第10章 第3節 燐光の蝶(第3項)
わたしは欠伸を堪え、
重くなる瞼を何度も持ち上げる。
宴席で寝るのは品がない。
眠気を堪えて撫で続ける
わたしの気など知らずに、
食べるだけ食べたイオスは、
太腿の上で喉を鳴らして寝ようとしている。
「お疲れでしたら、
こちらでお眠りになれますよ?」
質の良い白の頭巾と宝飾巾で顔を隠す、
年若い娼婦がわたしに声を掛けてきた。
彼女を見たわたしは目を見張り、
緊張のあまり背筋を伸ばす。
頭巾と宝飾巾のあいだにある、
青と緑の混ざった碧色の瞳が
わたしに向かって微笑する。
娼婦は木の骨組みを開いて、
布の張られた寝椅子を組み立てた。
白く細い指先の動きが、
舞台に立つ役者のようで目が離せない。
こんな場所に似合わない、
この娼婦の起居に眠気が覚める。
「…便利ね、それ。」
「戦争から生み出された道具です。
これで寝ている時でも、
身体の熱が地面に奪われるのを
防げます。」
「お…! あのっ、せめて毛布をっ!」
年長の娼婦が慌てて駆け寄り、
毛布と毛皮を持ってきた。
「ありがと。さ、寝てちょうだい。」
「えぇ…?」
――宴の端とはいえ、
こんな場所で寝られるほど、
豪胆な人間に見られているのかしら…。
「ほら、早く。
このままでは、
わたしが恥を掻いてしまうわ。
それともあなたを、
これからわたしの天幕へ
ご招待しましょうか?」
若い娼婦は柔らかな声で、
わたしを捓い楽しんでいる。
わたしの左手を掴んで無理に座らせ、
彼女の腿に頭を乗せる。
寝椅子には毛布が敷かれ、
わたしの身体に毛皮が掛けられた。
ベッドに比べて寝心地はやや固く、
塔で暮らしていた頃を
思い出して懐かしくなる。
イオスがわたしのお腹に乗った。
「猫が乗って苦しくはない?
なんてお名前?」
「慣れてるわ。
この子はイオスよ。」
冬毛になってからは長毛で毛深く、
子猫にしてはイオスは大きく見える。
「違います。あなたのお名前ですよ。」
彼女に問われて、わたしは答えに詰まる。
名前も知らない女を相手に、
名乗る名前を持っていない。
「分水街の子なら、
あなたの名前はきっとナルシャね。
わたしはニースといいます。」
「ニース? それって偽名よね。」
「娼婦団に身を置いてますからね。
他にもゼズやペタなんて
偽名を使う娼婦もいますよ。
愉快な決まりでしょう。」
わたしを見下ろして目が笑う。
ペタはメルセ領の城の名前で、
高級品を示す単語になる。
ゼズはこの島の名前で拒絶を意味し、
名乗るにはあまりにも不適切だった。
「そんな名前を使えば
相手から信用されなくなるわ。」
「お互い身を委ねて肌を重ねても、
言葉の全てが真実とは限りませんもの。
家名を偽って娼婦を誘う男も居たわ。
こんな場所でどのように確認できますか?
それでもし妊娠した時は、
『そちらのご子息の子供です。』
と言うのよ。
貧しく生まれ、戦争に駆り出され、
約束された明日がなければ、
一夜限りの夢を見るんだとか。」
館の書室に娼婦団が記された本はなく、
ファウナの持つ趣味の本で
その姿を読んだことがある。
本には記されない彼女の話は
とても興味深かった。
「まるで托卵ね。」と、わたしは呟いた。
動物の多くは番を作っても不貞を働き、
人間のように婚姻の契約には縛られない。
他の鳥の巣に卵を産む托卵は
星鳥などが行う。
巣にあった元の卵を地面に落としたり、
抱卵だけでなく、孵化した幼鳥への給餌、
巣立ちまでの全てを委ねて押し付ける。
自分の種を残す行為と考えれば
おかしな理由でもない。
彼女の話も托卵と同じで、
胎児の父を偽って養育の環境を
用意させている。
資産家が財産を守る為ならば、
養子や偽りの子であっても
子孫を増やすことがある。
エルテル領主だったエリクも、
子に恵まれなかったことが原因で、
出自の怪しい森の賢女を養子にしていた。
「あら、分水街の高級娼婦も、
そんな鄙言を使うのね。」
島の西端に位置するカヴァの娼婦から、
田舎言葉を意味する鄙言という単語が
出てくるとは思わなかった。
彼女から指摘された通り、
鳥の托卵と例えるのは良くない。
例え話は伝えやすさがあるけれど、
人間を他の動物に例えるのは
会話の相手に失礼だった。
ファウナの部屋で働くミニとアミが、
品のない手紙を持ち込み朗読させるせいで、
おかしな影響を受けてしまっている。
ゴミになった手紙には、
人間を犬や鼠、猫に例えた話もあった。
――彼女のニースって名前は、
鄙言にはならないのかしら。
ニースは鄙言だと、
ファウナを経由してスーも言っていた。
――…話が逸れているわね。
疲労と彼女に対する緊張で、
思考が分散してしまう。
「托卵はあくまで、
こんな解釈もできるという話ね。
ふぅ。
なんの話だったかしら?」
覆い被さる宝飾巾のせいで、
呼吸の度に口が塞がれて喋りづらい。
「ふふっ。
話が逸れましたね。
娼婦団にとって名前というのは、
それほど信用のあるものでもない
という話ですよ。
貴族の身分を剥奪された商人
ヒュルゲンを騙る者もいれば、
ペタの次代領主を騙って、
あるはずもない資産で
気を引こうとする者も居ます。」
ヒュルゲン家のビンスは、
わたしと姉のラミーを地下の牢檻に隠し、
企みの途中で死んだ男。
後者は明らかにヘッペリオの件に聞こえる。
「ヘッペの相手をさせられるなんて
ニースな話ね。」
「はい、わたしの…。あっ!」
彼女は頷いてから勘違いに気付いた。
「おかしな話ね、
と言ったつもりよ。
あなたのことではなくてね。」
彼女はニースという偽名に慣れていない。
「父はわたしのことを、
スァラなんて呼ぶのよ。」
スァラという名前は有り触れていて、
大陸語で白馬という意味を持つけれど、
彼女は呼称や略称に不満を見せている。
「まさか、サンスァラ王女から?」
仰向けになったまま顔を傾けて、
踊っているサンスァラ王女達を見た。
「えぇ。献身の王女です。」
「比べられるのだから
それは災難ね…。」
同情を込めて呟くと、
彼女も苦笑していた。
「兄は代々続く名前なのに、
父は家を継げない女の名前に
興味がないんだわ。」
彼女は憤りを隠さない。
サンスァラ王女は長い髪を揺らして、
ムネモスと愉しげに踊っている。
わたしはお腹の上のイオスを撫でると、
また喉を鳴らして催促してきた。
「サンスァラ王女は政略の道具で、
父王からは王子の代用品として扱われた
憐れみの王女ですよ。」
言葉の端々に不満が溢れている。
「女からしたらそんな名前、
誰でも気分が良くないものよ。」
「お姫様が代用品とは辛辣ね。
だからってニースを騙るのは
おかしな話だわ。
わたしに名乗るのなら
理念のある名前の方が良いわ。
信用は行動からというもの。」
「…でしたらあなたは
なんて名前なのかしら?」
再びの質問に
なにも答えられずに瞼を閉じて考える。
「あなたの理念は?」
――わたしの名前。
わたしは毛布とイオスの温かさに包まれて、
宝飾巾の下で欠伸をした。
「寝るなら歯を磨きなさい。」
ムネモスと踊っていたはずの
サンスァラ王女が戻ってきた。
彼女に宝飾巾を捲くられ、
わたしの口に歯木が突っ込まれた。
「んぁっ。あれ?」
目を開けると娼婦団のニースを名乗った女は
どこにもいない。
お腹の上で寝ていたイオスが、
サンサに持ち上げられて鳴いて抗議する。
「ドラスが呼んでるから行くわよ。」
「…ムネモス、大丈夫?」
「平気、です…。
メノーに、鍛えられました、から。」
涼しい顔のサンスァラ王女とは対照的に、
一緒に踊っていたムネモスは
全身を汗で濡らしていた。
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