第10章 第1節 鈍色の蓋(第2項)
「隣はムネモスが使うわよ。
いまのあなたはなにもできないもの。
傷が塞がるまで退屈だと思うから、
スーの忘れ物をあなたに
預けておくわね。」
羊皮紙の束がわたしの目の前に置かれ、
風を受けて目を閉じた。
「スー…。」
「無理せず寝てなさい。
まだしばらくは
あなたに任せられる仕事は無いもの。」
――わたしの、仕事…。まだ?
サンサから与えられた仕事といえば、
休養日に開かれる勉強会くらいなもので、
いまの状態でそれが務まるとは思えない。
それにサンサやメノーが館にいれば、
わたしの勉強会よりはよほど有意義なはず。
羊皮紙に触れて左手を動かすと、
背中を通じて右腕が痛んだ。
浅い呼吸を繰り返し、
痛みの波が治まるのを待つ。
スーのベッドの羊皮紙は、
以前にいくつか目を通したことがある。
大陸の知らない地名の会社で使う
給金と借金の記録や、旅行先の計画。
写本の書き損じ、手紙、恋文の下書き、
散発的な詩歌の断片、子供の名前の練習。
貴金属品や毛皮の相場の変動に、
上書きされる知らないひとの日記。
動物の解体や腐敗の観察記録、
野草の絵と、味や調理方法の記述。
全てエンカーンで書かれている以外、
関連性が見当たらない。
これらの紙は、大陸から来る
陶磁器の緩衝材にされ、
箱に詰められている。
本来は捨てられるはずのものを
スーは集めて散らかし、眺めていた。
わたしが空腹で目を覚ますと、
山羊のお乳で溶かしたパン粥か
ポッポを潰した味のないスープが、
ムネモスによって毎日押し流される。
味の薄いスープばかりで
以降の食前の祈りは、
ヤゴウへの要望を口に出すことにした。
「またアラズ興亡詩の続きを、
聞かせてください。」
「んー。」
ムネモスがわたしのベッドに座ると、
本を持ってきて催促する。
食事以外で起きている時のわたしは、
アラズ興亡詩という4冊の厚い本を
読み終えられるほど、なにもしてなかった。
わたしの介助で時間を持て余している
ムネモスには、大陸語の勉強ついでに
興亡詩の読み聞かせをした。
下の部屋のファウナが仕事の途中に、
羨むような目で部屋を覗き見するので
声を掛けないように努めた。
ファウナに視線を向けると、
彼女に逃げられてしまい関わり方が難しい。
退屈を持て余して昼に寝るとイオスが
わたしの胸を前足で何度も踏みつけて、
顔に後ろ脚を乗せて傷以外で苦しめた。
――顔に臀部を向けないでよね。
苦しいのはわたしだけではない。
この部屋で眠るムネモスも、
イオスが乗っても居ないのに苦しんでいた。
ムネモスを従業員部屋で
メノーと一緒に寝させない理由も分かった。
「お父様…お母様…クロノ…。」
あの日の事件を悪夢に見て、
故郷の家族の名前を呼んでいた。
――スーも以前、
悪夢に苦しんでいたわたしを
こんな風に見てたのかしら。
わたしはムネモスの毛布を掛け直して、
彼女の苦しみが早く和らぐのを
祈ることしかできなかった。
事件から何日か過ぎると、
右腕に巻かれていた革が取り除かれた。
垢で黒変している前腕は、
わたしでも分かる濃い体臭を発した。
温湯に浸したタオルで軽く垢を拭き落とす。
布が傷口に触れると痛みで肘が痙攣する。
腕の傷は縦に真直に伸び、
傷口が腫れて膨らみ、歪んでいた。
イオスに引っ掻かれてできる
傷跡にも似ていても、
広さや深さは異なる。
赤く細い糸が傷口を縫い合わせ、
皮膚を出入りしていた。
腕の垢を拭き取った後で、
オレームの油を大量に塗っていく。
「本当にこれ、抜くの?」
「もちろんよ。
痛くないわよ。たぶん。
不安ならまた塊茎を噛んでみる?」
「それは嫌…。」
セリーニの塊茎の味や、
臭気を思い出しただけで気分が悪くなる。
「ふふっ。いくわよ。」
嫌がるわたしを喜んだサンサは、
握り鋏で糸を断つ。
ムネモスが皮膚の穴を広げ、
サンサが糸を抜いていく。
サンサの言う通り痛みは無かった。
赤ネイプの酢漬けを
初めて食べた時と同じく、
髪の毛の穴が全て開くような
奇妙な感覚に襲われる。
「うわぁわぁ…。」
わたしに代わってムネモスが声を漏らす。
「洗う時は揉むように洗いなさい。
糸を通していた穴は傷と同じだから、
爪で引っ掻いたり浴場の肌掻き器を
使ってはダメよ。」
変色した右腕にイオスが鼻先を近付けると、
わたしに顔を向け、口を開けて固まった。
イオがわたしの右腕に向けて
後ろ足で蹴って毛布を掛けようとすると、
サンサとムネモスが声を出して笑う。
右手は小指が動かない上に、
どの指も動かせば激しい痛みがあり、
軽く捻ることも困難だった。
まだしばらくのあいだ、
ムネモスが介助してくれた。
食事や浴場はまだしも、
御不浄にも付き添うつもりでいたので、
メノーと同じくわたしも断る。
彼女は右手のみならず全身の按摩をし、
乳液を塗り、髪を梳き、爪を切って磨き、
食事や服の用意をしてくれる。
わたしはムネモスの介助に不満はなく、
彼女は使用人の真似事をして、
毎日わたしに笑顔を向ける。
寒さが増し、衣装室の鍵はいま、
ムネモスと新入りのゼニが管理していた。
ゼニはわたしが孤児院で選んだフランジで、
1番部屋のセセラの下で働いている。
傷は切れ目や縫い穴が塞がっても、
右手は自由に動かせない。
左手で食事は出来ても文字は書けず、
館の中を歩けても体力は衰えており、
読書ができても勉強会はなかった。
認証管理のファウナの補佐は、
双子のミニとアミが担当している。
双子は仕事に飽きては部屋を抜け出し、
手紙かゴミを持ってきてわたしに朗読させ、
大燥ぎしてムネモスに呆れられていた。
館の仕事がなにもできないわたしは、
部屋から出る気にもならなかった為に、
双子に頼られるのを内心で喜んでいた。
大陸語の勉強をするムネモスと休憩に、
四時の札遊びを教えていた日の朝だった。
「…ふぇ?」ムネモスから奇妙な声が出た。
わたしが夜の星札を出して逆順にすると、
大きな値の数字札ばかりを残していた
ムネモスは、分かりやすいほど焦り出す。
「二人共、出掛けるわよ。」
左手での生活に慣れてきた頃、
サンサが衣装室から白羊毛のコートを
わたしのベッドの上に置いた。
「うん?」
「でしたらもうお終いですか?
え? あれ…。」
ムネモスは手札を公開して動きを止めた。
顔を上げてサンサを見ると、
サンサの黒かった髪は
鈍色へと変化していた。
いつもの肩に届く程度の暗い黒髪から、
銀に近い長髪の三つ編みに変わっている。
サンサはレナタと同じドレスを着ていた。
ドレスは上半身と下半身で分かれた服で、
下半身側の裾は踝まで長く伸び、
折り目が付けられている。
「どうしたのですか、サンサお姉様?」
動かずにいたムネモスがようやく訊ねた。
「これをニースというのよ。」
「…ニースだわ。」と、わたしも言う。
ニースという単語は様々な意味を持つ。
ネルタでは『普通ではないもの』を示し、
オーブ領では神のように畏れられていて、
分水街では『分からないもの』の鄙言。
サンサはニースのことを以前に、
禁足地にある仕組みと説明した。
「…サンサはずっと、
煤染めでもしてたの?」
義髪でもない髪の変化に、
違和感が纏わりつく。
「名前を変えて身を隠すにも、
頭髪程度で留めておかないと
信用を損じるものね。」
サンサは厚手の頭巾が付いた黒のケープに、
黒の宝飾巾を用意する。
彼女によく似合う、
黒羊毛のコートを着ている。
黒い服の上で
鈍色の髪は明るく見える。
「外は寒いから、
二人にパイル生地の頭巾と宝飾巾を
持ってきたわ。
空気が乾いて埃っぽいもの。」
ムネモスとわたしは顔を見合わせた。
「え? 3人で?」
頭巾と宝飾巾はドレイプが着けるもので、
フランジは着用する必要はない。
「外、…暮相の館?」
怯えるムネモス。
誘拐事件以前に西の頭目、
ユヴィルが所有していた娼館は、
闇の館を名乗っていた。
この赤土の丘に建つ
夜の館と似せた名前で欺き、
被害を訴える客も居た。
オーナーのルービィが
闇の館を所有することになると、
赤髪の娼婦が多いこともあって、
夕空を意味する暮相の館へと名前を変えた。
ネルタとカヴァとの戦争で、
難民になった無産街の出身者が
拐かされて働いていた。
「暮相の館は、
レデとジールが
良くやってくれてるわね。」
認証管理のファウナの流言で、
独立が噂された2番3番部屋の姉妹。
オーナーの依頼で暮相の館に行き、
姉妹は娼婦達の指導をする顧問になった。
フランジでしかないわたしが行くよりも、
レデとジールの姉妹はドレイプとしての
実績もあって頼もしい。
ただ一つ不安も募る。
姉妹の同期で、4番部屋だった
『戒め』の二つ名を持つミュパも
暮相の館に移っていた。
「ニクスの教育が行き届いているって、
ルービィが珍しく褒めていたわ。」
「あの子達に教育なんてしてないよ。
サンサが劇場に行くから、
わたしは相談相手をしてただけだもの。」
「暮相の館に行くのですか?」
「これから西門に行くのよ。」
サンサは一人で義腕を取り付け、
肩に黒羊毛のコートを掛ける。
髪色や長さだけではなく、
黒猫のアルを抱いていない姿も
違和感を覚える。
「西門? 川の西端?
ドレイプの格好で?」
疑問がいくつか浮かんでも、
企みはすぐには想像できない。
「私は、ここで待っていますね…。」
ムネモスは外出を怖がる。
自分の行動でまた誰かが死んでしまい、
酷い目に遭わされる不安に苛まれている。
「大切なお客さんが来ているから、
そのお出迎えよ。
それにムネモスには、
ニクスのお世話もして貰わないと。」
「お世話って…。」
サンサはムネモスを唆す。
頼りないと思われているに違いなく、
頼っている事実に相違ないので
否定はできない。
サンサの悪巧みを想像してから、
わたしはムネモスの前に立って、
彼女の腕を引いて立ち上がらせた。
「行こう、ムネモス。心配いらないわ。」
片腕の効かないわたしが言ったところで、
ムネモスの不安は拭えない。
「根拠もないし、
わたしはこんな腕だけれど、
なにかあればサンサの責任に
したらいいわ。」
「ふふっ。」
わたしの自虐をサンサが笑う。
ムネモスはそれで仕方がなく、
わたしの手を握り返して目で小さく頷く。
「なにかあれば、わたしも困るわね。」
ケープの頭巾と宝飾巾のあいだで、
サンサの目がまたなにかを企んでいた。
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