06
「鉄火神よ――」
戦いの中、初めてザインが言葉を発した。
無論、長爪竜に語りかけたのではない。
自らの頼む剣以外の力、かって『御山』で修験に励んだ結果身につけた、もう一つの力を呼び起こすための祈祷文。
それは日常を生きるための信仰の、その更に先へと向かうもの。
人の身が理不尽な障害を打破するために降された、天からの他力。
「其の降魔の利剣を貸し与えたまえ――」
法術。
魔術と並ぶ、秘儀である。
長剣の曲がった刀身が燃え上がる。
灼熱を付与された鋼が真っ白に灼ける。
長爪竜が、それを見て一歩後ずさる。
本能的なものか、先ほど爪を切り落とされた痛みを思い出したのかは分からない。
使えば有利になるのは分かっていた灼剣加持の法術を、今まで温存したのにも当然理由がある。
本来、付与された法術の熱は魔術同様、武具そのものを侵さない。
だがザインの場合、この原則が通用しない。
付与された武器は、力を込めた時同様に熱を持った。
法力もまたザインの力の内と、その身を縛る理には見做されているらしい。
つまり、使えば確実に武具の寿命を縮める。
故にザインは一歩前に出た。
対して長爪竜は、下がらなかった。
その場で姿勢を落とす。
足に力を溜めていた。
鼻息が荒い。今まで一番に。
興奮は冷めやらず、しかし変化している。
喜びから怒りへ、そしてまた喜びへ。
勝利ではなく、闘争そのものへの歓喜。
それもまた、亜竜の知性の高さを示すものであった。
あくまで人ではなく、獣としてではあれども。
――俺も、あるいは獣の側か。
自嘲ではなかった。自認、あるいは覚悟。
「――あぁ!」
気合いの一声と共に、初めてザインの側から仕掛ける。
白熱する刃を振り被り、真っ直ぐに間合いを詰めた。
熱い。
剣の熱が握りの革を貫いて手の内を焼く。
振りかぶって近づいた刀身が、前髪と額を燃やす。
熱い。
痛い。
感じる、されど気にはならない。
もはや苦痛を評する言葉が、頭の中に無い。
言葉以外の全てで、ザインの内は埋め尽くされている。
身体が前傾を取る。
奇しくも、亜竜に似た姿勢。
長爪竜が跳ぶ。
だが低い。さきほどと違い、上では無く前に跳んだ。
ザインが前に出た事に合わせたのか。最短で、左の三本爪を伸ばしてくる。
狙いは、前に屈んだザインの顔面。
突進する長爪竜は全身が凶器そのものである。
受ければ、次の噛み付きで終わる。
分かった上で、ザインは真っ直ぐに立てた長剣を前に構えた。
受ける。
そのまま、振り下ろす。
長爪竜が吠えた。
絶叫である。
左前足から、右と同じく二本の爪が消えた。
残った一本も、半ばで折れている。
無くなった二本に至っては、指すら無い。
ザインの剣は一本目を切り飛ばし、そのまま左前足を縦半分に割っていた。
そのザインも、額から血を吹いている。
半分に断たれてなお、残った爪は衝突の際にザインの額を引き裂いていた。
引いていた汗に変わって、真っ赤な流れがザインの視界にかかる。
だがもう、拭おうとはしない。
見えていた。
見えずとも、見えていた。
互いの息がかかる程で交差した一瞬、振り下ろすべき一線にザインは振り下ろす。
もはや長剣の有様すら意識になかった。
だから気付いたのは、ぐしゃりという手応えがあってからだ。
怖気立つような、嫌な手応え。
斬り込んだ感触ではない。
振り下ろした剣が長爪竜の首筋にぶつかって曲がり、巻き付いた感触だった。
熱は、すっかり長剣の鋼を柔く変えてしまっていた。
絶叫が悲鳴に変わる。
真っ赤に灼けた鉄の襟巻きは、いかな亜竜と言えど拷問に等しかったのだろう。
大きく長爪竜が巨体をよじった。
それが見えた次の瞬間、ザインの身体が大きく吹き飛ばされる。
長爪竜最後にして渾身の、尾による薙ぎ払いだった。
先端ほどの速さは無いが、尾の根元に近い太い部分に盛大に脇腹の辺りを打ち据えられる。
仰向けに倒れ込んで、ザインが喘ぐ。
呼吸が出来ない。
息を吸い込んでも入ってこない苦しみに顔を歪めながら、それでも体を起こし、立ち上がる事を試みる。
だが遅かった。
体を起こした時にはすでに、長爪竜の背中は離れた茂みへと駆け込んでいく寸前だった。
その手前に、細長い物が落ちている。
長剣の曲がって折れた刀身だ。
首に巻き付いた後、長爪竜が首を捻った拍子で引き千切られたのだろう。
ザインの右手はまだ長剣を握りしめた感触があったが、手元を確認する余裕はない。
待て、と叫ぼうとして、口を動かす。
だが声は出ない。息がまだ吸えないでいた。
ぱくぱくと口を開閉している間に、背中は見えなくなった。
もはや追いつく事は敵わないだろう。
――逃してしまった。
止めを刺す前に取り逃がした事実に、ザインは拳で地面を叩く。
食いしばった歯の隙間から、ようやく息が流れ込んだ。