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出会いは突然に 01



 15の誕生日、初めて海の上に行った人魚姫は船上の王子に恋をします。嵐で海に落ち、溺れる王子を命がけで陸まで送り届けました。


 水底に戻ると魔女に頼んで声と引き換えに足を手に入れ、王子の元へと向かいます。人魚姫は恋が実らなければ死んでしまう——それが魔女との約束でした。


 しかし、王子は隣国の王女に心惹かれていました。


 2人の結婚式前夜、姉が海から顔を出し、人魚姫に刃物を渡します。それで王子を刺せば姫は人魚に戻り助かると言われますが、姫はそれを拒み、海の泡となって消えてしまいました。





 『人魚姫』——はるか昔、このエルフの森を訪れた人間が置いていったらしき一冊の本。まだエルフと人間の仲が険悪でなかった頃の置き土産。

 魔法で隠されていたのを偶然発見して以来、週に一度は読み返すのが私の常だった。


 今では人間社会のものなど、見つかればすぐに燃やされてしまう。まして読んでいるところを誰かに見られでもしたらどうなることか。


 こんな危険を冒さずとも、物語自体は他にたくさんある。エルフには芸術肌が多い。

 ただ、どれもこれも予定調和で平淡な筋書き、エルフをひたすらに礼賛するような描写がどこか鼻について苦手だった。


 確かに私たちは美貌や思慮深さを持ち合わせていて、人間には使えないという魔法にも長けている。


 でも私からすればエルフなんてそんなに良いものじゃない。古来から伝わる掟に縛られた、ただの窮屈な一族だ。


 ここではどんな代償を払おうと、人魚姫のように望みを叶えてくれる魔女には出会えない。15になったからといって森の外に出られるわけでもない。

 掟からは逃れようがない。


 ——それでも、どうしようもなく憧れる。

 願い叶わず散ってしまうと知りながらも恋情を貫いたお姫様。


「いつか、森から出たい」


 空想に浸ったまま呟く。


「そして、恋をしてみたいな⋯⋯」






 ふと、見慣れた影が滑るように近付いてくるのが見えた。慌てて本を元あった場所——木のうろの中に戻す。


「アルディス、ここにいたのね」

「ララノア姉様。どうなさいましたか?」


 姉様はララノア(微笑む太陽)という名が本当によく似合う。姉様のふわりと顔を綻ばせる様子は、雪どけに咲いた花のように明るく見る者を照らし出す。

 まあエルフ族の名は各々の性質を表すようにと、ある程度成長してから付けられる習わしなので、当然と言えば当然だ。


 では、私の名の意味と言えばなにか。


「長老様が今晩来るようにと言ってらしたわ。また務めですって」

「⋯⋯分かりました」


 頬に手を当て、笑顔が引きつりそうになったのを誤魔化す。


 務めのことを考えるたび、冷たい鉛の塊を飲み下したような感覚に襲われる。

 アルディス(高貴なる花嫁)——花嫁にはそれ相応の役割がある。


「大丈夫? なんだか顔色が悪くはない?」

「平気です、私たちエルフはもともとこういう真っ白な顔でしょう」

「そうかしら⋯⋯無理はしないでね」


 姉様に声をかけてもらえるのは純粋にうれしい。この広くて閉鎖的な森の中で、私が狂うことなく生きていられるのはひとえにこの方のおかげだ。

 でも、姉様は何も知らない。同じ景色を見ていても、私と視界を共有することはない。


 とはいえ、務めの内容を知られるなんて想像もしたくないので、私は今日も明るい口調を装う。


「話がそれだけなら私、もう行きますね」

「⋯⋯そう」


 ぱっと身を翻し、木々の奥の方へと早足で進む。しばらく突き進んでからちらりと振り返ると、姉様は心配そうな表情のまま、さっきと同じ場所に立ち尽くしていた。






 湖畔をぼんやりと眺めて思考を曖昧にする。今日は風が強い。水面にさざ波が生まれては消えていく。

 絶えず動きのある風景は良いものだ。ただ変化を目で追っているだけで勝手に時間が過ぎ去ってくれるのだから。


 そうして気付けば森は赤く染まって、鳥が寝ぐらに急ぎ出す頃合いになっていた。務めの時間が近付いてくる。

 夏は日が落ちるのが遅いが、だからといって夜の来訪が永遠に先送りされるわけではない。


「⋯⋯寒いな」


 ひときわ強く吹いた風に促されるように立ち上がり、ゆっくりといつもの小屋へ向かう。長老の住まい、誰も許可なしには近付けない場所へ。






「おおアルディス。今宵は遅かったな」

「⋯⋯申し訳ございません」


 しわがれた声に暗がりへと招き入れられる。ここで長老の意に反することは許されない。


 いつも通り、されるがままに横たわり、息を殺す。


 蛇のように私の表面を這いずり回る手も、ぬるりとしたものが無理に流し込まれてくる感触も、そこかしこから伝わってくる不気味な生温かさも、何もかもすべて、考えないようにする。

 ひとつでもまともに捉えてしまえばもう耐えられなくなると知っている。




 みんな、務めが何を指すのか知らない。私と、私の母と、そのまた母と——代々の務め役(アルディス)が何を担わされてきたのかなんて知らない。


 エルフ族は通常1000年ほど生きるというのに、務め役だけはほとんどが100年経たずに死んでしまう。誰もそれに疑念すら抱かない。


 母なんて、30半ばほどで亡くなってしまった。

 アルディスの名は末の娘に受け継がれる。そうして私は13から身を捧げさせられ、早くも2年が過ぎた。あと何年生き永らえることか。


 まあ生き永らえたところでうれしくも何ともないから、短命でちょうど良いのかもしれない。




 どうでもいいことを思い浮かぶままに連ねる。数を重ねるごとに、より一層べったりと染み付いて私を汚すものを気に留めずにいるために。


「アルディス」


 ふと、急な長老の声で現実に引き戻された。途端に、傷口を塩水に浸されたようなひりつく痛みが襲ってくる。

 顔に出すまいとして片手を握りしめた。尖った爪が手のひらに思い切り刺さり、皮膚を破る。


「なぜ、お前は姉と違って笑わぬのだ?」


 姉様の方が良いと言うのならば代わってほしい——そう思った自分を即座に恥じる。


 どうせ掟で今のアルディスは私と決まっている。誰かを身代わりにすることなど考えるだけ無駄だ。

 無駄なのだから、せめて心根くらいは汚さずにいたかった。


 姉様はこんなことをする必要はない。だからこそ、あの笑顔は清らかで美しい。私にはもう二度と手に入らない(まばゆ)さ——


「申し訳ございません」


 虚ろに謝罪を述べると、長老は深々とため息をついた。

 力を込めていた左手から生ぬるく滲んだ液体が指先を滑らせる。


「愛嬌くらい身につけてはどうだ、アルディスよ」

「努力いたします」

「毎度毎度、興が削がれるな」


 長老は苛立たしそうに私を鋭い目を向ける。老いて落ち窪んだ目から放たれたその眼光は、暗闇の中でもはっきりと感じ取れた。


 以前こうして睨まれた後に待ち受けていたことを思い出して、身体が勝手に震え出しそうになる。

 手をさらに強く握り込んで耐えた。血が滴り落ちる感覚があったが構わない。


 ——私のことが気に入らないのならば、もう終わりで良いだろうに。


 口には出さない。


 少しでも抵抗すれば過剰な痛みを味わわされ、この時間が余計長引くことはとうの昔に知っている。

 泣こうが叫ぼうが誰も助けには来てくれない。それもとうの昔に知っている。


 黙って(くう)を見つめ続けていればいつか終わる。

 それが一番早くて、これ以上摩耗せずに済む唯一の手段だ。






 外に出られた頃にはもう、空の端が白んでいた。


 一刻も早くこの場を後にしたいが、長老の目が届くところまでは歩いて立ち去るようにしている。急ぐ素振りなど少しでも見せようものなら、次に顔を合わせたときに何を言われ何をされるか分からない。


 十分に離れられたと判断してから、衝動のままに駆け出した。幼い頃から慣れ親しんだ木々の隙間を縫って走る。


 息が切れ、頭がくらくらとしてきて、草の根に足を取られて幾度か転び、擦り傷を作ってもまだ足りない。傷なんてどうせ数時間もしないうちに治ってしまう。

 結局今日も、えずくまで走ってから膝をついた。


 どろりと苦い液体が喉からせり上がってきて、地面に染み込んでいく。


 胃の中にまだずっしりと居座っていた冷たい鉛の塊も一緒に吐き出そうとして、それに実体がなかったことに気付く。

 いつものことなのに、どうして、いつも忘れているのだろう。


 夜が明けて間もないひんやりとした湖に潜り、必死で内の冷たさを誤魔化す。

 だんだんと自分の輪郭が曖昧になるのを感じてようやく私は、正気になれた気がした。


 水中にいると人魚姫のことを思い出す。綺麗なまま泡と消えたお姫様が羨ましい。

 もちろん恋路としては悲しいものだけれど、それでも羨ましい。だって私は、どうせ外に出ることすら叶わないのだから。


 とうに汚れ切ってしまった私には、夢を見ることしか救いがない。






 湖から上がり、覚束ない足取りを自覚しながら森のはずれへと向かう。


 切り立った崖の上にあるこの森は、外部から完全に隔絶されている。唯一伸びた細い道は町の方に続いているが、掟に縛られたエルフには通ることができない。

 人間は普通に行き来できるようだが、それでも地元の人はわざわざ近寄ろうとしないらしく、極稀に迷い込んでくるのは旅人だった。


 だから、ここは誰にも会いたくないときにうってつけの場所だ。




 ところが今日は先客の姿があった。


 人間だ。スケッチブックを草の上に直接置いて、絵を描いている。20歳半ばほどだろうか、明るい茶色の短髪が風に遊ばれている。


 光を浴びた横顔からなんとなく目が離せないでいると、うっかり視線が合ってしまった。

 髪と同じ茶色の瞳が印象的だった。ここでは見ない色。


「あれ? 君は⋯⋯もしかして、おとぎ話でよく聞く妖精の⋯⋯」


 去ってしまおうか一瞬躊躇って、結局頷いた。


「あ、もちろん人には言わないでおくよ」


 なんとなく、人の良さそうな方だと思った。木々の間に隠れるのをやめにして、少しだけ近付いてみる。


「噂には聞いてたけど、本当にいたんだね」

「⋯⋯ええ」


 私たちの姿を直接見た人間は意外といるのだ。ただ、そういう人間は殺す決まりになっているから話が外に漏れないだけ。


 今から500年前、エルフは信頼していた人間に裏切られ、時の権力者に狩られることになってかなり数を減らしたらしい。そして最後に逃げ込んだのがこの森だという。

 みんなが人間を殺すのは居場所を悟らせないため、身を守るため。だから私は、こうして見かけても見て見ぬふりをする。


 関わることも避けていたはずだったが、たまには良いだろう。


「絵を描いているのですか?」

「うん。まだ全然思うようには描けないんだけどね」


 差し出されたスケッチブックには、こちらから見た町の風景が描き出されていた。けして繊細ではないが、どこかあたたかみのある筆致。


「良ければ、君のことを描いても?」

「どうぞお好きに」


 素っ気なく言い放ったのに、返ってきたのは柔らかい笑みだった。


「僕はノアって言うんだ。君は?」

「⋯⋯アルディスと申します」


 あまり名乗りたくなかったが、どうせ人間には意味も分からないだろう。それに、意味を解しているエルフでさえも、名とともに課せられた役割には気付かないのだ。


「アルさん」

「⋯⋯はい」


 そういう風に略称で呼ばれるのは初めてのことだった。ここにそんな文化はない。

 しかし、『アル(高貴な)』の部分だけであれば大して耳障りでもないと気付いた。少しだけ憑き物が落ちたように感じられる。




 筆先が白い紙の上を幾度も滑り、濃淡をつけていく様子を横目で眺める。


「できればもう少しこっちを向いてくれるとありがたいんだが⋯⋯」

「え」


 真剣な眼差しを向けられることが気恥ずかしくてわざと明後日の方を向いていたのに。


「あっ、視線は落としたままでも良いから」


 私の戸惑いが表情に表れていたのか、慌てたように言葉を付け加えられた。


「⋯⋯分かりました」


 観念してノアさんの方に向き直る。それから再び紙の上に目線をやって、絶え間なく動く手元を見つめた。




 やがて、町の方からかすかに鐘の音が聞こえてきた。


「あっ、そろそろ本業が始まるから帰らないと」

「そうなのですね。お気をつけて」

「明日の朝もここに来ようと思うんだけど良いかな?」


 なぜ私に確認を取るのだろう。疑問が脳裏をよぎり、それから少し遅れて未完成のデッサンが目に入って、明日も描いて良いかと尋ねているのだと気付いた。


「⋯⋯好きになさってください」

「ありがとう」


 私は、なんだか不思議な心地になって、細い一本道を急ぐ後ろ姿が見えなくなるまで眺めていた。






 そして翌日も、言葉通りその人はやってきた。


 木の根に座り、昨日と同じようにひたすら筆先が動くのを見つめる。

 しばらくそうしていると、唐突に質問を投げかけられた。


「アルさん、やっぱり君はもう何百年も生きてるのかい?」

「いえ、私はまだ15です」

「そうか。伝承の存在だからてっきり見た目より年上なのかと思ったよ」

「流石にずっと外見が変わらないわけではありませんよ」


 苦笑しつつ答える。


「20になるまでは普通に成長します。それから数百年は見た目が変わりませんが、晩年が近づけば老いることもあります」

「へぇ」


 とはいえ、私が見たことのある老いたエルフは長老くらいだ——嫌なことを思い出してしまった。瞬時に脳内の映像をかき消す。


「そうそう、今日は絵の具を持ってきたんだ」


 気付けば、紙の上には華やかな彩りが生まれ始めていた。


「あの、私の髪はそんなに色鮮やかではないと思いますが」


 ノアさんは一瞬だけ驚いたような顔をして、それから破顔した。


「そうかもしれないね。でもアルさんが自分で思ってるよりはきっと鮮やかだよ。ほら、この辺りとか——」


 髪に手を伸ばされ、咄嗟に身を引いてしまう。それに自分でも少し戸惑った。


「あっ、すまない」

「いえ、こちらこそ⋯⋯お気になさらず⋯⋯」

「いや、失礼した」


 どことなく気まずくなって口をつぐむ。


「白には草木や花の色がよく反射するし、光の加減も手伝って鮮やかに見えるんだ」


 黙り込んでしまった私に気を遣ってか、ノアさんはのんびりとした口調で話し続けてくれた。


「まあ少し大げさに書いてはいるんだけどね」

「そうなのですか」

「ああ。何を描くにしても、ただの上手い絵じゃ本物の美しさには叶わないような気がしてね。少しでも映えるように何かしら加えたくなるんだ」


 これまで実物に沿った精巧な絵ばかりを見てきたので、とても斬新な観点だと思った。


「まだ僕が見たものを見たままに描けないからかもしれないけど⋯⋯変かな」

「いえ、素敵だと思います」

「はは、ありがとう」


 この日も鐘の音を合図に、翌朝の約束をしてノアさんは帰っていった。






 3日目にして、真っ白だったスケッチブックの一面は見事な彩りで埋め尽くされていた。しかし、それを描いた当の本人は何やら考え込んでいる様子だった。


「うーん⋯⋯」

「完成したのではないのですか?」

「一応そうなんだけどね⋯⋯」


 手元と私を何度も見比べている。どうも納得が行かないらしい。


「もう少しだけ描かせてもらっても良いかな?」

「どうぞお好きに」


 そう言いながら、自分の頬が至って自然に緩んだことに驚きを覚えた。


 ——願わくばこの時間がずっと続きますように。

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再臨の魔女ラヴィーシア
魔女狩りと戦う魔女のお話もよろしければ
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