04
――ここで出来る限り、消耗させる。
倒しにかかるのは不味い。
倒せないとは言わない。過去に何度か長爪竜とは戦っており、仕留めた経験もある。
が、その当時とは状況が違う。特に、武器に関する事情が。
――剣を、保たせなくてはならない。
長爪竜と視線を合わせたまま、ザインは静かに長剣を抜いた。
そのまま、切っ先と視線を重ねて、剣先を突きつけるように構える。
息を静かに長く吐き、全身から力を抜く。剣を構える最低限に留めるように。
力んではならない。
剣が保たないからだ。
構えたザインに長爪竜が牙を剥いた。
ザインにはその顔が、満面の笑みに見える。
先に動いたのは長爪竜だった。
軽くステップしただけで、一瞬でザインとの間合いが埋まる。
風切り音を聞くと同時に、ザインは剣を縦から横に傾けながら身を翻した。
金属音と共に、重い手応えが剣を伝って届く。
長爪竜は、踏み込みながら軽く指を動かしただけだった。たったそれだけで、三本の爪が恐ろしい速さで振り下ろされたのだ。
人間と亜竜の膂力は比べる方が愚かなほどに違う。
種としては小型の長爪竜ですら、指先一本で軽々と人間を引きずり回す。爪の一撃はまともに喰らえばあっさりと肉を裂いて骨に達するだろう。
その一撃……正確には三撃を、剣で擦るようにさばきながら、ザインは向かって左回りに回り込む。
間髪入れずに、逆の前足が振り向きざまに叩き付けられる。これをさらに回り込みながらかわす。
動き出してからは正面に正対する事を避け続ける。力比べにしないためだ。
その考えを読んだように、長爪竜が全身で反転。逆方向から尾が叩き付けられる。
胴体から頭とほぼ同じ長さに達する尻尾は爪よりも遙かに間合いが長い、長爪竜にとってのもう一つの主力だ。先端は細いが、速度では爪を上回る。
これをザインは剣を掲げ、後に跳んで回避する。爪が馬上から振り下ろされる剣なら、尾は巨人の振るう鞭のようなものだ。受ければ弾き飛ばされる。
それでもびしりと言う音と共に衝撃が走った。
革鎧の胸当てを先端が掠めたのだ。
ザインがちらりと視線を落とせば、斬り付けられたような線が表面に走っている。
十分に余裕をもって跳んだと思ったにも関わらず、だ。
――思ったよりも、大きい。
見誤っていた分の感覚を修正しながら、ザインは後に跳んで着地した反動を足に溜め、素早く前に出ると剣を一杯に突き出した。
尾を振り抜いた勢いで、長爪竜の姿勢が崩れている。即座の反撃を受けない事を見越した長剣での刺突が、ザインに向けられた尻……後足の付け根に突き刺さる。
長爪竜が吠えた。
人間なら、痛みに顔をしかめた程度だろう。刺さったのはほんの切っ先、小指半分にも満たない。それでも固い鱗を抜けて、人と同じ真っ赤な血液が滴り落ちる。
ザインはそれ以上踏み込まず、剣を引き抜き素早く後退して距離を維持した。
与えた傷は先に受けていた刺突と同程度か、それよりも浅いくらいだろう。
見詰めてくる長爪竜の目は先ほどより血走って見える。襲いかかっておきながら、抵抗された事に明らかに腹を立てていた。
――それでいい。
内心でザインは頷く。
狙い通りだった。
怒りは執着を生む。
それでいてまだ脅威とは見做されていない。
逃げる獣を速さで追う事は、基本的に人間には不可能だ。
よほど鈍重そうに見えるものでも、そもそもの歩幅が違う。長爪竜に至っては脚で狩りをする俊敏な亜竜である。瞬発力も持久力も並の人間に勝ち目は無い。
勝てるとすれば、執念深さくらいか。
どれだけ距離が開いても時間をかけて足跡等の痕跡を辿り、相手が疲れて休むまで追い続ければ追いつく事は出来る。
だが生半可な覚悟と技量では無理な芸当だ。
ザインとて準備も無く、なおかつ単独では正直厳しい。
馬や大狼などの騎獣に乗っていればまた変わってくるが、魔獣を前にして乗れる騎獣はよほどしっかりと訓練された、とてつもなく高価なものに限られる。基本的に、等級の低い一介の武装開拓者が用いれるものではない。
だからこそ、先に討伐しようとした者達もみすみす逃げられたのだ。
ザインとて同じ。ここで背を向けられたら追う事は敵わない。
少しでも長い間、有利であると思い込ませておかねばならなかった。
憤懣やるかたない様子の長爪竜相手に、しばらく似たような攻防が続く。
ザインのやるべきことは決まっていた。
常に回り込み、正面に立たない。
つかず離れずの距離を維持する。
尾の切り返しと突進からの噛みつきは受けない。
爪による攻撃も、まともにかち合わずすり抜ける。
こうして少しずつ、だが確実に長爪竜の負った手傷の数が増えていく。
だが、その間にザインもまた、全身から滝のような汗を流していた。
一瞬たりとも気の抜けない集中力を維持する事は、とてつもない体力を消費する。
特に力に頼らない、触れていなすような受けは神経を摩耗させる。
ザインの脳裏で小さな後悔が点滅する。
――バンダナくらいは着けておけばよかった。
頭皮から流れ出る汗が額を伝い、目に入りかけているのだ。
動きの中で振り落とすのも限界がある。だが足を止めて拭うほどの余裕も無い。
とはいえまさかそれを、長爪竜の側が把握できるはずもない。
だからそれは、全くの偶然だった。
何度目かの尾による、拳法の裏拳にも似た全身を反転させての切り返し。
だが、その一撃は何かが違った。
――低い!
尾の先端が、ザインの膝下を狙ってきたのだ。
胴を狙われた時よりも攻撃の伸びが深いと判断したザインが、常より大きく跳んだ。
だが着地の瞬間、睫毛に溜まっていた涙が左目に飛び込み、視界が一瞬ぼやける。
反射的に袖で目許を拭って、そこではっと不覚に気付いた。
はっと我に返る。
反動をつけて跳び込むはずの足が、止まっていた。