昨日の厚い雲は霧のように消え去り、
空に薄い青が広がっていた。
北のゼズ山脈の頂に、雪の白が観測できる。
昨夜ニースと名乗った娼婦が用意してくれた
寝椅子が放置されていた。
寝椅子は少し湿っていたけれど、
わたしは座って空を見たまま
太腿に乗るイオスを撫でて、
考え事をしていた。
頭巾と宝飾巾の下で欠伸が出た。
気がつけばサンスァラ王女が、
わたしの隣に座って質問をする。
「ここに何人いると思う?」
王女の鈍色の髪は日の光に当たると、
シルクの織物のような銀の輝きを放つ。
その眩しさにわたしは目を細め、
頭巾を目深に被った。
護衛役のハーフガンも近くにやってきた。
「ネルタの侵攻時と同じくらいかな。
来た時に見た規模で800か、
多くて1,000人くらい?
でも補給や工兵の部隊の姿は無いよね。」
彼女に2進法で左手を広げて見せた。
歩兵班は8人で一つの単位。
歩兵班を二つ集めた分隊は16人。
分隊の倍の小隊。倍の中隊。その倍の大隊。
娼婦団は大規模で、大隊一つ分もあった。
食事を用意する彼女達は、
軍の運営に重要な役割を担っている。
戦闘に加わらない職人、
子供や男児も娼婦団に含まれて、
道具の手入れや手洗い所の穴掘りを行う。
兵士の家族もこの娼婦団に含まれ、
移動する共同体という見方がある。
この大隊の塊をおよそ8個確認できた。
「この人数で分水街を攻めるにしても、
相手を低く見積もってるわ。
オルドラスは兵力が足りないのを知って、
こんな場所に駐留して部隊を隠した。
視察にしては過剰だけれど、
威嚇にもならない数で怯える
分水街にも問題があるわね。」
娼婦団を含めても
僅か1,000人規模のカヴァの軍は、
昼近くになって全員が一箇所に集められた。
分水街という要塞都市を攻めようにも、
戦闘を遂行するにはカヴァの力が足りない。
これだけでカヴァという国が、
長年の戦争で疲弊したことがわかる。
「天幕の数が10もあれば、1,000人規模ね。
あなたもしかして全て、数えてたの?」
「…兵学の本を読んだから
数えてみたくもなるよ。」
彼女の指摘する通り、
分析の必要はなく自明だった。
「こんな規模では喧嘩にもならないわ。
戦意だけで勝てたら苦労しないわね。」
「ネルタを落とせたからって、
強硬派というひと達の欲が
思考を止めてしまったのね。」
故郷を失ったわたしの軽薄な言い方に、
サンスァラ王女は自虐を喜ぶこともなく
憐れみの表情を覗かせる。
「戦場の外側に居る老人達にとっては、
勝つことだけが勝負ではないわ。」
カヴァの元老院の望むものが、
ドラスの死と新たな王の誕生と
王女は言っていた。
「西門を攻めるのなら、
最低でもこの10倍は必要になるわね。」
サンスァラ王女の話を聞きながら、
あまりの眠気に宝飾巾の下で
また欠伸が出てしまう。
兵士達は戦略目標の分水街を目の前にして
ただ命令を待つ。
彼らはサンスァラ王女ほど
緊張に欠けたりはしない。
周囲には常に哨兵を立て、
身体を拭き、髭を剃り、服装を整え、
胸甲を磨いて脂を塗る。
騎兵は戦場の友になる馬にも餌と水を与え、
最後になるかもしれないブラシを掛ける。
厳寒馬という厳しい寒さに耐える
カヴァ固有の小型の馬の姿もあり、
兵士に鼻を擦り付けて甘えて戯れる。

兵士達は分水街からやってきた
娼婦姿のわたしを警戒していた。
わたしは朝から娼婦団の
若い女達から質問攻めを受けた。
団長と呼ばれる年長者が彼女らを叱りつけ、
解散させたので一応の規律は守られている。
軍の後衛で待機するクロノは、
ずっとムネモスに纏わり付いていた。
彼はオルドラスの子、
オランドルに妬かれて叱責を受けると、
ムネモスが戻ってきて笑顔を見せた。
オランドルは叔母を見つけると、
拳を胸に当てて敬礼をする。
サンスァラ王女がわたしの右手を取って、
軽く振ったせいで痛みで目が覚めた。
兵士達は娼婦団との距離を置き、
隊列を作り始める。
「クロノは相変わらずでした。」
「彼と一緒に居なくていいの?」
ムネモスが寂しさを見せて頷く。
「ここは私の居場所ではありませんもの。」
――ムネモスはもう心配いらないわね。
わたしは宝飾巾をしたままの姿で
欠伸を堪えた。
降り注ぐ日差しが目に痛く、
頭巾を目深に被った。
「クロノはこれからすぐに大きくなるわよ。
濃い髭も生やして、
イオスくらい毛だらけになるのよ。」
わたしの太腿の上で、
王女に撫で回されるイオスが
否定的に短く鳴く。
「想像できません。」
14歳のムネモスは、
『すぐ』と言えるほど長い時間を
まだ生きてはいない。
遠い目でクロノを見つめる彼女に
わたしは言った。
「ヤゴウみたいに
お腹まで大きくならないから、
そんな心配いらないわよ。」
「あははっ。それ、おかしいっ。」
「撤退ですとっ?」
ムネモスの笑い声の後で、
カーゼルが部下全員に聞こえるように
大声で誇張して叫ぶ。
丘の上の台の上に
オルドラスとカーゼルが立つ。
隣には書記官の姿がある。

オルドラスの銀の髪が
磨かれた胸甲と共に輝いて見え、
赤いコートが遠目でも際立つ。
「股を広げて待つ分水街を目の前にして、
陛下はあの娼婦に誑かされたのだ!」
カーゼルの不敬な発言にも、
わたし達の近くに居た若い兵士達は笑った。
オルドラスがカーゼルの脹脛を蹴り、
跪かせると素早く彼の首に
ナイフを突き付けた。
笑っていたはずの兵士や、
娼婦達から悲鳴が上がる。
「侮辱してくれるなよ、軍司令官。
彼女は分水街の総督、マルフの使者だ。
その娼婦でもわかる単純なことを、
山間の田舎者に教えてやろう。」
「野蛮ですね。」
「あのくらいやってくれた方がいいわよ。
戯曲なのだもの。」
「戯曲…?」
昨晩はあれから別の天幕に送られて
ずっと寝ていたムネモスが首を捻る。
朝まで付き合わされたわたしは寝不足で
また欠伸を堪えた。
「おれ達の目的はなんだ!
分水街での略奪か! 侵略か!
奴隷集めと娼婦の誘拐か!
それともネルタがやった虐殺か!」
前に立つ老兵達は、決して首肯しない。
そんな年長者達の背中に、
若い兵士達が動揺する。
彼らの中に立身出世を目的に、
郷を離れた者も含まれる。
「議会の老人共の望みは、
あの膨らんだ腹を肥やすことだ。
出稼ぎのおれ達には
藍藻のスープを飲ませ、
口減らしというわけだ。」
一部で笑いが起きた。
喉にナイフの刃が食い込んだ状態で、
カーゼルが自分の命を犠牲にしてでも
ご主人様に訴えなければならない。
「このまま結果も残さず
郷に帰ったりしたらよぉ、
おれらぁ愚者だぁ
臆病者だと笑われちまわぁ。」
カーゼルは泣き真似をしてみせる。
若い兵士達の代弁者として――。
見るに堪えないカーゼルの演技に、
サンスァラ王女は苦笑を浮かべる。
「役者には不向きだね、彼。」
わたしの言葉に王女が頷く。
銀色の刀身を研磨したナイフは、
光を受けてよく反射している。
刃を潰してあるので
彼の首を切るには至らない。
「笑いたい者には笑わせてやればいい。
荒れ地に王座を作った者達よ。
ネルタの末路を見たものは口を閉ざせ!
負ける為に戦うのか!
宝を手放し、飢えて死ぬか!
恥ずべきことは死を軽んじることだっ。」
オルドラスはナイフを納め、
胸甲の隙間から丸めた紙を取り出した。
姿勢から動作の一つ一つ、
指先まで意識された彼の動きは
兵士達全員の耳目を集める。
オルドラスは舞台に立つ役者と遜色がなく
目が離せない。
「すでに分水街とは協定を交わした。
お前達はよく働いてくれた。」
オルドラスは羊皮紙の協定書を広げ、
遠い兵士達に理解させる為に
隣の書記官に渡した。
王女の戯曲であることを知らない書記官は、
協定書の存在を初めて目にする。
「かっ、金の奴隷に頭を垂れるなど、
信義に悖る行為ですぞ!」
書記官が裏返した声を荒げる。
薄白い顔を真赤にして震え、
オルドラスに勝るとも劣らぬ
厳しい表情を見せる。
舞台に立たされた書記官は
この戯曲の役者ではなかった。
「わたしに相談も無く、
撤退などと勝手なことを!
元老院議長が許可しませんぞ!」
「王家の諮問機関に過ぎない元老院が、
兵達の傷を治し、命を助け、
冬の寒さと飢えから家族を救えるのか?
お前達が仕える王は、
責任無き者達に選択を委ねる、
迷える仔羊だったか?
おれが跪いて頭を下げただけで、
腹を満たせるというのなら安い取引だ。」
佩いた剣を素早く外すと、
台に突き立てて乾いた音を響かせる。
元老院の強硬派から遣わされた書記官は、
遠征の撤退に必ず反対するとわかっていた。
それを見越してサンスァラ王女は
あの協定書を用意した。
「しかし…撤退では示しがつきませんぜ。」
先程まで刃を潰したナイフを首に当てられ、
震えて見せたカーゼルが
今度は平然と言った。
「冴えない役者で
戯曲を書くべきではないわね。」
サンスァラ王女もカーゼルの演技に
不満を口せずにはいられなかった。
「わたしに書かせたんでしょ。」
わたしも彼女の不満に抗議する。
「これを単なる撤退と思うな。
兵達を郷へ帰らせ、秩序化を行う!」
「秩序化…?」
兵士達が困惑して顔を見合わせ、
言葉の意味を確認し合う。
カヴァの軍には
戦闘を行うだけの余裕がない。
騎兵の数は小隊一つ分にも満たない。
これだけの兵を集めても
隠れて待機する以外の術がなかった。
――補給と工兵の部隊が無ければ、
戦線を維持することも
門を破ることもできない。
――藍藻のスープで口減らし、ね。
この兵力で正面から衝突すれば
防壁に潰されてしまうのは、
兵学を読んだだけのわたしでも想像がつく。
負け戦は兵の命を預かり
軍を率いるオルドラスの本意ではない。
限られた手札しかないオルドラスと軍は
限られた選択を迫られていた。
――負ける為に戦うか、飢えて死ぬか。
『単なる撤退と思うな。』
――戦わずに帰る方法…。
オルドラスの放った秩序化は、
四時の札遊びのルールの一つから引用した。
恐慌札は天体の運行の原則から逸脱し、
朝、昼、夕、夜の星札の順に関係なく
市場に並べられる札。
恐慌札が出されると数字の評価が逆転し、
市場は小さな数字の2桁の組み合わせが
優位に変わる。
手札に大きな値の数字札しか
有しないカヴァの軍にとって、
現状は不利な状況でしかない。
四時の札遊びを覚えたてのムネモスは、
こんな状況を招いて負けてしまう。
この恐慌状態から昇順に戻し
大きな値が優位な状況にすることを
秩序化と呼ぶ。
――協定書という有効な手札を持つ
サンスァラ王女にしかできなかった。
わたしはサンスァラ王女を見る。
「遠征に参加した者達には、
帰国した後、報奨金を与える。」
オルドラスは書記官の顔を見て口角を上げ、
彼に仕事の責任を押し付けた。
――軍の撤退を
秩序化と言い換えている。
――袋を変えただけで中身は同じ。
「胸を張って郷へ帰れ!
命あることを喜べ!
おれがお前達を導いてやる!
新たな時代の王と認めるならば、
おれについてこい。」
オルドラスがコートを靡かせ剣を掲げた。
それは劇場で見た
荒れ地に王座を作ったカヴァ王、
ソーマの姿だった。
兵士達は佩いた2本の剣を両手に掲げ、
新たな時代の王の誕生を称揚した。
――王子が自ら戯曲を演じて
検閲法に引っ掛からないのかしら。
「今回はカヴァとの協定を交わす、
大事なお仕事でしたのね。」
オルドラスの演説の始終を見て、
ムネモスはサンスァラ王女に感心する。
「そんなもの最初からなかったわよ。」
「えっ? でしたら、
あの協定書は…?」
「お姫様が偽造したの。」
わたしに戯曲を書かせた隣で、
王女は2枚の協定書を精巧に偽造した。
「人聞きが悪いわね。
これからマルフに会って
これを本物にする仕事が
残っているのよ。」
サンスァラ王女は義腕の手首を開くと、
中からもう一つの協定書を取り出した。
義腕は中空で収納が可能になっていたのを
初めて知る。
「報奨金の話もしてたよね?
財源はどこから?」
「カヴァの国庫から出せばいいのよ。
ヒュルゲンの資産を徴発したのだから、
そのくらいの余裕はあるはずよ。
でなければ元老院が
民衆に倒されるわね。」
「物騒ね…。」
王家の彼女は愉快に笑っている。
「でしたら偽の協定書なんて、
すぐに露見しませんか?」
「そんなこと構わないわよ。
かれらの顔を見てご覧なさい。」
不満や困惑を示す者もいた。
郷に帰れることを喜ぶ中年の兵士、
オルドラスを『新たな王』と称える
老兵の姿もある。
娼婦団の女達も抱き合い、
喜びの感情を全身で分かち合う。
「口実を与えるのがわたしの仕事よ。」
サンスァラ王女はこの戯曲を
わたしに書かせた。
「後はマルフと銀行屋が
やってくれるわよ。」
「サンサお姉様は信用されてるんですね。」
言ったムネモスに対し、
サンスァラ王女がわたしを指示する。
「あっ。お姉様はニクスでしたね。」
ムネモスは名前に混乱している。
「信用ってお金で解決するんだそうよ。」
わたしがムネモスに告げると、
サンスァラ王女が頷いた。
――それが彼女にあって、
わたしに足りないもの。
――『約束された明日』…。
ニースと名乗った娼婦が言っていた。
――秩序化なんて名前を変えても、
お金が無ければ、兵士達や娼婦団は
明日への不安を抱いたままで、
喜べなかったはずだわ。
娼婦団が用意した帰りの馬車の中で、
わたしは他の解決方法を模索しながら
深い眠りについていた。
オルドラスとの会談から何日経っても、
サンスァラ王女は夜の館に
帰ってこなかった。
◆ 第10章 『怨讐の環』 おわり