10人もの肉体労働者が集められた。
防壁の内側に取り付けられた
昇降籠を降ろす為に。
昇降籠は哨兵の為の食料の運搬以外にも、
石や油、敵の死体や動物の死骸などを載せ、
壁外の敵に向けて落とす為の防衛に使う。
不要物を使って嘲る手段もある。
抵抗を続けたところで兵士も食料も損耗し、
成果も得らないので、敵の戦意を削ぐ方法が
兵学の本に記されている。
見張台から降りてきた籠が地面に着くと、
中からは総督のマルフが出てきた。
マルフは自分の持っていた
白羊毛のコートに気付き、
それを着ているわたしに指示する。
兵士達から睨むような視線が集まる。
わたしは深く頭を下げると、
背中を通じてまた右腕が痛む。
「こんにちは。マルフ総督。
ナルシャのニクスです。」
「こんな大事に、
夜の館のドレイプがなんの用だ。」
頭巾と宝飾巾のせいで、
わたしをドレイプと勘違いしている。
腕を掴んだムネモスが、
わたしの顔を見てきた。
彼女は分水街の総督に初めて会う。
「隣はエルテルの先代領主、
エリク卿の娘のムネモスよ。
隣のドレイプは、誰か分かるかしら?」
わたしは意地悪な質問をすると、
サンサは小さく頭を下げた。
今日の曇り空のような
鈍色の髪の彼女を見ると、
マルフは細い目を剥き出しにして凝視した。
「…その髪、まさかサンサか?」
サンサは鼻口を覆う宝飾巾を降ろし、
頭巾を上にして顔を見せる。
サンサの動作に合わせたのか、
マルフはコットンを詰めた頭巾を脱いで、
丸い頭に汗を光らせていた。
「カヴァの軍が来たのなら、
賭けはあなたの負けかしら。」
サンサが言って微笑する。
「わしを捓いに来たのではあるまいな?」
マルフは表情を険しくする。
「挨拶代わりのただの確認よ。」
「いや違うっ。
これはユヴィルを裁判にかけた影響だ。
全てはサンサの企みのせいだろう。」
「企みだなんて、人聞きが悪いわね。
ユヴィルを偽の競馬場共々潰せて、
おいしい思いをしたあなたが。」
ユヴィルはカヴァの傭兵団を騙り、
分水街の西側を占拠していた。
ユヴィルの傭兵を殺し、
カヴァからの侵攻を危惧していたマルフに、
サンサは賭けを持ちかけた。
カヴァの侵攻、包囲から免れると
賭けはサンサの勝ちになる。
劇場の権利を求めたマルフが
この賭けに勝つ条件は、
なにもしないことだった。
マルフはサンサに手紙で唆されると
夜の館を訪れ、彼女と会談をしたことで
ユヴィルとの対立に関与してしまう。
誘拐事件が起きると、
翌日にはユヴィルの全権利を剥奪する為の
裁判が開かれた。
彼の資産は娼館以外を街が接収し、
収穫祭を迎えて東西の対立問題は
解消したかに思えた。
しかしマルフが懸念していた
カヴァの軍が街に来てしまい、
劇場の権利どころではなくなった。
サンサはわたしが館に来た時から、
この状況を予想していたように思う。
「ニクスは劇場の権利、欲しい?」
「え? 要らない…。」
「ムネモスは?」
問われたムネモスも首を横に振る。
ムネモスは冗談さえ笑える心境ではない。
「要らないものを押し付けないでよ。」
「いまは厳戒態勢の最中だっ!
こんな話をしておる場合ではない。
しかし、要らないというなら
わしがだな――。」
叱責して咳払いしたマルフの
欲が喉から出た。
「膠着して退屈でしょう?
話し相手に来てあげたのよ。」
「ドレイプの意見が
聞き入れられる状況ではないぞ。
サンサであってもだ。」
マルフはサンサ目当てで防壁を降り、
持ち場を離れている現状には説得力がない。
彼はサンサの手のひらで、
思い通りに転がされている。
「分かってるわよ。
マルフは両腕があっても
弓の一つも引けないでしょ?
意地の張り合いをするのなら、
西門をいますぐ開放した方が
相手よりも優位に立てるわね。」
「なんだと?」
マルフが眉間に皺を寄せ、
怒りを込めて訊ねる。
サンサの一個人の意見は、
マルフであっても
聞き入れられるはずがない。
「降伏しろというのか?
民衆の平穏を脅かす行為だ。」
元老院から選ばれた総督のマルフが、
議会を無視して決定を覆せるはずもない。
感情を沸かせるマルフの見解に、
隣のムネモスがわたしの腕をまた握る。
西門を閉ざしているのは、
街を統べる元老院議会の意志だった。
総督であるマルフ個人の持つ権限よりも、
元老院議会の立場は上になる。
代々総督をやっていたメリエ家、
スーの両親が死去して以降、
総督は元老院議会の合議で選出される。
権力者は議会の許可なく軍事に関われず、
武力を自由に行使させない制約を設けた。
この制約も先代のハミウスが
総督だった時期に起因する。
元老院にとって肩書きだけの総督は、
首輪にロープで繋いだ
犬も同然の存在になる。
「降伏しろなんて言わないわよ。
守りに徹しても相手が飢えに耐え兼ねて、
軍の退去を祈るだけでしょう?
飢えた相手が、
攻めてこないとも限らないわね。
あなたが相手の立場なら、
どうするつもりかしら。」
防壁の外側にいるカヴァの軍を警戒し、
侵攻を防ぐ前線の指揮官になったマルフは、
責任だけを押し付けられている。
彼自身も迅速な判断が下せない。
幼い頃から兵学を教え込まれる貴族や
上流階級の生まれではないマルフは、
清浄屋を営むただの貴族化商人だった。
元は無産街出身の賤民に過ぎず、
馬術を身に付けているはずもないので
兵士達には支持されていない。
傀儡の指揮官では混乱を招き、
兵士達も命を預けるに値せず、
指揮官の命令には従えない。
周囲の兵士達は苛立ち睨みつけ、
態度がマルフへの評価になっていた。
「西門が開放できるまで、
あなたは自分の指でも腕でも
固く縛って腐らせるつもりかしら。
物流の停滞は
街の経済に死を与えるわよ。」
サンサはわたし達を見た。
わたし達の後ろには行商人が集まり、
隊商の馬車が街道を埋め尽くしている。
彼女は街道を血管に例えた。
血流が途絶えれば
その部位はやがて機能を失い、
腐り、朽ちていく。
「だが、これは街の意志でもある。」
マルフは自分の言葉の責任を元老院に、
さらには街の総意とまで言い換えてしまう。
「分水街の冬は街娼にとっても
税を得る街にとっても稼ぎ時なのは、
あなたも知ってのことでしょう?
清浄屋のあなたなら
この状況を理解できるはずよね。
元老院の計画で
同じように東門を無期限に閉ざされた時、
あなたはそれに耐えられるのかしら。
マルフ、あなたは清浄屋としての
本分を忘れているわね。」
「わしは総督だ。
街を守る義務がある。」
元老院議員かのような雄弁な演説に
サンサはわたしを見る。
サンサの考えに同情して
わたしは首肯していた。
「あなたに出来ないのなら、
これからわたしが出ていって、
カヴァの軍に帰るように
交渉してあげるわ。」
「元老院がそんな勝手を許すはずがない。」
胸元を握り締めるマルフの言い訳に、
サンサは聞く耳を持たない。
「あなたの身に
危険が及びはしないわ。
終わりの見えないこの状態が長く続けば、
今度は内側から暴動が起こるわね。
ネルタの次は無産街が灰燼になるわよ。」
北側の無産街を指示して脅す。
「ぐぐぅ…。」
胃を痛めて苦悶の表情を浮かべるマルフに、
わたしはムネモスを連れて前に立つ。
「マルフ。
サンサが賭けに勝利する条件は
まだ成立してないわ。
カヴァの軍の包囲、侵攻から
免れることだものね。
でもサンサの提案を受けなければ、
どちらにしても立場が危うくなるわね。」
眉間に皺を寄せるマルフと
微笑するサンサ。
「総督の失墜、地位の簒奪が
元老院の狙いなのかしら。
カヴァに攻めて貰うか、
暴動が起きれば良い。
兵を指揮できないマルフには、
状況を打開する力が無いもの。
無産街出身のマルフが、
総督の地位に就いていることを
彼らは妬んでいるのね。」
「穿った見方ね。」
言ってサンサは頷いている。
劇場で舞台に立ち、
栄誉を得たマルフを相手に妬む者が居る。
元老院の人間が嫉妬に駆られただけで、
街を危険に晒す賭けに出るとも思えない。
サンサの考えている通り、
これはわたしの願望の創作でしかなく、
欠点ばかりの推論には何かが欠落していた。
「元老院は…。」
マルフは考え、言葉を呑む。
「押し付けられただけの責任に
病む必要はないわ。
そんな時は考え方を変えるの。
マルフはカヴァの軍に、
『運命の女』を差し向けた
ってことにすればいいのよ。」
「運命の女? サンサお姉様が?」
意味を知ってか知らずか、
疑問を口にしたムネモスに、
わたしは言って笑ってしまう。
良い意味で使われる言葉ではない。
わたしの挙げた運命の女というのは、
国をも破滅させる罪人を意味している。
オーブ領で森の賢女と呼ばれたサンサが、
エルテル領では運命の女と呼ばれても
喜んでいた、とエリクは言っていた。
「発想の転換ね。
ドラスは娼婦好きだものね。」
当のサンサまで同意すると
カヴァの王子、オルドラスを侮辱する。
「カヴァの軍がこれで撤退した後は、
マルフが成果を独り占めできるわよ。」
マルフがカヴァに、
ドレイプを送る口実になる。
口実を与えるのがサンサの仕事。
マルフの凝り固まった考えが解されて、
こちらの意見に傾き始めた。
「それでも賭けはわたしの勝ちになるから、
夜の館の徴税を免除する件も
忘れてはダメよ。」
「むぅ…。」
サンサは揺さぶるようなことを
わざと告げる。
わたしは息を吐いて、マルフの背中を押す。
「門をずっと開放する必要はないの。
閉じていた門が突然開放されても、
カヴァの軍はこれを罠と疑うものね。
カヴァが無謀にも進軍を選んだとしても、
街に入って攻められる前に門を閉じれば
そのまま包囲できるわね。
兵学にもある奇襲の一つよ。
罠にかかった鼠も同然よ。」
わたしは兵学には明るくないけれど、
鼠の例えにマルフが想像で頷き、
納得がいく様子だった。
「西門に溜まっている行商達も、
兵士達が厳戒態勢を解かなければ
状況を理解して警戒するはずよ。
西門を出られたとしても、
西に待ち構える飢えたカヴァから
積み荷の徴発を恐れて、
安易に移動もしないわ。」
言って視線を背後の彼らに向けさせる。
「開放の姿勢を見せれば、
この混乱も一時的に治まるわ。」
エルテルに堆肥を運ぶ
清浄屋のマルフであれば、
門を閉ざされた行商達の焦燥に共感する。
夜の館のドレイプから呼ばれ、
マルフが防壁から降りて来た時点で、
兵士や行商達からの反感は免れず、
総督としての意志を貫けてはいなかった。
「手札を多く手にしたところで、
腐敗で負けになる理由がわかるわ。
この勝負にマルフが責任を負うことで、
得をするのは誰かしら。」
わたしの意見に、
サンサはさらに付け加えた。
「エイワズがなにか言ってきたら、
この子の責任にすればいいわね。」
「えっ? サンサの責任ではないの?」
「責任者は仕事を下の者に委ねることが
できるのよ?」
「もう…。」
彼女は声を弾ませ、肩で笑う。
わたしは肩を落とす振りをすると、
腕が痛んでなにも言えなくなった。
「わしは小娘相手に
責任を押し付けるようなことはせん。
分かった。
お前達もそれでいいんだな?」
マルフがようやく覚悟を決めて、
わたしも仕方がなく首を縦に振った。
怯えるムネモスも小さく頷いたので、
イオスが短く鳴く。
「戻ってきたら、
また食事でもしましょう。」
サンサは宝飾巾で鼻口を隠すと、
目を細めて微笑を浮かべた。
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