する彼女は
処々方々で感謝されていた。
「だって別館には支援者が大勢居て、
貰う必要はないんだもの。」
「支援者って…、マルフ?」
「マルフとアイリアも居たわねぇ。
オーブの氏族に分家のオーネック、
エルテル、メルセ、元老院議員、
議長と…。
数えてみると、多く居るわねぇ。」
彼女は長椅子に座ってお腹に触れ、
深く息を吐いて一休みする。
「わたしの案内で疲れさせたわね。」
「大丈夫よ。良い運動になるわ。
この病院も支援してるのは、
ほぼ全ての都市よねぇ。
ここでの治療の成果を、
他所の都市の病院と共有してるのよ。」
「それってエルテル風邪とかも?」
「エルテルやメルセは悲惨だったもの。
どこもあぁはなりたくないのよねぇ。
老人病っていう肺の病、
貴族病は手足の壊疽。
食中毒や頭痛の回復、眼病、堕胎、
老化、裁判に使う死因の調査。剖検。
表向きはあらゆる症状の解決を目指して、
外界から隔離する施設。」
彼女は夢物語と現実を併せて語る。
「『退化の科学論』みたいに、
遥遠代の医学を復元させる
目的があるのね?」
「支援者にそんな崇高な考えはないわよ。
皆揃って利己的で、
サンサくらいに若いままで、
おまけに賢くあろうとするのよ。」
「誰にも買うことのできないドレイプ
だものね。」
サンサ自身が言っていた。
「老いるっていうのは
衰えるっていうことだから、
変化を認めたくないのねぇ。」
メノーはいつもの
間延びした口調で呆れている。
「サンサのあれは体質なのかしらねぇ。
ニクスは気にならない?」
メノーの指摘する通り、
サンサの外見は館に入ったばかりの
フランジと同じくらいに若く見える。
最初は驚いたけれど、
慣れて驚きもなくなれば疑問も薄れていた。
サンサはルービィに近い年齢にしては
外見は少女のままで、いたずら好きで
成熟を感じさせない点も多く見てきた。
「サンサを解剖でもしてみたら?」
わたしの提案にメノーは哄笑した。
解剖学の本は書室にもある。
しかも図解付きで勉強になるのに、
みんなその本を怖がって書室に寄らない。
「ふふふっ。
冗談なのは分かるわよ。
箱を開けても
仕組みが理解できなければ、
見えていないのと同じよねぇ。」
「科学の5段階法が必要だったね。
病院の支援者達は
それを理解しているのかしら。」
「報告を上げていても、
理解なんてして無いわよ。
かれらの望みはたったの4つ。
病まず、老いず、美しく、力強く。
その言葉のどこに標準があるのかも、
分かってないわねぇ。」
「きっと欲が
かれらの思考を止めてしまうのね。」
「『蜜も赤子には毒』って
その通りの言葉よねぇ。」
サンサがよく口にした大陸の詩歌の引用。
「それ…。
セリーニ神殿が赤子に与えていた
『黄金の祝福』のことよね。」
スーも言っていた
神殿に捨てられる男児の話。
「えぇ、蜂蜜は乳児には与えられないの。」
首を捻るわたしは、
その理屈がよく分かっていない。
「蜂蜜に含まれる小さな生物の毒を、
胃腸の未発達な乳児は、
大人みたいに消化できないのよ。」
「それで赤子にだけはダメなのね。」
「サンサが言うにはその生物は、
腸詰め肉にも含まれてて、
大人でも食中毒で死んだりするのよ。」
「どうしてそんなことを
サンサは知ってるのかしら。」
メノーは笑顔で首を捻る。
「わたし達人間って、
そんな目に見えないくらい
小さな生物が原因で、死んでしまうのよ。
困ったわねぇ。」
「それにしては嬉しそうね。」
「だって知識という欲は、
無限の噴水だもの。
こればかりは誰にだって、
栓で塞げはしないわ。」
メノーは自分のお腹を撫でた。
「それならその子の名前は、
ミティスかしら。」
「ミティス…知恵の女神かしら。
ニクスらしいわねぇ。」
「あ、性別はまだ分からないわね。」
「女の子よ。
ずぅっと落ち着いてるもの。
絶対、女の子よぉ。」
「元気に産まれてくれるといいわね。」
そんなメノーの姿は、
ネルタの地下の食料貯蔵室で見た、
下女達の姿とよく似ている。
わたしが抱き上げた赤子は、
永遠の眠りから目覚めることはなかった。
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