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「……何にしろ、放置はできませんね」
「そうですね、大きくなればなるほど臭いの範囲も広がり、引き寄せる魔獣も大型の物になりますから」
「確か近づくと中から粘塊蟲が飛び出してくるんですよね。であればザインさんはそのままの位置で」
「分かりました、よろしくお願いします」
ライネが水の膜に包まれたまま杖を掲げた。
杖の周囲に幾つもの水球が生まれ、次の瞬間爆発するように無数の水の糸矢を打ち放つ。
糸矢は四方八方から餓鬼玉に突き刺さった。
中に溜まっていたガスの影響もあるのだろう、表面が次々に破裂し、同時に蛇のような細長い生物が何匹も飛び出してくる。
粘塊蟲である。
体は日に焼けていない人肌のように生白く、頭部だけが茶色の殻に包まれている。
黒い点のような目が一対、丸い口の周囲に細い針のような歯が無数に生えていた。
細長いと言っても形状の話で、胴回りはライネの腕よりも太い。
蛇で言えば十分に大蛇の域である。
生理的嫌悪をもよおす形の粘塊蟲は、しかしその殆どは引き攣るようにのたうつだけで、巣から這い出てくる事は無かった。
ライネの魔術によって、巣の中で殆ど全身を千切られかけていたためだ。
だがただ一匹だけ、バネ仕掛けのように巣から跳躍した粘塊蟲がいた。
飛び掛かったのは当然矢の発生点たるライネの方向、そしてその前に立ち塞がるザインに向かってである。
大きく歯を剥いて襲いかかる粘塊蟲に向かって、ザインが素早く一歩前に出て、爪剣を抜いた。
体の内側から外側に投げ打つように振り抜き、即座に手首を返して切り返す。
それを素早く、二度。
粘塊蟲はあっさりと空中で小間切れになって四散し、その場に零れる白い体液をザインは後に下がって避ける。
「……ふぅ」
それ以上飛び出てくる粘塊蟲がいない事を確認して、ザインは一息つく。
思った以上にライネの糸矢が効いてくれたが、それでも緊張はまだ肌の上に残っている。
ふと斜め上を見ると、切り飛ばしたはずの粘塊蟲の頭がそこにあった。
傍らの木の幹に深々と噛み付いて落ちてこない。
このしぶとさを知っていたからザインは若干執拗なほどに刻んだのだ。
細くて長いものは大抵、生命力が高い。
ライネもやがて緊張を解いて、ザインに再び礼を言ってきた。
「ありがとうございます、助かりました!」
「いえ、こちらこそ……それに、本当はライネさんなら大丈夫だったんじゃないですか」
「勿論身を守る手段は用意してますけど、出来れば近寄せたくもありません!」
「それは確かに……」
かなり真剣な表情のライネに、ザインも小さく笑って同意する。
――こういうところは、年頃の女の子だな。
そう感じた事に、どことなくザインの中でもほっとするような安心感が生まれる。
ライネの魔術の技量に、無意識の内に必要以上に気後れしていたのかもしれない。
だからこそ、ライネの人間らしさに救われたのだろう。
――であれば、俺自身もちゃんとしないと。
ザインは心の中で自分を振り返り、戒める。
必要以上の遠慮と自粛は卑屈さに繋がり、かえって他人に負荷をかける。
なるべくなら、可能な限り自然体が望ましい。
肩から力を抜くべく軽く息を吐くと、ザインは半ば溶けて泥そのものになりつつある餓鬼玉に振り向いた。
「さて、これも後始末しないと」
「後始末……土に埋めるとかですか?」
「それも必要なんですが、埋めただけだと結構長く臭いが残るので、その前に一度燃やします」
「なるほど……でも結構びしょびしょにしちゃいましたけど、大丈夫でしょうか」
「煙は結構出ると思いますけど、多分平気です。ただ、万が一延焼しそうになった時は……」
「了解です、お任せください」
自信満々に胸を叩く仕草で答えるライネに、ザインは自然と笑顔になる。
ライネが残骸から打ち込んだ水分を抜いている間に、ザインは刈り取った草や落ちている枯れ枝を拾い集め、脱水で乾かされた餓鬼玉の残骸の上に被せた。
全体が見えなくなるまで重ねた後、取っておいた枝の一本を掴み、力を込める。
程なくしてその先端が煙と共に小さくも明るい火を灯した。
「あ、なるほど。そういう使い方も出来るんですね」
「ええ。数少ない便利なところです」
この厄介な体質が発現して以降、ザインは火口箱が要らなくなった。
細長い可燃物さえ有れば、発火は自由自在だ。松明も握るだけで火を灯す事ができる。
立ち止まらずに片手で着火できるのは、地味に便利ではあった。
火のついた枝を被せた草木の上に押しつけると、さらに煙の量を増しながら徐々に火が燃え移っていく。十分に燃え広がったところでザインは小枝を火の中に放り込んだ。
ライネの脱水のおかげか、餓鬼玉はよく燃えた。
だがそれほど火は大きくならず、火の周りにライネが展開した霧によって舞い上がった火の粉も即座に消火される。後始末が順調に進んだ事にザインは小さく安堵の息を吐く。
「ぐえっ」
そして即座に嘔吐くことになる。
餓鬼玉は燃えながらも悪臭を拡散するのだ。
むしろ生の状態よりも強烈で、毒々しい臭気に変わっている。
この変化した臭気は魔獣に対する誘因効果を失っている。
それどころか、多くの魔獣にとっても悪臭に変わり、周囲から遠ざける効果を発揮する。
だからこそ餓鬼玉は燃やしてから埋めるという処分が妥当なのだ。
これを利用するべく餓鬼玉を採集して臭い玉という道具が作られはした。
火を着ける事で魔獣を遠ざける、所謂忌避剤であるが、原料のせいで生産数が少なく、正直人気も無い。臭いが強過ぎて対策しておかないと使用者が行動不能になるケースすらあるからだ。
同じ名前の道具が蛇菖蒲や針蓬という植物からも作られており、一般的にはこちらの方が使われている。
「げほっ……こりゃあきつい」
「ザインさん、大丈夫ですか……?」
「しんどいですが……ちゃんと燃え尽きるまで見張らないといけませんから」
心配そうなライネに、咳き込み涙まで浮かべつつザインが答える。
森の入口で火を使っている以上、最後まで面倒はみなくてはならない。
また、この臭いも全ての魔獣を遠ざける訳では無い。その意味でも火の側から遠く離れる訳にはいかなかった。
「……もう、見張ってればいいんですよね、この後は」
「ええと、基本的には」
「であれば、てい!」
餓鬼玉から三歩の位置に立っていたザインに、背後から衝撃がぶつかる。
ただし、軽い。
そして直後に、鼻と喉をいじめていた強烈な臭いが、消えた。
「あの……ライネさん……」
「おえぇぇぇぇ……いくらザインさんでもこれをずっと嗅いでるのは無理ですよ……」
「あなた一体、何をなさっていらっしゃるんで……?」
ライネまで吐き気を零しているのは、一瞬水の膜を解除してから張り直したためだ。
だがそれよりもザインの言葉遣いがおかしかった。
奇妙に硬い。おまけに若干震えてすらいる。
その背中に、何かが密着していた。
ローブの分厚い布と鎧の硬い皮革に阻まれてなお、柔らかさと弾力、そして仄かな体温が伝わってくる。
実際のところ、体温は錯覚である可能性が高い。
高いのだが、錯覚でも感じている事は変わりない。
肩甲骨のやや下側ちょうど真ん中当たりに、明らかに盛り上がった部位が押し当てられている。
いつの間にか、後から前へと手が回されていた。
回されたその左手には、黒い長杖が握られている。
「水の膜を維持するなら表面積小さい方がいいですから。当たり前じゃないです?」
「だからって、抱きつくことはないでしょう!」
ザインの声は、ほとんど悲鳴だった。
だが対するライネの声には、何の照れも動揺も見られない。
「ええと、くっつかれるのは不快ですか?」
「不快じゃないから困ってるんですよ!」
ザインは反射的に正直な感想を叫んでいた。
そこは不快だと言えば状況を打開するきっかけになったのでは、という理性の声を、嘘でも不快とか言えるはずがない、という本能の叫びが打ち消す。
ザインは混乱していた。
かってない激しさで混乱していた。
リザとの初対面でも激しく動揺したように、ザインには異性に対する免疫が異常に少ない。
リザに比べれば体の線が出てないだけライネの方が意識はしないで済んでいたのだが、意識しないで済む境界線をライネから踏み越えてこられたのではどうしようもない。
はっきり言って、記憶の中で女性とここまで密着した経験自体がザインには無かった。
母親に抱かれた記憶すら、見渡す限りの炎と苛烈な修行の中で摩耗しきっていて、掘り返しようもない。
その理性は引き続き、これは悪意を伴う何かの罠ではないのかと叫ぶ。
対する本能は必死に耳を塞ごうとしている。少しでもこの時間を長引かせるために。
その意図にさらに理性が警戒と呵責を加えてくる。
鼠の回す滑車のような、止むこと無き思考の無間地獄。
「すいません……本当にこのままだったら膜の外に放り出された方がまだマシなんで……ともかく一度、離れて、もらえませんか……?」
結果として、息も絶え絶えにそう言うのが精一杯だった。
「あの悪臭の方がマシっていうのはかなり傷つくんですが……仕方ありませんね……」
「ごめんなさい本当にごめんなさいでも無理ですごめんなさい……」
すっと背中から感触が離れたのを機に、ザインは半ば止めていた息を大きく吸い込み、吐き出した。極度の緊張から逃れられた事による凄まじいまでの開放感。
そしてその隙を突くかのように、ごりっと左肩に硬いものが押しつけられる。
隣り合うように並んだライネの頭だった。
「仕方ないのでこの辺で妥協してあげます」
「ライネさぁん……」
それでも密着する面積が大分少なくなった事で、まだ大分呼吸はしやすい。
「……あのですね、こんな事を聞くのは失礼かもしれませんが……」
「多分失礼なんでしょうが聞いてあげましょう。なんですか?」
左腕にくっついたまま何故かいつもより偉そうな態度のライネに、ザインは正面を向いて視線を合わせないままで、恐る恐る質問を投げる。
正確には合わせないというより、合わせられないという方が正しい。
「ライネさんは普段から誰にでもこんな感じなんですか……?」
ザイン的には、ライネのこの距離感は異常である。
相当に異常である。
これがライネの平常運転なら、自分の方でかなり警戒する必要がある、気がする。
だがライネの返答は予想と違って心外そうであった。
「それは本当に失礼ですね」
「申し訳ございません……」
「普段の生活で男性とみだりに密着するような事はしません。勿論必要性があると判断した時だけです。仕事中は余力を確保するべく効率的に動くに如くはありませんから」
「……以前組まれてたパーティには、男はいなかったんですか?」
「いえ、私以外は全員男性でしたね」
「……仕事中にこれくらい最接近する必要性は、発生しませんでした……?」
「発生した可能性はあります。仕事中の些事は一々憶えてませんけど」
――やっぱり警戒しないといけない奴だこれ。
ついでにザインの基準で考えるなら、ある種の誤解を抱いた同業者もいたのではないだろうか。
半ば無理矢理抜けたパーティのその後を思って、何故かザインの背筋が震えた。
「……必要性があっても、止めた方がいいと愚考いたします」
「魔術士として非効率な方針は却下します。というかですね」
何かの気配を感じて左を振り向くと、ライネの視線が真っ直ぐにザインの顔を見上げていた。
「この程度の接触で仕事中に不埒な思考に陥る相手とは、長く組んで仕事はできません」
「分かっててそんな風に男を試すもんじゃありません!」
思わず叫んでしまった。
ザインの思った以上に、ライネは質が悪かった。
「手から離れた矢に道理を説いても、自分で避けてはくれないんですよ!」
思わず肩を並べたまま説教じみた言葉が出る。
だがライネはにっこりと笑って言い返す。
「それは寄ってくる相手が矢以下という事ですよね? 言葉で言って分からないんですから、叩き落とされても文句は言えないでしょう」
「必ず百発百中で落とせるとは限らないでしょう!」
「あら、落としますよ。魔術士ですもの。その程度の備えは我が身に仕込んでます」
優雅にすら聞こえる言葉に、ザインは腹の中がぎゅうっと縮み上がったように感じる。
――この人、罠だ。しかも致命的な罠だ。
ライネは魔女であった。
魔術士とは違う意味の、魔性の女だった。
「でも良かったです」
微笑みを崩さずにライネが言った。少し低い、囁くような声で。
「……何がですか」
「ザインさんは、ちゃんと言葉で言ったら避けてくれる矢のようなので」
「そもそも今全力で離れたいです」
「ひどーい! うら若き乙女になんてことを!」
「自分で言ってたら世話ないです」
「なんですか、長い付き合いになるかもしれない相手に向かって失礼な」
「うーん……」
ザインは唸った。
正直に言うと今この瞬間は今後一緒の仕事を請けるのは控えたいという気持ちがある。
だがしかし、ライネの次の言葉で違う唸りが出てしまう。
「……でもよかった」
「はい?」
「ようやく、ちょっとくだけてきましたね」
「ぬぐ……」
「ザインさん、最初に会った時から思ってました。私以上にはっきり線引きしてる人だって」