第10章 第1節 鈍色の蓋(第1項)
濃い霧の中、湖に漂う艀。
遠く西の湖岸で本が燃えている。
寝椅子で寝ていたわたしは波に揺られて、
押し寄せる身体の痛みに耐えられずに、
足の指を動かして悶える。
護衛のグルグスが刺されて、
ウントが殺された。
その光景が何し度も繰り返される。
艀の上には燃え盛る篝火の中から
火の粉が爆ぜ飛ぶ。
わたしの隣には、
月光に照らされたトリンが
ナイフを持って立っている。
右腕が激痛に打たれる。
腕の中で小さな生物が這い回り、
白い蛆が皮膚を破り肉を喰う。
鼠が足の指に歯を立て、
骨を削っていく音が頭に響き続けた。
全身に突き刺す痛みと不快感に襲われ、
異物が喉に詰まり、吐き出される。
わたしの体内から出てきたものは、
道端に捨てられたラミーの布袋だった。
叫ぼうとしても赤黒い内臓が、
わたしの口の中から剥がれず
呼吸もできない。
悪夢の内容に驚いて目が覚めた。
ベッドに伏せた身体を起こしてみても、
平衡感覚を失って立ち上がれずに、
床に落ちて右肩を打ち付けた。
――腕が…。
あるはずの腕を失って視線を動かすと、
トリンが床に倒れたまま見ていた。
『ニクス。
あんたはこんな館に
居るべき人間ではないのよ。』
わたしはトリンを見下ろしたまま、
首を横に振る。
トリンは死んでいる。
月光に照らされても、
彼女の暗く沈んだ目がわたしを見る。
『この子はニース。』
寝ていた姉のラミーがわたしを蹴り、
右腕の傷口を強く握って皮膚を破ると、
肉が裂けて中から白い蛆が蠢く。
痛みに叫んでみても、声が出ない。
喉にまで詰められた布で呼吸ができない。
手にした布の裂け目の向こうに
ラミーが居た。
向かいの檻に。
動かなくなり、
闇色の物体になった姉。
廊下に響く足音が頭を強く叩く。
息苦しさに目を開けると、
白猫のイオスが胸の上に乗っていた。
前足を折り、鼻息が届く距離から
青色の目で見下ろしている。
わたしの視線に気付くと喉を鳴らし、
狭い額を顎に擦り付ける。
「イオス。
あなたも余計なことをしないでよね。」
視界の外でサンサがイオスを持ち上げると、
これまでの悪夢に強い疲労を覚えて、
わたしはまた浅い眠りに入った。
「あの子のことはこの子に選ばせるわ。」
部屋のどこかで、
サンサが誰かと話をしている。
――メノー?
「あれは事故みたいなものよね。」
――スーはどうなったの?
寝ているのか起きているのか、
自分の声さえ発したのか判別がつかない。
「他人の考えなんて分からないわ。
手紙を送る素直な子ではないから。
どこでも見渡せる鷹を
わたしは飼ってはいないもの。」
どこかでイオスが鳴いている。
濁った鳴き声は抗議を意味する。
わたしは厨房で
イオスのお皿を探さなければいけない。
「わたしにできることなんて
古傷の感覚で天気を当てるくらいよ。
身分や地位、お金や技術があっても、
試行や量産は相応の時間がなければ
解決しないわ。
費やせる時間は相対的なのだから、
人間一人の代価で、
多くの見返りを求められても困るわよ。」
――ルービィ…?
会話の相手の声も聞こえない。
頭の中に靄が漂い、
会話の内容も意味も分からず、
話し相手を耳で探した。
ここには餌皿が無い。
「ニクス姉様。気分はいかがですか?」
「ムネ…モっ。」
ムネモスの顔を見て、起き上がろうとした。
けれど腕の痛みと吐き気で、
お腹が急激に締め付けられ、
胃の中の液体を吐いてしまった。
「あらあら。」
「やっと意識が戻ってきたわね。」
わたしは横臥したまま
サンサに背中擦られると、
内容物の無い液体でまた毛布を汚した。
次には水袋の中身を押し込まれ、
喉だけでなく鼻も痛くなる。
「ムネモス。
従業員の誰かに代わりの毛布と、
人肌程度に冷ましたお湯を貰ってきて。
浴場の残り湯ではなくて、
今度は飲めるものよ。」
――今度…?
「一人で全てをやろうとしてはダメよ。
他のひとに頼ることも意識しなさい。」
「分かりました。」
二人の姿もまともに見えないほど、
繰り返す嘔吐の反射で耳にも痛みが回る。
肩を動かした途端、右腕は激痛に打たれる。
右腕には革が巻かれて酷く痒い。
頭の鈍痛に、重たい瞼。
見慣れた部屋のはずが、
横臥していると床や天井が揺れ、
自分がなにを見ているのか分からなくなる。
ベッドの中で浴びる蝋燭の、
弱い光も眩しくて目を閉じる。
頭を締め付ける鈍痛が長く続く。
お湯に浮かぶ感覚と、全身を襲う気怠さ。
震えるほどの寒さと、
燃えるような熱さが繰り返される。
サンサとムネモスがわたしを見ている。
身体中を触れられる不快感で、
ネルタの塔で暮らしていた時の夢を見た。
「月経が来たからといっても、
子供が産めるわけではないのよ。」
「お精子が必要なのですよね?」
部屋で勉強会を開いたサンサに、
ムネモスが意図とは外れたことを訊ねる。
「母体が充分な栄養を取って
肉体を育てないと、
妊娠しても出産も生育も出来ないのよ。
月経は10歳を過ぎると迎えるわね。
個人の成長に差があるから、
必ず10歳に来るわけではないわよ。
成年が16歳と決まってるのは、
子供を産ませられる時期を
法で定めたに過ぎないわ。
16歳の身体で産むのは大変よ。
子供を産むのなら肉体が成長しきった、
18歳から20歳くらいからが
良いと思うわ。」
「そんなに先なのですね。」
「ベリーがあなた達を産んだのは
25歳の時でしょう?
おかげでどちらも犠牲にせず、
母体への影響も少なくて済んだわね。」
「周囲に比べて
遅かったと言ってましたね。」
部屋で二人の会話に耳を傾けて目を開く。
昼を過ぎた頃で部屋は明るかったのに、
眩しさに痛みを感じなくなっていた。
上体を起こそうとすると、
わたしの意に反してお腹が鳴った。
「今日は起きてるわね。」
「なにか食べ物を貰ってきますね。」
「消化に良いものを頼むわね。
ニクスが好きなものだからといって、
揚げ物や辛いものを与えてはダメよ。
また戻してしまうから。」
「分かりました。」
「ムネ、モス…、サン…。」
「良さそうね。」
「…良く、ない…。」
口が思うように動かない。
唇が腫れているのか感覚がなく、
低い声で明瞭に喋ることもできない。
「セリーニの塊茎は、
あなたの身体には効果が強かったわね。
半分でも良い量かしら。」
発熱のせいで彼女の言葉を理解できず、
重たい身体を傾けて隣のベッドを見た。
ベッドに積まれていた羊皮紙は片付けられ、
そこにスーの姿はなかった。
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