05
――不味い。
ザインに出来たのは、とっさに剣を斜めに掲げる事だけだった。
今までとは段違いの衝撃が腕を襲う。
長爪竜の振り下ろした右前足の爪が、掲げた長剣と真っ向から噛み合っていた。
押し負けこそしなかったが、かけられた重さで剣が動かない。
人間同士なら、鍔迫り合いになったかもしれない。
だが、相手は亜竜である。
さらに一歩、踏み込んできた。
四角い顔が、縦に開く。焼けた鉄を掴もうとする、やっとこのように。
――噛み付き、来る!
「おおっ!」
思わずザインは吠えていた。
身体を捻り、渾身の力で爪を受けた剣ごと身体を左に捻る。
渾身の力が長剣にかかった後、不意に抵抗が消えた。
つんのめるように斜め前に逃れる。がちん、と耳元で歯の鳴る音が聞こえた。
そのまま二歩を大きく走って向き直り、剣を構え直す。
湯気が出るほどだった全身の汗は、すっかり冷えていた。
――しくじった。
手応えが消えた瞬間から、嫌な予感はあった。
長爪竜が唸っている。先ほどまでの単純な怒りによるものではなく、強い不快感と、若干の戸惑い。
その右前足の爪三本の内、二本が根元近くから消えていた。
折れ飛んだのだ。
今までと同じ力で斬りかかる事はもう出来ない。明らかな弱体化ではある。
だがザインは喜べない。
その代償が目と鼻の先にあるからだ。
長剣が、曲がっていた。
切っ先から刀身の三分の一ほどのところで、緩く反り返っている。
さらによく見れば、剣を為す鋼の色が黒く、また一部がほの赤く色変わりしている。
熱を持っているのだ。先ほどの押し合いのせいである。
これがザインの、難儀な事情だった。
強く力を込めると、得物が熱を持つのだ。
これがただの魔術による強化なら、武器の表面を火や熱が覆うだけで済む。
だがザインの場合、熱は握った柄から先端に向かって内に籠もる。
結果、槍なら柄が燃え、剣なら切っ先が焼ける。
そんな状態で振るわれる事を想定して作られた武器など、無い。
――否。無論何事にも例外はある。
ザインの意識は、自然と腰に差した凝った装飾の短剣に向かっていた。
この短剣はかっての居場所を出る際に、大恩ある師に餞別として渡されたものである。
なんと、ザインが握って熱を帯びても、折れも曲がりもしない大業物だ。
だがしかし、抜くわけにはいかない。
そんな都合の良いだけの物なら最初から抜いている。
旨味だけの話なぞこの世の中にあるはずもないのだ。
有り体に言って、この短剣は呪われていた。
みだりに抜けば、災いを呼ぶ。それこそザイン一人では済まない災いを。
――御師様も質の悪い悪戯をなさる。
内心の苦笑を、ザインは必死に顔に出さぬように務めた。
目の前の相手に弱みを感付かれたくない。せめてもう少し、剣が冷えるまでの時間を稼ぎたかった。
だがその弱腰をこそ、亜竜の嗅覚は嗅ぎ取ったようだった。
踏み込みが、深くなった。
折れた爪を補うように、噛み付きを多用し始める。
折れたと言っても、右前足にはまだ一本爪が残っている。むしろ連動するものが無くなったせいで、一本だけの動きが見づらくなっていた。
それでも右手の爪が少なくなった事で、左回りにさばく事には少し余裕が出た。出たのだが、その分を埋めるように長爪竜が矢継ぎ早に攻めてくる。
音が、風が、追いかけてくる。
がちん、と閉じる顎の音がする。
かりり、と一本爪が肩をかすめた。
ぶおん、と尻尾が目の前を行き過ぎる。
反転ではなく、ザインの動きを追いかけるような順転からの尾の一撃。
ザインの下がるタイミングが、僅かに遅れる。
その瞬間。
長爪竜が、跳んだ。
一瞬で眼前から巨体が消える程の跳躍力。
ここまで見せてこなかった飛び掛かりに、対応がさらに遅れる。
目の前に後足が、その先端から伸びた太い蹴爪が迫る。
長さは前足の半分以下、代わりに太さは三本分。
直撃すれば、顔に目玉がもう一個入るほどの大穴が空く。
ザインは身体を捻る。
右へ。
長爪竜も左回りに体が慣れていた。跳んだ方向が僅かに左に傾いでいる。
だから右に隙間が出来る。そこに身体をねじ込むように跳び込んだ。
衝撃。
それも、二度。
ザインを打ったのは、遅れて通り過ぎた尻尾だった。左に傾いで跳んだせいで、尾が外側に膨らんだ軌道を取ったのだ。
左肩に直撃し、ザインは弾き飛ばされて転倒する。
だが、すぐに立ち上がった。
素早く身体を揺すって確かめる。打ち身の鈍い痛みこそあれど、他に怪我らしい怪我は無かった。
幸運だったのは、長爪竜も狙って放った一撃ではなかった事だ。事故という意味ではザインにとっての不運になるが、意図されたものであれば骨が無事であった保証が無い。
何より、不運は別にあった。
長剣がうねっている。
先に曲がった場所より根元に近い場所で、逆方向に曲がっている。
二重の衝撃の正体は、回避ざまに長爪竜の蹴爪が剣をひっかけたせいだった。
適切ではない加熱が加えられた鋼は、強度が落ちる。
腕のいい鍛冶屋でも、元に戻す事は難しい。手間も非常にかかる。頼むと大抵は鋳溶かしてしまった方が早いと言われる。
今握っている長剣も、もう長くは保たない事はザインも経験上分かっていた。
――致し方ない。
息を深く吸って、吐く。
曲がった剣を、それでも真正面に構える。
長爪竜もすでに向き直り、爪先で地面を蹴立てながらザインの様子を伺っていた。
気配は興奮を増している。勝利の匂いを嗅ぎつけたようだった。
武器の変形を、亜竜は理解しているように見えた。
笑みを浮かべるように、牙を剥き出す。
その牙に、ザインは静かにに、しかしはっきりと腹を括った。
――すまない。
同時に心の中で長剣に詫びる。
次の衝突で、おそらくは再起不能になるまで使い切ってしまう事に。
ザインの手に握られなければ、この剣はもっと長く働けただろう。
――すまない。
ザインはどちらかと言えば道具に愛着を持つ方だった。
だからこそ、自らの体質が後ろめたい。
これまでに何本もの武具を壊している。
武装開拓者を辞めれば、あるいはもう少し穏やかな生活を得て、わずかなりとも壊れ物を減らせるかもしれない。
それでも、そんな生き方が自分にかなう気がしない。
それでも、他に生きる術が思いつかない。
今もまだ、生きる事を諦めていない。
目の前に、流血と死の匂いを感じてなお。
いや、むしろ感じればこそ。
執着が残る。
生きたいと、生きようと、言葉になる前の感情が湧き上がってくる。
衝動か。本能か。
どう呼ぶかは、些細な問題だった。
結局、自分は何度でもこの場に戻ってきてしまうのだ。
この熱に当てられて、心臓まで灼かれてしまった身の上なのだ。
――業腹だな。
ただそう思う。
「鉄火神よ――」
戦いの中、初めてザインが言葉を発した。