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可禍愛隘いいいいイイイ【序話】

作者: 卯月 幾哉

 ――――ガタン、ゴトン、…………


 高校2年生の新田遥香にったはるかはその日の放課後、いつものように電車で学習塾へ移動していた。

 遥香は乗降口の脇で、ロングシートの肩に寄り掛かってぼうっとスマートフォンの画面を見ていた。


「…………行かなきゃ、早く行かなきゃ…………」


 遥香の目の前には、何かをブツブツとつぶやく若い――遥香よりは歳上の――女性がいる。

 丸縁(まるぶち)眼鏡を掛けた地味な女性だ。


(……なんだろう? この人、ちょっと気持ち悪いな……)


 多くの乗客を乗せた電車は、そのままいくつかの駅を通過する。


 ある駅を出発した直後のことだ。


 ――車両がガタン、と大きく揺れた瞬間があった。


 背もたれに寄り掛かっていた遥香は微動だにしなかったが、彼女の目の前にいたその女性は突然の揺れにバランスを崩し、大きくよろめいた。

 彼女が近づいてきたので、遥香はとっさに、だらんと体の前で提げていたバッグを引き寄せる。


 丸眼鏡の女性は、なんとか転ばずに踏みとどまった。

 中腰になった彼女はふと、すぐそばにいた遥香の方へ顔を向ける。


(あ……)


 遥香はつい、彼女と目を合わせてしまった。


 眼鏡の奥の女性の瞳が、ぎょろりと遥香を見ている。その目の直下には、何日も眠っていないような濃いくまあとがあった。


「――あら、あなた……」


「…………はい?」


 ふと丸眼鏡の女性に呼びかけられ、遥香は1拍遅れて返事をした。

 まさか、見ず知らずの相手にいきなり声を掛けられるとは思わなかった。


「……あの、そのバッグのチャーム、可愛いですね……」

「え? ……あぁ。ありがとうございます」


(――わざわざ話しかけるほどのこと……?)


 遥香はそう思いつつも、彼女の()め言葉に愛想笑いを浮かべて応えた。


 ……ここで2人のやりとりが終わっていれば、遥香にとって、この日はまだ「よくある1日」の範囲に収まっていたことだろう。



 ――丸眼鏡の女性は、そこから更に遥香の腕に手を伸ばした。


「よく見たら、制服も可愛いわね……」

「え――? な、なに?」


 女に上着の袖口を掴まれて、遥香は焦った。

 飾り気のないブレザーのこの制服を、遥香自身は1度も可愛いと思ったことがない。


(……なに、この人? なんか(こわ)っ……)


 車両内の座席は満席で、2人以外にもちらほらと立っている者がいる。


「……し、失礼しますっ!」


 丸眼鏡の女性にどことなく異常な雰囲気を感じた遥香は、掴まれた袖を振り切ってその場から離れようとする。

 しかし、それは叶わなかった。

 次の瞬間、丸眼鏡の女性にガシッと手首を握られてしまったからだ。


(うぇっ!?)


 遥香の顔が引きつった。


「――い、いやっ! は、離してっ!」


 遥香は腕を振って逃れようとするが、丸眼鏡の女は力強く手首を掴んだまま、決して離そうとはしない。

 そのまま彼女は、もう一方の手を遥香の顔に伸ばす。


「お顔も可愛いわぁ……」


 丸眼鏡の女は唇を三日月形に(ゆが)めてうっとりと笑った。

 その笑顔に、遥香はぞくりと肝が冷えるものを感じた。


 そんな2人のやりとりを遠巻きに見ていた他の乗客も、流石にその様子が普通ではないと気づいた。

 1人、また1人と遥香たちの周囲に集まって来る。


「君、大丈夫?」

「お姉さん。この子嫌がってるから、やめてあげなよ」


 その中にいた、20代から30代前半と見られる2名の男性が、遥香から丸眼鏡の女を引きはがした。彼らは丸眼鏡の女の左右に立ち、それぞれが彼女の片腕を抱え込んで、立ったまま彼女を拘束した。

 そのおかげで、幸いにも遥香はすぐに丸眼鏡の女から解放され、ひと息つくことができた。


「――やだっ! どこ触ってるのよ!」


 ただし、その親切な乗客たちはたった1人の女性を取り押さえるのに、意外に苦労した。


「やばっ! ちょっと、そっちしっかり抑えて……!」

「お、おぉ……。この人、けっこう力あるね」


 成人男性2名に抑えつけられながら、丸眼鏡の女はなおも遥香に向かって手を伸ばし続けていた。


「もっと、もっと見せてちょうだいよぉ! 本当に可愛いんだからさぁ!」

「ひっ……」


 遥香は思わず後退あとずさりしながらも、まるで蛇ににらまれた蛙のようにその場から動けなかった。


 車両内には、拘束された丸眼鏡の女性を中心に、興奮と緊張が()()ぜになった異様な空気がただよっていた。

 彼女は恍惚こうこつとした表情で、狂ったように叫び続ける。


「あぁ、超可愛い‼ 食べちゃいたいぐらい! かわいいカワイイ可愛いいいいぃっっ‼」

「るっせぇな! ……なんなんだよ、コイツ」


 (つば)を飛ばしながら大声でわめく女に対し、彼女を拘束し続ける男性は辟易へきえきとした態度を見せた。

 丸眼鏡の女のテンションは最高潮に達していた。そして――――


「――もう死んでもいいわっ‼ はうっ……」


 そう叫んだ直後、彼女は突然、糸が切れた人形のようにカクンとうなだれた。


「えっ……?」


 遥香の小さなつぶやきは周囲の喧騒けんそうまぎれ、誰にも聴かれることはなかった。


 丸眼鏡の女性を両側から捕らえていた2人の男性は、急に人1人分の体重を支えることになって困惑した。


「うわ、重っ……!」

「まさか、気絶した? ……お姉さん、大丈夫ですかー?」


 2人は女性の肩を支えながら呼び掛けるが、彼女は全く反応しない。

 女性の首がぐわんと大きな弧を描き、眼鏡が外れかかった。


「……どうする、これ?」

「さあ……」


 2人の男性が顔を見合わせて首を傾げていると、別の1人の乗客が動きだす。

 近くで様子を伺っていた、ショートカットの女性だ。彼女は慌てた様子で3名に近づく。


「ちょっと、その人寝かせて! あと誰か、非常用ボタン押して!」


 短髪の彼女は矢継ぎ早に指示を出すと、返事も待たずに上着を脱ぎ、車両の床に丸めて置く。それをクッションにして、丸眼鏡の女性を仰向けに寝かせるためだ。

 薄着になった彼女は男性2人と協力して丸眼鏡の女性を寝かせ、声を掛けながらぺちぺちと軽く頬を叩く。


「――――駄目、息してない」


「マジかよ!!」

「やべえじゃんっ!」


 短髪の彼女が衝撃的な事実を告げると、車両内は先程とは別の意味で騒然となった。


 動けずその場に留まっていた他の乗客たちもばらばらと動き出し、その内の1人が押した非常通報ボタンのブザー音が車内に鳴り響く。


「……AEDってないの?」

「……車内にはなさそうだよ。一応、運転士に聞いてみるか」


 そんな会話をする者同士もいた。


 すぐに乗務員に状況が伝わったのか、電車はガクンと速度を落とす。

 そのときにはもう、ショートカットの女性はシャツの袖を腕まくりし、心臓マッサージを開始していた。


「……こんな、はた迷惑な死に方、してんじゃないわよ!」


 短髪の彼女は眉間にシワを寄せ、怒りをぶつけるかのように丸眼鏡の女性の胸を繰り返し両手で押し込んでいた。


「……なんなの、これ……」


 遥香は車両のドアを背に、床にへたり込んでいた。

 次々と目の前で起こる現実感のない出来事に対し、脳が理解を拒んでいた。


 ――――塾に連絡しなきゃ。


 ふと、そのことに思い至った遥香は、緩慢な動作でスマートフォンを持ち上げる。

 遥香はスマートフォンの画面に視線を落とすことで、やっと丸眼鏡の女性から目をらすことができた。


「…………」


 心臓マッサージを受け続ける丸眼鏡の女性は、意識を喪失してからもずっと、うっすらと張り付いたような笑顔を浮かべていた。




    †††




「おはよう、遥香。昨日は大変だったねー」

ともちゃん! ほんとだよ、もう。聞いてよ〜」


 翌朝。

 登校後の高校の教室で、遥香はクラスメートの三池朋子(ともこ)と話をする。


 昨日、遥香が電車内で遭遇したあの丸眼鏡の女性は、頼原よりはらという名前だったらしい。

 頼原は、居合わせたショートカットの女性――女医だと遥香は後に知った――の懸命な救命行為の甲斐もなく、そのまま息を引き取った。

 死因は心筋梗塞(こうそく)とされた。

 塾に行かずに帰宅した遥香は、ネットニュースでその事を知った。


「――ところでさ、朋ちゃん」

「うん?」


 話が一段落したところで、遥香は話題を変える。


「……今日、いつもよりカワイイね」

「え? 何、急にどうしたの?」


 朋子は遥香のその言葉を不思議に思った。

 遥香はいきなりそんなことを言うタイプではないし、朋子自身は昨日までの自分から特に変化はないと思っていたからだ。


「……わかんない。なんかふと、そう思って」

「変な遥香。……まあ、いいや。そろそろホームルームだね」

「うん。また後でね」

「はーい」


 2人は手を振り合って別れ、それぞれの席に着いた。


 間もなく教員が教室に現れ、朝のホームルームが始まる。


(……朋ちゃん、ホント可愛くなったなぁ。急に、どうしたんだろう?)


 遥香は言い知れぬ多幸感を感じながら、うっすらと笑みを浮かべていた。


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